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結人Ⅳ

 違和感があった。

 琴音との三番勝負を終え、次のアクションについて考えたところで、前回の世界での断片的な記憶と現在の間に深い海溝のごとき深淵が不気味に口を開けている気がした。

 何かが足りない。こんなものじゃない。

 でもそれが何か分からずにいた。

 秋の皮を被った冬の訪れが徐々に身に迫る日々の中で、居心地の悪さだけが募る。


 和夫さん達との定例の折、僕は最近気になっていたことを和夫さんに訊いてみた。

「そういえば、最近若菜ちゃんを見かけない気がしますが、何かご存じですか?」

 和夫さんの、ぽかんと口を開けた珍しい表情が僕を不安にさせた。

「そうか……聞いておらんかったか……あの娘は九月からは街の分校に移っておるよ」

 初耳だった。

「そう……なんですか?」

「結人さんが村に来た頃には既に決まっておったことじゃから、本人から聞かされておるかと思っておったが、いやすまん、共有しておくべきじゃったな……耄碌しておる」

「いえ……」


 夜、温かい湯に浸かりながら、若菜のことを考えた。彼女とはもっと色んなことを話していた気がする。多分、何かが変わってしまった。

 頭が軋む。深海の底のような冷たさが薄い膜を隔ててすぐ隣にあるような気がした。

(冷たさ……)

 誰かが、僕に何か毒々しい緑色の棒のようなものを差し出していた。

 

 ――グリーンスムージーアイス。

 

 僕は浴槽の中から勢いよく立ち上がった。湯が飛沫を上げ、髪や全身から垂れる水滴の音だけが空しく浴室内に反響した。

 僕は今回の世界で、若菜からアイスを貰っていない。

 あれはいつだ?確かバス停で落ち込んでいる僕を励まそうとして、若菜はあの毒々しいアイスを僕にくれた。そしてあの後、四人で街に繰り出した。

 なぜだ?そうだ、若菜が千種と琴音を案じてそれを企画した。さらには僕の琴音への罪悪感にも配慮して禊の場を提供してくれた。

 夜のバーベキュー。線香花火。寄り添う三人。文乃さんの若菜への温かな眼差しと、僕へ向けた蠱惑的な眼差し――

(祭祀の日はどうした……?)

 今回、祭祀の日には千種が妍の巫女として久々にお神乳の奉仕のお勤めをした。希望者の数に対して千種一人では限界があり、僕は遠慮をしたが……前回、確か若菜がいたはずだ。

 なぜ?どうして彼女は祭祀に参加する気になった……?

 

『三人であったかい気持ちになれたのは、きっと結人さんのおかげなんだよ』

 

 そうだ、若菜は人との深い関係構築を恐れていた。だが千種と琴音の仲を取り持つことで、再び歩み寄るきっかけを掴んだ。

 …………。

 僕は息ができなかった。それでもやがて、ゆっくりと空気が抜けるかのように、地の底へと落ちるような息を吐いた。

 ――長く、冷たく、淀んだ息を。

 脱力し、生温い湯舟に再び身を浸した。

 僕は今回、琴音の問題の解決に必死になるあまり、若菜と二人の友情の深化を、延いては若菜の成長の機会を奪ってしまった。

 おこがましい考えかもしれない。でも、過去の可能性を知っている身としては、身につまされる。

 

(文乃さん……)

 

 僕は今回、彼女とも会話をしていない。僕は彼女の仕事を手伝うはずだった。その可能性も失われてしまった。

 掴んだと思った明るい未来へ続く糸が、色彩を失い、ぼろぼろと手の中で崩れていく。


 僕はどこに向かえばいい……?


 冬になり、僕は村の人達の好意に甘え続けることにも気が咎め、リモートで出来る仕事をすることにした。

 それはソーシャルゲームの案件だった。以前にもいくつか、そういう案件はこなしたことがあった。

 ゲーム、特にソーシャルゲームはボラティリティが高い。つまり、当たり外れが大きい。しかし技術的には最先端のものが求めらることが多く、開発費がかかる。その傾向は近年益々強くなっている。

 他の案件以上に正解がない中、仕様変更が繰り返され、スケジュールも何度も切り直される。スケジュールが伸びればトレンドも変わる。(イタチ)ごっこなのだ。

 ボラティリティの高さの一方で開発費が掛かる分、QA、つまり最終工程のテストに割ける予算は必然的に限られてくる。ここの調整がPMとしては結構心理的にキツイ。

 ゲーム・エンタメ業界は全体的にやりがい搾取的な傾向が強いが、テストの領域はそれが特に顕著で、友人からはよく愚痴を聞かされていた。

 恐ろしい低単価を提示しておいて、バグが出れば責任が追及される。テスト業務は介護だと、その友人は言っていた。開発者の人為的なミスまで含めて拾えるように動くことが求められる。

 このあたりは特にレガシー系の大手企業でその傾向が強い。マインドとしては、かつての予算的にもスケジュール的にも潤沢な環境下でじっくりと品質担保するような職人的な気質が根強く残る一方で、ソーシャルゲームの台頭によりビジネス的な要請が強くなってきたあたりから、外注化が進み、コストが抑えられ、しかし自分たちが現場にいた頃と同じ品質を当然のように要求してくる。品質管理の担当者はビジネス的な感度が低く、ビジネス感度が高い上流の人間は責任転嫁をすることしか考えていない。地獄だ。

 そして僕はPMとして、そのようなステークホルダ間を橋渡しする。そう、蝙蝠だ。


 春になって、どうにかこうにかリリースに漕ぎつけ、運用フェーズに入る頃には、僕は引き継ぎ相手の準備を雇用主に依頼し、撤退の準備を始めた。

 実際、そうした節目でチームを離れるPMは多い。擦り切れてしまうのだ。

 もし千種が村に残って時々僕に声をかけてくれなかったら、僕は引き継ぎなんて蹴り倒して()()()いたかもしれない。

 お互いに忙しくなり、彼女との会話の機会は減っていたが、それでもその存在は村での温かな日々の象徴として、僕の良心を守ってくれた。

 一通りの引継ぎを済ませ、後始末を済ませた頃、あの季節がやってきた。

 紫陽花が萎れている。

 

 ある日、千種から連絡を受け、僕は遠野邸へと足を運んだ。

 千種、すみれさん、燈子さん、志保がいた。確か前回はもうワンクッションあった気がする。池のほとりで千種が泣いていたような記憶と、燈子さんとの対談の記憶が朧げに残っている。今回はそれがなかった。たまたまなのか、あるいは千種と琴音の間で育まれた絆が、琴音から千種への早期の開示を促したのかもしれなかった。

 雨降って、地固まる。あの時、千種や琴音が流した涙は無駄ではなかった、そう思いたい。

 すみれさんから事情を聞いている最中、琴音が自室から階段を下りて僕らのところへとやってきた。

 

「あ…………結人さんだ……」

 

 見たことのない表情だった。そこにはもう、かつての警戒心も、怒りもなかった。瑞々しさも。

 彼女は憔悴していた。終わった世界では、彼女は部屋に引きこもったままで、僕は顔を見ることさえ出来なかった。

 だが今の目の前の、風の一吹きで花びらが散ってしまいそうな彼女の姿を前にして、「良かった」などとは到底思えなかった。

 確かに以前よりは回復の余地が感じられる状況ではあるかもしれない、それでも……

 彼女はゆっくりと僕のところまで歩いてきて、僕も応じるように腰を上げた。

 ぽん、ぽんっと、琴音が僕の肩のあたりを叩いた。

「やっぱり……結人さんが特別だったよ……」

 僕は、どんな表情を返していいか分からなかった。

 すみれさんが琴音を席に促し、紅茶を勧めた。ラベンダーアールグレイの、良い香りがした。それをゆっくりと、琴音が吸い込む。少し、さっきまでより目や表情に色が差したように見えた。

 

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