琴音Ⅵ
あの夜、私はプールにいた。顧問の八木田先生から鍵をもらっていて、夜でも練習できるように特別に配慮してもらってるから。いまどきそんなのバレたら大問題なのかもしれないけど、私にはありがたい。
お母さんはたまに朝まで仕事が立て込むことがあって、そういう時に寂しくてこっそり泳ぎに来たりする。
あとは……今日みたいにどうしようもなく、気持ちがぐしゃぐしゃになった時。
管理室で照明のスイッチを入れて、まずは水面をチェックする。夏は特に大きなカナブンが浮いてたりして、泳いでる時に体に触れたりするとサイアクだから。そういうのを最初に網で掬う作業から入る。
一通りチェックしてからいよいよ水の中に入ると、最初はひやりと冷たいけど、段々とあったかく感じて、それがなんだかほっとする。
目を閉じると、虫と、カエルと、微かな水の音だけが私を包む。見上げると星空。私は夜のプールが好き。一番、好き。
ウォームアップで400メートルを流した後、でもその日はもうそれ以上泳ぐ気にならなかった。でも夜のプールでは、そういうのは珍しくない。水にぷかぷか浮いていると、耳の穴から嫌なことがするする流れ出していくような気がする。
人の足音がした。
私は咄嗟にプールの壁際に寄って身を隠した。悪い人じゃないと思うけど、いざとなればアラームまで走ればいい。そう思って様子を窺っていると、声が聴こえてきた。
最初に何か呟いていたのは聞き取れなかったが、その後あろうことかフェンスを登ってこちらに下りてきたような音がした。
足音が近づいてくる。心臓の音がうるさい。
足音はしばらくの間あたりを見回る様に続いた。
(はやくどっか行ってよ……!)
そんな思いが通じたのか、足音はフェンスの方に向かい始めた。でも、途中で足を止めると、その場に座ったような気配がした。
(……なに?……バレてる?)
「なぁ、ヌァルー。僕で合っていたのか?」
(なんで寄りによって……)
それは月城さんの声だった。すぐにでも立ち去りたいけど、水の音でバレてしまいそうで身動きがとれない。
「ヌァルー」というのはなんだろう。なんだか変な発音。イマジナリーフレンド的な?
「彼女らを救う役目を担うのは、本当に僕で合ってるのか?」
「彼女ら」というのは、私達のこと?村長さんに頼まれたお役目のことを言ってるのかな。それにしても――
(すごく沈んだ声……)
初めて聴いた声だった。いつもはもっとこう、わざとらしく落ち着き払って、わざとらしく笑って……今、彼はどんな顔をしてるんだろう。
「俺は屑だ」
……え?
「昔から何も変わっていない。人を傷つけてばかりだ」
……。
「だからこそ心構えをしたつもりだった。琴音を助けるのは俺が社会に繋がるためで、彼女の為ではないと。そう思うことで、無意識に狡猾なエゴの入り込む余地を塞いだつもりだった」
……。
「でも結局、俺には想像力が足りなかった。琴音も、千種までも、傷つけてしまった。かけがえのない二人の友情に、亀裂が入るような事態を、こんな下らない男がもたらした」
何かを叩くような鈍い音がした。私達のことが呼び捨てなのは気になるけど、でも独り言ならそんなものかも。彼からしたら、私達なんて本当に子どもなんだから。
「消えてしまいたい……」
耳鳴りがした。ぐしゃぐしゃした音が段々と大きくなって、私は思わず耳を塞いだ。声が聴こえてくる。「ミコノカケーだからってチョーシ乗んなよ!」「うざい」「母ちゃんがバイタノコには近づくなって」「うおっ、やばっ、水着弾け飛びそうじゃん」「競泳していいカラダじゃねーよ、えっろ」「ゼッタイ中身ドスケベだよ」――
(消えちゃいたいのは……私……)
「俺は、この村にいて良い人間じゃない……いや……そんな場所、もうこの世界のどこにもないのかもな……」
また何かを打ち付ける音がした。いつもそんな風に、自分のこと罰してるの……?
「せめて、あの二人の関係だけでも修復したい。俺がどう思われたっていい。どうせ流れ者だ。でもどうすればいい……?」
(上辺だけじゃ……ないのかな……)
「対話を続けるしかない。間違ってるかもしれない。今回のように、より深刻に彼女を傷つけるかもしれない。自己満足かもしれない。でも――」
プールの照明に蛾が舞い寄ってた。光がちらちらと、水面と一緒に私をかき乱す。
「そうやって皆が距離を置いて、孤独になるのは彼女だ」
(本当に心配してくれてる……?どういうつもりで……?)
「少なくとも、あの頃の俺はそうだった。傷ついて精彩を欠いた俺になんて、誰も興味はなかった。そりゃそうだ、誰だってキラキラしたものを見ていたい。……若菜みたいな存在を」
(キラキラしたもの……彼にとっては若菜……私にとっては……)
それから、月城さんはまたフェンスを越えて去っていったようだった。
私にはもう、何がなんだか分からなかった。
三番勝負が終わった後、私はあの原っぱにいた。春になると、蓮華やすみれの花がたくさん咲いて綺麗だ。
「いつもここで、よく一緒に走り回ったよね」
私は少し前から近くで私を見つめていた気配に、そう語りかけた。風に乗って流れてきたラベンダーの香りで、その主が誰か分かっていた。
振り返って私がなんとか笑うと、彼女も同じように引き出しから微笑みを引っ張り出して、隣までゆっくりと歩いてきてくれた。
「あの頃は、いつも千種が私の手を引いてくれてたよね」
「そうだっけ?懐かしいね」
今日も風が強かった。千種の長い髪が流れて、私の頬をくすぐった。
「琴音ちゃん――」
「待って」
千種の言葉を、気づくと私は遮っていた。でもすぐに自己嫌悪に陥る。やり場のない感情に拳を握りしめた。
「ちがうの、ごめん……遮るつもりなんかなくて……でも、千種に謝って欲しくなんかなくって……」
「……」
千種がそっと私の袖を握ってくれた。それから、うっとりするような滑らかな指が、私の手の甲を撫でた。それだけで、私はもうダメだった。
「ごめん……千種……いつも……何度も……私、全然成長しないね……」
「違うよことちゃん……私がバカだから、ことちゃんのこと何度も傷つけちゃって――」
「そんなことない……千種は何も悪くない……私が勝手に傷ついてるだけで……私……ほんとにもう――」
(消えてしまいたい)
結人さんの言葉が降ってきた。消えてしまいたい彼が、消えてしまいたい私を、助けようとしてくれた。私はもう、託されてる。
「ごめん、また後ろ向きなこと言いそうになっちゃった……」
私は溢れそうになっていた涙を袖で拭うと、千種の方を見て笑って見せた。
「私さ、きっと、千種に置いてかれちゃうのが怖かったんだよ」
「そう……なの……?」
私は頷く。
「私には理解できないようなことに、平気で立ち向かっていって、私が知らない何かになっていくのが……きっと怖かった……」
千種はさっきからずっと、私の手を握ってくれている。私は立っているのが辛くなって、腰を下ろした。
「結人さんだったら、いいよ」
「……え?」
「千種が好きになっても」
千種の視線が落ちるのが見えた。飴玉がころころ転がるみたいに。
「……そういうんじゃないよ……それにきっと、結人さんはわたしみたいな子ども、相手にしないよ……ことちゃんこそ、どうなの?」
「はい?」
反転攻勢。
「すごく、仲良くなってたみたいだったから」
「ふふっ……」
私は思わず笑ってしまった。それじゃあまるで――
「ぜんっぜん。タイプじゃないし。そりゃ今回のことではすごく感謝してるし、信用してもいいのかなって、ちょっと思ってるよ?お兄ちゃんみたいだなって」
遠くで子どもの声がした。
「でも、そういうんじゃない。私はもっと年近い人の方がいいし、可愛い感じの方がタイプなんじゃないかな……よくわかないけど……」
「そう……なんだ……」
「そう、千種みたいな」
「へ?わたし?」
千種があっという間に赤くなる。本当にかわいい。
「うっそー」
「もぅ……」
千種が拗ねたように顔を膝の間に埋めていた。そういう仕草も可愛かった。
「でも、千種が特別なのは本当」
千種は私の方をぼんやりと見つめた後、悪戯っぽく笑った。以前はこんな表情、しなかった気がする。
「じゃあ、付き合っちゃう?」
そう言われて、今度は私が赤面する番だった。
「ばっ……」
「じょ、冗談だよ……そんなに照れられたら、反応に困っちゃう……」
私は小指と人差し指分くらい、千種に距離を詰めた。
「千種がどこに行っても、誰といても、私は千種の友達だから……」
「うん……ありがとう」
こんな風に言ってても、進学して、就職して、結婚?したりして、段々と疎遠になっちゃうのかもしれない。そんなこと、今は全然想像できないけど。
でも、たぶん私達は大丈夫、そんな気がした。遠く離れていても、きっと今見てる景色のことは忘れずに私達の中に残っていて、困難に遭っても、楔のように繋ぎ止めてくれる。
それは、あの変なオジサンのおかげ。いや、おにぃさんか。
「ねぇ、千種」
千種の眼差しが私の頬を柔らかく撫でる。
「手、あったかいね」
微かにさざめいた手の感触は、私の体中の血管を巡り、心臓をやさしく締め付ける。
「ことちゃんの手も、あったかいよ」
熱を交換する。それだけで、こんなにも安心する。
「……結人さんも、誰かにこんな風に手、握ってもらえてるのかな」
私はあの夜の彼のことを思い出して、ふと心配になった。
「……」
池の向こうには、彼のいるボロアパートがある。今は何をしてるだろう。
「握ってもらえてるといいよね」
「……うん……」




