琴音Ⅴ
その夜は宴会だった。みんな今日の三番勝負の話をしてくれた。嬉しかった。でも段々と疲れてきて、僕はまた縁側で風に当たった。以前に比べると風も、虫の声も、やさしくなってきているような気がした。秋が近い。でも意識していないとあっという間に冬になる。桜みたいに一瞬で儚く散っていく。
そんな風に思いながら夜の空を流れる雲を見つめていた僕の首筋に、ひやりとした感触が触れ、背を波打たせる。若菜かと思って僕は顔に抗議を貼り付けて振り返ったが、そこにいたのは琴音だった。そういえば最近は若菜の姿を見かけない。
「あ、ごめん……ちょっとビックリさせようと思っただけだったんだけど」
僕は慌てて表情を琴音向けに変えた。
「ごめん、若菜ちゃんかと思って、つい若菜ちゃん用の顔しちゃった」
「ふっ、なにそれ、器用だね」
「器用な人はちゃんと振り向く瞬間から遠野さん向けの顔をしているよ」
「琴音でいいよ……大人って、そういうもの?」
「たぶんね……まともな大人はそうだ。僕のことも結人でいい」
彼女は僕の隣に人一人分くらい距離を開けて座った。
「今日のこと、あらためて、ありがとうございました」
「とんでもない。大人ってことでいうと、大人気なかったかもしれない。君に花を持たせるべきだと思ってる人もいるだろうね」
「私はー、そんな風には思わないけど」
彼女は自分のつま先を見つめながらそう語った。
「そうだね、それじゃあ意味がないと思った。こういう時、大事なのは過程だ。剣道の試合では、身長差もある女の子相手に、僕は全力で当たった。客観的に見れば、僕が勝って当たり前だ。でも、結果は本当に紙一重だった。正直、運の差だ。琴音さんは僕にそこまで迫ったんだ。弱いとはいえ、闘争心を剝き出しにした大人の男にね。十分に戦える」
それから彼女の方を見た。澄んだ、湖面のような美しい瞳がそこにあった。
「それを知って欲しかった。君は何かを恐れる必要なんてない。琴音さんの肉体と精神は、君が思っているよりずっと強くて、間違いなくそれは君のモノだ……それでももし、また忌々しい誰かのイメージが訪れるなら、その時は誰かをそのイメージの世界に呼べばいい。千種さんでも、すみれさんでも、もちろん僕でも。彼らをぶん殴ってから南極送りにしてあげるよ」
「南極送り?」
なに言ってるの?彼女はそういう表情が板についている。
「頭を冷やしながら、アデリーペンギンに突つき回されればいい」
「結人さんって、実は結構ヤバイよね」
いけない。昼間に闘争本能を刺激されたせいか、粗野な部分が顔を出してしまった。話題を変えよう。
「それはともかく今度はギャラリーとして、泳いでる姿が見たいな」
彼女が微笑む。等身大の笑顔だ。つい、アパート前で糾弾された時の目を思い出した。遠いところまで来たものだ。人は分かり合える。今回は運が良かっただけかもしれないが。
「なんだか、お兄ちゃんみたい」
兄か。先生の次はお兄ちゃんときた。僕は不思議な感覚になった。僕は一人っ子だし、あまり兄的に器用に先回りして面倒を見るような立ち回りは不得手な自覚があるからだ。ただ、もう少し大きく捉えるなら思うところはある。
「お兄ちゃんっていうのは、ほとんど言われたことがないから分からないけど、でも君たちにどういうスタンスを取るべきかは、いつも難しいと思ってる。このまま、話しててもいい?」
「どうぞ」
彼女の了承も得たことなので、僕は少し今の気持ちを言葉にしてみることにした。
「好きな小説で、三十四歳の男と、十三歳の女の子がひょんなことから一緒に旅をしたりしながら友情を育む物語があるんだ」
一度彼女の方を見る。真剣に聞いてくれている。イイ子なんだ。
「彼はある時、少女に言う。自分はものわかりの良いオジサンやおにぃさんになるつもりはなくて、自分たちはある意味で対等で、助け合うことができるんだって」
背後で子どもが畳の上を走り回る音がする。まるで別世界だ。
「もちろん、二人の間にはそれまでに築いてきた信頼関係があるから、そういう風に言うのは全く違和感がない。でも、僕の場合は十四離れた琴音さん達に対して、どちらかというと、物わかりの良いオジサンやおにぃさんでいるように意識しているかもしれない」
「そうなの?」
「捉え方の問題だけどね。もちろん、説教したり、道を示してやろうなんておこがましく考えてるわけじゃない。でも僕みたいに不完全な大人は、普通に接しているだけで勝手に君たちをリスペクトできるし、対等に見てしまう。でもそれが不適切な場合もある。僕はね、自分たちは対等だと言いながら、上に立つ側がその論理を自分に都合よく使って相手を搾取するようなことを常に警戒してるんだ。それは僕がそうされたから。家庭であったり、仕事であったり、そういう場面で。それに……無意識に僕自身がやってたこともあるだろう。とうてい対等になれない場面で、対等であるという前提を盾に、相手を追い詰めるようなことを、したくない。だからどうってことじゃないんだけど、つまり何が言いたいんだろうな……」
僕は段々と分からなくなってきた。僕の悪いところだ。
「そうだな、つまりは、対等性をちらつかせる大人の男には気をつけた方が良いって事かも。お兄ちゃんみたいな男だって、男には違いない。こんなことを言うのは矛盾してると思う。僕は琴音さんに男性への苦手意識を払拭して欲しいのに。でも今の君になら言うべきだと思った」
琴音はまっすぐに庭の方を見つめ、何か考えているようだった。
「私には、まだよく分かんない」
それはそうだろうと思った。
「でも、結人さんはやっぱり特別だよ。村に、そんな風に言ってくれる男の人、いないし。だから私、やっぱりソトに出たい」
琴音のほつれた髪が、夜風に揺られていた。
「僕にはこの村はそんなに悪くないように見えるけどね。むしろソトの方がずっと……」
「それは結人さんがソトから来たからなんじゃない?」
「その可能性は、もちろんあるけどね」
確かにバイアスが掛かっているのかもしれなかった。
「ま、分かんないけどさ。でも、実際に自分の目で見てみないと分かんないだろうし」
「それはそうだ。もちろん、ソトに出ることに反対ってわけじゃない。美化し過ぎないで欲しいだけなんだ」
「そうだね……」
彼女に不適切な眼差しを向けた彼らも、ソトの人間なのだ。
「結人さんって、いつもこういうみんながいる場で、端っこの方にいるタイプでしょ」
ふと、琴音が話題を変えた。そしてそれは当たっている。
「そうだね、村の皆さんは良くしてくださるし、不快じゃない。でもそもそも賑やかなところが苦手なのかも」
彼女はトランクに荷物を詰めるみたいにぎゅうと膝を抱えながら、僕の方を見た。
「だと思った……私も一緒だから……」
彼女は若菜や千種に比べると、僕に近い存在なのかもしれない。その不器用さには共感を覚えるところがある。もちろん、彼女は美しく、鮮烈で、きっと老若男女を問わず多くの人間が彼女に夢中になる。僕とは全然違う。でもそれ故の苦難もたくさんあるだろう。それは僕には経験し得ないことだ。良くも悪くも。
「僕なんかでよければ、いつでも話を聴くよ。さっきの小説の話、助け合うことが出来るって部分は正にいまもそう思ってる。琴音さんは僕にとってもいい刺激になってる。アパートの前でのことは忘れられない」
「あ、あれは……ほんと、ごめんなさい……あと、公園でのことも……」
「いや、違うんだ。本当に嬉しかったんだ。もちろん、ガツンと殴られたような気持ちはした。でも、君はちゃんと僕と会話してくれた。もっと、捨て台詞だけ吐いて嘲笑しながら去って行かれるようなケースの方が多いんだ。君はやさしい」
そういうと、琴音はそっぽを向いてしまった。あまり内面的なことを褒められ慣れてないのかもしれない。
「だから、というわけではないけど、千種さんのことも責めないであげてほしい……あれは僕が迂闊だったし、彼女は彼女なりにすごく苦しんでるんだと思う。釈迦に説法かもしれないけどね」
「そうだよ、迂闊だよ……でも――」
そこまで言うと琴音はかぶりを振り、ポニーテールがぶんぶんと揺れた。
「なんでもない。……千種にはちゃんと謝るから、心配しないで」
僕は月を見上げた。この結果がどう結実するだろう、そう考えた。でも、琴音とこうして交流する中で、僕は彼女にこの先起こることをただ静観することが出来るだろうかと、不安になった。
それから数日経ったある日、夜の散歩をしていると、またプールに灯りが点っているのに気づいた。水の音がする。誰かが泳いでいた。でもなんとなく、僕はそれが琴音のような気がした。
金網越しに見ると、水しぶきが上がっていた。飛沫とともに、滑らかで健康的な腕が初秋の夜の空気に線を入れていた。僕はその手を何かに喩えようとして、でも何も浮かばなかった。それは他ならぬ生きた十八の少女の腕だ。それ以上に美しいものなんてない。若さを賛美してるわけじゃない。二十八の女性の腕にも、三十八の女性の腕にも、それぞれに美しさはある。ただ僕は彼女のことを、最近少しは分かるようになった。だから、美しく映る。
バックで泳いでいた彼女はやがて糸が切れた様に動きを止め、ぷかぷかと浮かんだまま、月を眺めているようだった。月に照らされた横顔と、水にぬれた水着姿は、なんだかこの世のものとは思えなくて、目を逸らす気にすらならなかった。
しばらくしてプールサイドに上がった彼女が、僕の存在に気付く。しばしぼんやりと見つめ合った後、口を開いた。
「不審者」
僕は何も言えず、肩をすくめて見せた。
「ここのプール、非常用のアラームあるんだけど、知ってた?」
「知らなかった」
「鳴らしちゃおっかなー」
僕はもう一度肩をすくめると、背を向けた。
「待って……こっち、きてもいいよ。見たいんでしょ?泳いでるとこ」
気恥ずかしそうな表情は、どこか千種を髣髴とさせた。もし僕が彼女の兄なら、二人は姉妹のようにも思えた。なぜだろう。
僕はあの日のように金網を乗り越え、ザラついた地面に着地すると、プールサイドに腰を下ろした。彼女を見上げる形になった僕を、琴音が見つめる。視線が合う。月と同じくらい白く丸みを帯びた肩についた水滴が、彼女の呼吸に合わせて震えていた。
「……エロい?」
意外な彼女の言葉に、僕は呆気にとられた。試されているのだろうか。分からない。でも、なんとなく浮かんだイメージを伝えてみた。
「トビウオみたいだ」
「ふふっ……ふんっ……なにそれ……サイアク……」
最悪ということはないと思う。
「ありがと。泳ぐね……リクエストある?」
「なんでも……それだと困るなら、やっぱりクロールかな」
「わかった」
それからするりと舞い降りるように水の中に身を浸した琴音は、水生動物のように滑らかに身を捩ると、壁を蹴って泳ぎ始めた。
しなやかで、鋭く、無駄がない。彼女はやはり、水から生まれてきたんだと思った。とても自由な感じがした。




