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琴音Ⅳ(後編)

 夕暮れ時、最後の大一番である剣道試合は村の体育館で行われた。

 僕は濃紺、琴音は白の道着を着込んでいる。

 和夫さんは言っていた。彼女は天才だと。

 それでもブランクはあるし、あくまで小学生時代の話だ。僕はギャラリーが醸し出す騒めいた空気の中、怖気づきそうになる気持ちを、目を瞑り、深く息を吐くことで御した。

 でも防具を身に着けてしまうと、不安な気持ちは水が引くように落ち着きを見せ、ダムの底に独り立ち尽くしているような気持ちになった。

 あれだけ身に纏わりつくように重く感じていた防具は、この一ヶ月間の集中的な鍛錬で、すっかり体に馴染んでいた。

 僕と琴音の準備が出来たことを確認すると、和夫さんが頷く。

 提げ刀の姿勢で僕らは互いに向かい合うと礼をし、帯刀して場内へと足を踏み入れた。

 一歩、二歩、三歩……そして竹刀同士を突き合わせ、蹲踞(そんきょ)の姿勢にしゃがみ込む。水を打ったような静寂。

「始め!」

 和夫さんの合図と共に、僕らは立ち上がる。戦いの火蓋が切って落とされた。

 琴音の鋭い声が場内に響く。

(動じない)

 その気持ちを載せ、僕も腹の底から重い水のような声を出して応じる。

 互いに剣線を抑えるようにしながら睨み合う。勝負は一瞬で決する。僅かな油断が命取りだ。

(……え)

 そう、僕は甘く見ていたのだろうと思う。どれだけ琴音が天才と言われようと、身長差とリーチの差は大きい。この間合いなら、琴音はまだ打ち込んでこないか、打ち込むにせよ予備動作があるはずだと。そんな心の隙を彼女は見逃さなかった。

 2オクターブの跳躍。そして「ド」の♯から「ソ」の♯への流れるようなスラー。鋭く、流れるような一連の動きに僕の体の細胞が沸騰する。ギャラリー側だったら、見入ってしまっていただろう。

「小手面!」

 審判の一人が赤い旗を掲げる中、もう一人と主審の和夫さんが旗を交差させて無効の意思表示をする。どよめきが起きる。

 体が勝手に動いて咄嗟に剣線をズラさなければ、有効打となっていただろう。

(気勢を削がれるわけにはいかない)

「小手!」

 僅かな鍔迫り合いの後、僕はすぐに引き面に見せ、ワンテンポ遅らせた小手で距離を離したがこれは有効打にはならなかった。

 そんな風に距離を離す僕を彼女が追撃する。水泳で鍛えられた体をバネのように使っての再びの跳躍から繰り出される面。

 「ファ」の#から2オクターブ、さらに1オクターブ先の「ファ」の#までの二段階の可憐な飛翔。

「面アリ!」

 拍手と歓声が場内に渦巻く。気勢を削がれたと思った時点で負けていた。

 開始線に戻り、改めて中段で相対する。

 確かに彼女は元天才なのかもしれなかった。僕が剣道を語るなどおこがましい限りだが、踏み込みの速さと一瞬の隙を見逃さない判断力には説得力があった。

 だがもう後がない。仮に彼女に負けるとしても、このままストレート負けするわけにはいかない。頭の中で、誰かが鐘を鳴らしている。カンカンと。

 僕は彼女に試練を与えなければならない。彼女がもう皮を剥がれることが無いように。そうやって、火が点った。

「始め!」

 今度は僕が最初に声を出した。

 中途半端な間合いは却って彼女に有利だ。僕は彼女ににじり寄るようにして、敢えて距離を詰める。琴音がじわじわと後退した。

 更に圧を強め、次に琴音が左足を下げた隙に僕は彼女の目を見つめながら肘を持ち上げる。琴音は面を守る様に剣線を歪めた。

「胴!」

「胴アリ!」

 面のフェイントからの引き胴。白い旗が上がっているのを見て、僕は生まれて初めての高揚感に身を包まれた。きめ細かい泡に包まれているかのような感覚だった。

 再び開始線に戻る。これですべてが決する。

「始め!」

 二人の声が揃う。気迫が拮抗している。

「小手!」

 早々に琴音が仕掛けてくる。彼女の闘争心は死んでいない。

(そうだ、それでいい。もっと向かってこい!)

 小手を捌いた僕にすぐさま琴音は胴を打ち、その勢いのまま僕に体を擦りつけるように一回転、身を翻した。

 そのまま剣線を抑えながらまたじりじりと間合いを計り合う。

「面!」

 琴音の面。だが剣線は僕が抑えている。すれ違うようにして僕も小手を打ったが、これも決まらない。技の精度が低い。

 向き合う。距離が離れている。この距離ならきっとまた琴音はいつでも飛び込んでこれる。彼女の動きだけに集中する。世界から音が消えていく。

(くる――)

 そう思った時にはもう琴音は間合いの内にいた。

「小手!」

 何とか小手を捌きながら僕も前に出た。だが―― 

(面を打たれる……!)

 そう覚悟した刹那、彼女の動きが僅かに鈍った。面が光に照らされている。体育館の窓から差した夕日が、ちょうど正面から彼女を視界を奪ったように見えた。

「小手胴!」

 相手の面を小手で崩してからの抜き胴。すれ違い、距離を取った後すぐに振り返り、残心の構えをとる。和夫さんを見る。上がっていたのは白い方の旗だった。

 場内が怒涛の歓声に満たされる。

「……」

(マジか……)

 僕は僅かな間、腕をだらりと下げ、天を仰ぎながら放心していた。記憶している限りでは、初めての勝利だ。ただ、相手は十八の女の子だ。やれやれ。

 開始線に戻り、納刀し、後退した後に最後の立礼をした。

 

 面を外すとむわりと蒸気が上がる。釜の飯になったような心地だ。僅かな時間だったはずだが、集中していたのだろう。

 琴音の方を見ると、彼女も肩で息をしていた。僕は頭に巻いていた手拭いで汗を簡単に払うと、立ち上がって彼女のもとへと歩み寄った。

 琴音の表情からは、悔しさなどよりは、どこかやり切った清々しさのようなものを感じた。

「ありがとう」

 僕はまずそんな風に口にしていた。

「負けちゃったー」

 そこでようやく、彼女は悔しそうに天を仰いだ。

「差があったとすればそれは、身長差と、運と、少しの意地だよ。君に中途半端な状態で挑むわけにはいかないっていう、ね」

「なにそれ、勝者の余裕ってやつ?」

 そう言って立とうとした彼女が袴の裾を踏んで不意にバランスを崩した。僕はつい咄嗟に手を伸ばして彼女の手を取ってしまった。男性が苦手な彼女に対して、まずいと思った。でも――

「あ、ありがと……」

「……」

 彼女は手を振り払ったりはしなかった。僕はその時、なぜだか分からないが涙が出た。

「ちょ、なんで泣くのよ!……そんな、私、そういうの釣られちゃう方だから……やめてよぉ……」

 そうやって二人でわけも分からないまま涙を流した。

 どうしたどうしたと心配そうなギャラリーの奥で、もらい泣きだろうか、涙ぐんでいる千種がいた。

 

「黒蜜抹茶スムージーでよろしくお願いしまーす」

 何のことかと思ったが、僕が勝ったから約束通り奢れということなのだろう。これで彼女が()()を赦すことを検討するという話はなくなってしまった。でも彼女の晴れやかな表情を見ていると、そんなことはもうどうでも良いように思えた。赦さなくたって、今の琴音なら彼女を脅かす者など「憐れな人たちだ」と言って意に介さないように思えた。

「その、今日はありがとうございました。すごく、すっきりしちゃった。……私、強かったよね?」

「もちろん。めちゃくちゃ強かったよ」

 ニッと笑う彼女は間違いなく魅力的な少女だった。そんなことはみんな知ってるはずだった。自信に満ちて、格好のいい、凛とした少女だ。でも、彼女はたぶんまだ十分に知らなかっただけだ。

「将棋と剣道は、リベンジするから」


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