琴音Ⅳ(前編)
当日、最初の勝負は水泳。快晴だ。
学校のプールには多くのギャラリーが集まっていた。みんな娯楽に飢えているのだろう。
25メートル自由形。50メートルにしても良かったのだが、長くなればなるほどターンの技術などで僕が不利になり過ぎる気がして、25メートルに設定した。
準備のためのリソースの多くは剣道や将棋の方に割いてしまっていたから、正直勝てる気はしない。
でもハンデは僕が提示した5秒から7秒にオマケまでしてもらってる。僕にも意地がある。精一杯やろう。
準備運動をしていると、戦闘服に着替えた琴音がぴたぴたと足音を鳴らして歩み寄ってきた。
「今日はよろしくお願いします」
毅然とした表情。だがその眼差しは、今まで見た中で一番穏やかで、リラックスしているように見えた。
「こちらこそ、よろしくね」
本当なら握手でもしたいところだったが、彼女に配慮して特に手を差し出したりはしなかった。
今回調べて知ったことだが、学校のプールでの飛び込みは今では禁止されているらしい。琴音には不満かもしれないが、水中スタートでお願いすることにした。
静かに水の中に入ると、ひやりとした水の冷たさが背筋を駆け抜けるが、徐々に体に馴染む。陽光に照らされ、向かう先の水面が魚の鱗みたいに煌めいていた。
「琴音、ファイト―!」
クラスメイトと思しき女生徒の黄色い声援が飛ぶ。
「おっさんもガンバレよー」
(誰がおっさんだ)
とはいえ、声援があるだけマシかもしれない。千種はどこかから見ているのだろうか。
「位置について」
初日に見かけた壮年の女性が審判だ。僕らは両手を壁にかけ、足の裏を押し付ける。引き絞った弓のイメージが降りてくる。僕の足が震えていた。
(恥ずかしいくらい、緊張してるな。まるで小鹿だ)
僕は思わず笑ってしまった。でもそれで、少しリラックスできた。
「用意」
束の間の静寂が場を支配する。全身の筋肉が緊張する。息を深く吸い込んだ。
「ピッ!」
鋭いホイッスルの音と共に、僕は壁を蹴った。世界が碧く染まる。水面を境界として広がるそこは別世界だった。
水中で体を伸ばし、ドルフィンキックで少しでも距離を稼ぐ。きっとその技術一つとっても、既に琴音とは大きな差がつけられているのだろう。でも、今は自分の泳ぎに集中するだけだ。
水面に顔を出し、腕を大きく回し始める。力を込め、水を自分の体に押し付けるようにして掻く。大学の水泳の授業で教わったことを意識した。
僕のいた大学は体育専門のコースがあり、体育の授業の質は高かったように思う、日本泳法というちょっと変わったな泳法を習ったりもした。顔を出したまま体を横向きに泳ぐのだ。
観客の声援が徐々に大きくなり、僕の意識が水しぶきと混ざる。僕は、まだまだ水と仲良くなりきれていないことを実感した。隣にあったはずの琴音の澄んだ気配は、あっという間に先に行ってしまった。
(すごいな)
「ラスト5メートル!」
最後の力を振り絞り、僕の手がゴールの壁に手をつく。そして勢いよく水面から顔を出した。
「遠野さん、14秒54!月城さん、23秒01!」
大きな歓声が上がった。あちこちから琴音の勝利と、僕の健闘を称える声がした。
(……届かなかったか)
14に7を足した時点で21。7秒のハンデをものともせず、琴音は勝利した。僕の惨敗だ。
琴音が二ッと笑ってこちらを見ていた。
切らした息を整えながら、僕はプールサイドに体を引き上げる。
「オジサンにしては、がんばったんじゃない?」
「めちゃくちゃ速いね……正直……ちょっとナメてたよ……あと……僕はおにぃさんだ……」
スイムキャップを取り払った琴音の髪が解かれ、それ自体が生きているかのように飛沫を上げた。
「絶対負けてやるもんかって思ったからね。んーっ……あー、気持ちよかった!」
水のベールを纏った彼女は、水から生まれてきたかのようだった。
(きっとこれが、本来の彼女なんだろうな)
友人たちと喜びを分かち合ってる琴音を尻目に僕はその場を後にした。気持ちを切り替えよう。
二番目の勝負は白木邸で行われた。以前白木さんと対局した部屋の様子を、カメラで映しながら宴会場で観戦できるという気合の入りようだ。
白木さんと稲葉さん、そして村の将棋好きの村民達が気づくと大盛り上がりしていて、蓋を開けたらこうなっていた。
そして――
「うん!いいんじゃなーい?」
腰に手をあてて正面から僕を満足げに眺めているのは燈子さんだ。
せっかく試合をするならカタチからということで、燈子さんが衣装係を買って出て、和装で対局することになった。
お腹に大量のタオルを詰めた上から濃紺の地に格子柄が入った夏着物を茶の無地の帯で締め、薄い灰色の羽織という姿だ。
「さすがのコーディネートですね。ありがとうございます」
燈子さんはサムズアップして僕の言葉に応えた。
「じゃあ琴音ちゃんの方も見てくるわね」
そう言うと慌ただしく部屋を出ていった。
「……馬子にも衣裳ってな」
僕はそんな風に独り言ちていた。
対局の場で先に座って待っていると、しずしずとした足取りで一人の女性が廊下を擦るように歩いてきた。
薄い藤色の地に淡い桜の花びらが舞い、淡いクリーム色の帯には金糸で蝶の刺繍が入っていた。いつものポニーテールはアップに纏められ、桜の髪飾りが刺さっていた。琴音だ。
その着物は燈子さんの趣味が出ているのかもしれないが、千種の好きそうなテイストも感じられた。千種が琴音を守っている、そんな風に見えるのは、考え過ぎだろうか。
「ちょっと、大袈裟すぎない?」
琴音が眉根を寄せ、気恥ずかしそうに僕にそう言った。
「みんな娯楽に飢えてるんだ。たまにはいいんじゃない。……よく似合ってる」
最近僕はよく女性の容姿を褒めている。服装を褒めることについては、僕の中で判定が甘い気がする。
琴音は座布団に腰を下ろすと、「どうも」と言って早くも精神を集中させ始めているようだった。
正式な対局などしたことがなかったので、作法は和夫さんがサポートしてくれた。
上座に座った僕が駒箱から盤上に駒を出し、振り駒を振る。「歩」が多ければ振った僕が先手、「と金」が多ければ琴音の先手になる。
結果としては琴音が先手になった。駒の並べ方にも作法があるらしく、上座が王将を置き、次に下座が玉将を置く。そして後は流れで交互に駒を並べていくのだ。
駒を並べ終え、僕、琴音、白木さんが互いに視線を合わせ、静かに対局は始まった。
▲7六歩 △3四歩――
▲2六歩 △8四歩――
▲2五歩 △8五歩――
▲2四歩 △同歩――
▲同飛 △8六歩――
序盤から琴音は攻撃的な姿勢を見せる。イメージ通りだ。僕は焦らず、着実に進めていくことを決めていた。
僕らは会話もなく、盤面に集中し、粛々と駒を進めた。そうして気づけば中盤に差し掛かった頃――
▲3八飛――
「月城さんは……」
何か話したい、そう思いながらきっかけを掴めずにいた僕に対し、先に口を開いたのは意外にも琴音だった。
「消えちゃいたいって思ったこと、ありますか?」
「……」
顔を上げ、琴音の方を見ると、視線を盤面に落としたままだった。
「……あるよ」
△7二銀――
正についこの間、夜のプールサイドでそんな風に思ったばかりだ。正直に「ある」と答えるのが、正解なのかは分からなかった。でも、今の僕には、それ以外の選択肢が浮かばなかった。
彼女は傷ついた羽を抱えながら、自己を開示してくれようとしている。なら、僕もそれに応じるべきだと思った。そこには、大人も子供もない。
「罪悪感だったり、自己嫌悪だったり、孤独だったり、色んな強い感情に押しつぶされて、そんな風に思ってしまうことはある」
▲3一飛成――
「……そういう時、どうするんですか……?」
△4二玉――
「……どうしようもない。蹲って、じっとしている」
▲2二龍――
「ただ――」
琴音の視線を額の辺りに感じた。
「そうやってじっとしてると、お腹が空いてくるんだ」
△3二金――
「どうしてこんな時にお腹が空くのかと、ひどく惨めな気持ちになる。でも、そのうち空腹を感じるのも面倒くさくなって、動き出す」
▲6八銀――
「そうやって少しずつ前に進む。芋虫が床を這うみたいにして……あ」
僕はあることに気付いて、前を向くと、僕の声に驚いたのか琴音もこちらを見ていた。僕は庭に目をやった。紅色のアキアカネが飛んでいた。視線を琴音に戻すと、彼女は僕の言葉の続きを待っているようだった。
△5二金――
「僕は今までもずっと、そうやってずりずりと匍匐前進してきただけなのかもしれない」
▲7七銀――
琴音は答える代わりに、駒を一つ進めた。
「でも、今は少し変わったかも」
△7四歩――
そう言って彼女に微笑むと、琴音は戸惑ったような顔のまま僕を見ていた。手が止まる。
「今の僕には、見たい景色がある。そこに向かうのに何の保証もないけど、でも、それは僕の人生だと思える。また誰かを傷つけることになるかもしれない。でも、多分もう止まれないんだ」
▲6六歩――
「月城さんは、強いんですね」
僕が強い?冗談じゃない。
△6二銀――
「どうしてそう思うの?」
▲6七金――
「私なら、きっと這うことすらできない。じっとしたまま、動けない」
△5四歩――
「そんな風には見えないけどな」
「それは――」
琴音の口が結ばれ、迷いを払うように駒を指す。
▲5六歩――
「みんなが、いてくれたから……手を引いてくれる誰かがいたから」
△4四歩――
「それは、とても得難いことだね」
▲4六歩――
あのトレモロが聴こえてくる。柔らかく、繊細に。共鳴している。
終盤、序盤の琴音の勢いはなく、ぎりぎりの攻防が繰り広げられた。
△1一玉――
「僕が見たい景色の先では、遠野さんは笑ってるんだ。今日のプールサイドでそうしてたみたいに」
▲2二金――
琴音の表情には、苦悶が読み取れた。
△同銀――
「泳いでる君は強かった」
▲同銀成 ――
「遠野さんは弱くなんかない」
△1二玉――
「弱いです……」
▲1一銀不成――
(『いつだって想像力が足りず、判断が遅くて、そのくせ脆い、弱い人間なんです』)
この村に来てすぐの頃、和夫さんに漏らした自分の言葉が遥か遠くから響いてきた。
「余計なものが君の邪魔をしてるだけだ。僕とは違う。僕は――」
△同玉――
「ただ、諦めが悪いだけだ。そんな小夜ひめモドキ、取り去ってしまえばいい」
「サヨヒメモドキ?」
「小夜ひめってのは、楽器の琴の消音に使うフェルトのことだよ」
しばし呆気に取られていた琴音だったが、僕の含意に気付くと苦い笑みを滲ませた。
「フフ……なにそれ、わかりにく……」
琴音が頭を下げた。
「負けました」
僕も合わせて、頭を下げた。
顔を上げると、琴音は口をへの字に曲げていた。
「やっぱ悔しい……」
そうだろうとも。
「君は弱くないと言ったけど、弱さを知り、そこで得た痛みは必ず役に立つ。そう思わないとやってられない。そうだな……もし興味があるなら、きっと遠野さんも先生に向いてるよ」
「私が……?冗談……」
「もちろん、適性とやりたいことは別だ。それが、人生の御しがたいところだ」
和夫さんの方を見ると、穏やかな表情で僕らのことを見守ってくれていた。




