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結人Ⅲ

 僕は翌日、白木さんに連絡をとって、琴音との一件を説明した。そして僕に剣道の稽古をつけてくれないかと頼み込んで、夜に彼の家を訪問した。

 将棋はある程度独学で何とかなる気がしたが、剣道は実践経験がないと話にならない。

「また突飛なことを考えおったな」

 そう言っていつものように軽快に笑った。

「すみません、彼女の問題を解決するために、僕も何かしたいと考えた結果、なんだか妙なことになってしまって」

 彼は微笑みながら何度か頷いた。

「いや、ありがとう、あの娘に親身になってくれて助かります。じゃが、結果はどうあれ今の全力で向き合えばそれでよい気もするがの。指導はやはり必要かね?」

 そう言われて、僕は唇を噛んだ。彼から頼まれた依頼に絡むとはいえ、多忙な和夫さんの時間をいただこうというのだ。

「出来ることは何でもやって、その上で全力で彼女に向き合いたいんです。そうでないと、彼女も納得できないのではないか、そんな気がして……」

 和夫さんは柔和な笑みで僕を見ていた。そこには僕が久しく忘れていた父性のようなものが湛えられていた。

「なるほど。熱意は分かった。じゃが将棋はともかく、剣道については……あの娘は強いぞ?」

「そう、なんですか?」

 和夫さんは不敵な笑みを浮かべていた。

「儂はたまに様子を見に行って、気まぐれに口出しをする程度じゃったが……あれは天才じゃよ。本人には継続するほどの熱意はなかったようじゃがの。もちろん、継続したとして成長し続けられたかは分からん。早熟だっただけかもしれん。ブランクもあるし、身長差を覆すのは簡単ではない。しかし――」

 和夫さんが何を言いたいかはよく分かった。

「確かに、僕は弱い。そしてあなたはそれを受け止めてくださった。でも、改めて考えてみて、僕はやはり諦めが悪い人間なんです。紗季がこの世を去るまで続けていた仕事にせよ、ただ生活のためだったとはいえ、そこにはどこか反骨精神のようなものはあったんですよ」

 僕は一度、出されていた煎茶でいつの間にか渇いていた喉を潤した。

「僕は母からはよく絶対に商売人、つまり営利組織に属してサラリーマンをするようなことは向かないと言われ続けてきました。でも皆が当たり前にやっていることを最初から選択肢として排することにどうしても抵抗があった」

 和夫さんの双眸が細められる。いつもながら美しい皴だ。

「結果から言えば、僕は本当に向いていなかった。それでも、得るものはあったんです。僕は間違い、葛藤して、格好悪く生きていくのが性に合っているんです……なので、貴重な和夫さんのお時間をいただくのは気が引けるのですが、どうかお願いできないでしょうか」

「やるからには、手心は加えませんぞ?」

 僕は深く頭を下げた。

「ありがとうございます」

 そこまで話して、僕はひとつ、彼に伝え忘れていることに気付いた。

「話は変わるんですが、神無月という男性をご存じですか?」

 途端、和夫さんの纏う空気が変わった。時折見せる為政者としての厳しさとも異なる、もっと昏い気配が、彼を中心に重力を生んでいた。

「……その名前をどこで聞かれました?」

「昨日、その男性が池の西の公園で琴音さんに話しかけていたんです。何を話していたのかは分かりませんが、すみれさんの名前を出したようで、琴音さんが警戒心を露にしていました。彼女はそれでなくとも今は特に繊細な状態です。お耳に入れておこうと思ったんです」

 和夫さんの節くれ立った手が、よく手入れされた顎の髭を撫でた。

「そうですか。ありがとう、結人さん。それは重要な報告じゃ。厳正に対処する」

 彼は、それ以上何も話さなかった。それはつまり、僕にはまだ知る資格がないということだ。僕はそれを察し、それ以上何も訊かずに、夜の闇よりも深い色をした庭の池を眺めた。

 

 次の日、久々に身に着ける防具は、実際以上に重く感じた。面を着けると視覚と聴覚が制限され、それだけで不安になる。だが僕が決めたことだ。僕が決めて、現在進行形で諦めるつもりのないものだ。

(やろう)

 普段から素振りはしているということで、まずは模擬試合をすることになった。僕の課題を洗い出すためだ。僕は一応前日の夜にイメージトレーニングとして、動画サイトで剣道の試合や、テクニックについて解説されている動画をひたすら見た。僕が部活をしていた頃に比べても、随分とコンテンツは豊かになっている印象があった。だが結果から言うと、模擬試合は早々に打ち切られた。面を外した和夫さんが僕に歩み寄る。

「熱意の割に集中できていないように見える」

 僕は返す言葉がなかった。確かに、何か空回りしているような感覚がある。それは昔もずっとそうだった。

「部活動をしていた際に言われた教えや注意で、意識しておるようなものはあるかな?」

 そう言われると、確かに一つあった。

「相手が打ち込んでくるのを避けてはならない……そう教わったことは常に意識しているかもしれません」

 それが剣道の指導において一般的なものかは分からなかったが、僕の学校にいた先生は国内でも有数の実力者だった。

「なるほどの。それは確かに間違っておらん。じゃが他の学生はその言葉の通り、避けておらんかったのか?」

「いえ……そんなことは、なかったですね」

「お前さんは最初から失敗することを恐れていたのやもしれんの。そういうことが、許されん環境におったのじゃろう」

 僕は背中に針を打たれたような心地だった。この人はどうして、いつも分かるのだろう。分かってくれるのだろう。

「一度すべて忘れて自由に動いてみなさい。避けてみても良いし、あと、声も無理に上げんで良い。どこか作っているように聴こえる。あれは自然に出るものじゃ」

「……はい!」

 確かに、僕はいつも違和感を覚えながら声を上げていた。そう思いながら上げる雄叫びはどこか滑稽で、そう感じる程に奮い立つどころか情けない気持ちになった。

 そうして次の模擬試合、僕は試合開始と共に声も上げず、ただ相手の隙を生むことにだけ神経を注いだ。剣線を抑え、やりとりだけに集中する。距離を詰め、引きながらの面を打って距離を取る。

 そうするうち、鍔迫り合いの際、和夫さんのどこか雅ながらも迫力のある声に対し、僕の内から低く威圧するような声が出た。確かに剣道部員の中にも、空間を切り裂くかのよう鋭い雄叫びを上げる者が多い一方で、数は多くないが低く唸るような声を出すタイプはいた。僕にはそっちの方が合っているのかもしれない。

 彼の面に対して咄嗟に頭を低くし、胴に対して身を引く。だがそうしたところで無駄な動きは新たな隙を生み、小手を打たれたり、あるいは場外に追い詰められる。変に避けようとするものだから時折防具の隙間を(したた)かに打たれた。

 彼の一撃は年齢やブランクからは考えられないほど鋭かった。ただ、不必要に重くはなかった。打たれるとき、おかしな話かもしれないが、そこには不思議な心地良さがあった。もちろん、それでも痛かったが。

 そうやって僕は避けることのリスクの大きさを体に刻まれていった。避けなければならなくなった時点でもう負けている。避けるのではなくせめて打ち返す、そうでなくてはならない。

 繰り返すうち、和夫さんに向かって打ち込んでいく際に、牽制し合っている時の低く籠るような声とは異なる、気迫の籠った張りのある声が出た。

(こういう声になるんだな)

 それは他ならぬ自分の声だった。相変わらず和夫さんからは一本も取れなかったが、それでも自分は今、試合をしている。そんな感覚を掴み始めていた。

 お互いに息が切れてきたところで「一旦ここまで」と和夫さんが僕に声をかけ、面を外した。むわりと、籠った空気が解き放たれ、汗が首筋を伝う。

「だいぶ、動きに硬さがなくなってきた。声も自然じゃ。結人さんらしい、艶のある響きになった」

「ありがとうございます、和夫さんのご指導の賜物です」

「なぁに、大したことはしとらん。あなたの熱意があってのこと」

 久しく感じていなかった種類の、清々しい気分だった。一度は諦めていた壁を乗り越えた先にある景色は、想像していた以上のものだった。

 

 それからは隔日で約一ヶ月、みっちり彼に稽古をつけてもらった。何度も動画を見て、打ち込み稽古に臨んだ。

 途中、僕は自分の弱さや不甲斐なさに何度も心が挫けそうになった。こんなことに本当に意味はあるのだろうか?そんな風に弱音を吐く自分がいた。

 でも琴音の苦し気な表情や、あの祭祀の日の絶望が、僕の背中を蹴った。それだけの材料があってようやく僕は闘える。情けないのかもしれない。意志薄弱かもしれない。でも、それが僕だ。今は前に進める。その悦びの邪魔はさせない。

 自宅前での素振りの強度を上げ、ランニングも取り入れ、基礎的なカラダづくりも徹底した。

 それでも僕は結局、最後まで彼から一本も獲ることはできなかった。そう、上手くはいかない。だが手応えはあった。

 勝てないまでも以前ほど一方的に打たれなくなったし、彼が僕に打ち込む時、僕も合わせるように相手に打ち込んだ。判定の結果として彼の方が先には入ったが、僕もきちんと打ち返せている、それは自信になった。

 

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