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琴音Ⅲ

 僕は顔だけを琴音の方に向けると、彼女は揺らぐ瞳でまっすぐと僕を見つめていた。そこに宿る感情は、怯え、悔恨、怒り……憐憫?

「残念でした、わたしは若菜や千種みたいに素直じゃ……え?……あ……」

 彼女が僕を見て動揺している。ダメだ、また感情が顔に漏れ出ている。若菜のポーカーフェイスを見習わなければならないんじゃなかったのか。僕は一度目を閉じると、ゆっくりとその感情の扉を閉め、どうにか口角を上げてから彼女の方を見た。

「ごめん……なさい。あなたのこと……なにも、知らないのに」

「いいんだ、君の言う通り、僕はすぐに調子に乗る。優しくすれば、好きになってもらえるんじゃないか……そう思ってたこともある。でも、結果的にそれは欺瞞だった。お為ごかしだった。僕自身をも欺くエゴがみんなを傷つけた。それは消えない。でも、だから今は、大袈裟かもしれないけど、贖罪の日々を生きているつもりだ……ごめん、遠野さんには関係のないことなのに」

 彼女の手が握りしめられる。でもそれは、以前のような怒りによるものとは違って見えた。なんだろう。それは彼女自身に向けられた感情に耐えているように、僕には映った。

「今日はもうそろそろ――」

「待って……ください……」

 話を切り上げて別れを告げようとした僕を、彼女が呼び止めた。僕はなんだって受け止める。僕は器だ。出来るとすれば、そのくらいだ。

「一方的に、自己開示していかないでくださいよ……フェアじゃない」

 僕のしたことは自己開示の押し売りもいいところだ。でも、今は彼女が話し出そうとしている。待つべきだ、と思った。

「あー、もう!」

 そう叫んで、何かに踏ん切りをつけたようだった。

「私、男の人が苦手なんです」

 知ってる、と思いながら僕は二回ほど頷いて見せた。彼女は僕の顔色を窺った後、伏し目がちに続きを話し始める。

「二年前……街で水泳のちょっと大きめの大会があったんです。自己ベストも更新して、すごい興奮して、でもプールサイドを歩いている時に……聴こえてきたんです。『エロい』って。『競泳するようなカラダじゃない』って」

 胸糞の悪い話だった。想像力のかけらもない。でも、それが男のホモソーシャルでは常識だったりする。それが格好良いと思っている。相手だってそんな風に性的に眼差されることを内心で望んでいる、俺達が前のめりに誘わないといけないんだと。彼女らは性的に奥手だから……それは伝統的な性欲を否定された女性像だ。あるいは、彼女らは本当は助平(スケベ)だから……そんな風に捉える。それは女性が獲得した性の解放だったはずのものだ。簒奪だ。いずれにせよ自分に都合よく解釈して搾取しようとする。他人事じゃない。僕の中にだって常に加害性は潜在的に存在しているんだ。それは逃れ得ないものだ。だからこそ悔しい。

「ひどい」

 僕はそんな風に言うのが精一杯だった。

「そもそも昔から、男の人、苦手だったんです……だって、いつもお母さんを困らせるから。それに時々――」

 言葉が、感情が溢れ出す。いけない、そう思って僕は無意識に千種の姿を探してしまった。彼女がいれば、今決壊しそうになっている琴音を抱き締めているはずだった。

「大丈夫。一度に無理をして話さなくてもいいから。大丈夫だよ」

 僕はそう言って、彼女が落ち着くのを待った。視界の端に、ブランコが映った。ついさっきまで、あの男が腰を下ろしていた方に近づくと、僕はその上に座った。

 そんな僕を不思議そうに見ていた琴音も、やがてゆっくりと歩み寄ると、隣のブランコに座った。

 僕は、今が夏であることに感謝した。これが秋や冬だったら、もっと物悲しい感じになっていただろう。陽の光に熱されたブランコのチェーンが、おせっかいな友人みたいに感じられた。

「その時、プールサイドで君を性的に揶揄った彼らは、今頃自分たちの想像力不足を後悔しているかもね」

 気付くと僕はそう、口にしていた。隣を見やると、琴音はその目を見開いて僕を見ていた。

「そんなわけ……ない……」

 僕はなるべく僕自身の平静を意識し、彼女を見つめて続けた。

「もちろん、彼らを赦す必要なんて、遠野さんにはこれっぽっちもない」

 彼女は悔しそうな表情でうつむく。

「でも、そうやって彼らを思い出して責め続けるのは、つらいことだと思う。彼らを、あるいは自分を」

 琴音がこちらを向く。

「彼らがどう思っているかなんて分からない。でももし、遠野さんが今も過去に囚われ、傷つき続けるのなら、それこそ不幸だ」

 彼女の表情にあるのは、怒り、悲しみ、動揺。多分僕の想像力では測り切れないもっとそれ以上の何か。僕は十八の少女にはなれない。相当ハードでワイルドな世界に足を踏み入れない限りは当事者性を持ちえない僕に言えることなんて、ないのかもしれない。眼差され、蔑まれることに怯えることはあれど、肉体的に自分を侵犯されることへの恐怖というものは、なかなか経験できない。それでも僕は話し続けなければならない。

「赦せないよね。僕だって赦せない。でももしその気になったら、彼らを赦せないか試してみて欲しい。価値ある君自身のために、未熟で不遜な彼らを、慈悲深く赦してみてあげて欲しい」

 彼女は唇を噛んでいる。戸惑いを感じる。無理もない。

「簡単なことじゃない。正直、今僕が言ったのは『最終段階』として成されるべきことだ。何度でも言うけど、それは遠野さん自身のための赦しだ。君が本来あるべき高みにあるためのもの。それが理不尽に感じられるなら、もちろんそんなことをする必要はない。彼らは糾弾され、怨嗟をその身に受け続けることになっても、文句を言う資格はない。すべての決定権は、遠野さんの手の中にあるんだよ」

 そう彼女に告げる僕の背後にも、いつだって『三角頭』はいるのだ。

「こういうのはどうだろう?」

 僕は一つ、馬鹿馬鹿しい提案をすることにした。彼女の澄んだ瞳が僕を捉える。その瞳はあまりにも澄み切っている。

「僕と何かで勝負して、遠野さんが勝ったら、彼らを赦すことを検討してみて欲しい。検討するだけでいい。僕が勝ったら、遠野さんのお願いを一つ聞くよ。何も浮かばなければジュースでも奢る。どうかな」

「……ん?ふつう逆じゃないですか?」

 彼女は怪訝そうな顔でそう言った。

「いや、それでいいんだ。君が勝てば、それは君が強者だという証明になる。無論、赦しは強者の特権という訳じゃないけど、説得力がある。それとも、やる気が出ない?」

 彼女は毅然として僕を見る。

「何の種目で、勝負するんですか?」

 一か八かだったが、乗ってきてくれたみたいだ。こういう若干操作的なやり方は主義じゃないが、荒療治が必要なこともある。

「一つは水泳でどう?もちろん、バタフライすら泳げない僕が相手じゃ普通にやっても勝負にならない。だから5秒、ハンデが欲しい。これは25メートル自由形の高三女子経験者と三十代一般男性の平均タイムの差だ」

「ナメてるんですか?いいですよ。7秒あげます。圧勝して見せますから」

 琴音が挑発的に嗤う。いい顔だ。

「もう一つか二つ、何かやってもいいかなと思ってるんだけど、案はある?」

 やや逡巡した後、彼女が口を開いた。

「剣道なんて、どうですか?」

 僕のこめかみを汗が伝った。

「遠野さん、剣道経験は?」

「小学生の頃、週末にやってた教室で、時々。月城さんに有利な種目もないと、不公平かなって」

 僕は天を仰いだ。

「ありがとう。結論としては、剣道で良い。ただ……言ってなかったかもしれないけど、僕はめちゃくちゃ弱い」

「またまた」

 少しずつ、琴音の緊張が解れてきているようだった。弱くて良かったかもしれない。

「いや、本当に。勝った記憶がほとんどない」

 琴音がシリアスな表情から一転して吹き出した。

「……ごめんなさい、でも、あんなにそれらしく素振りしてたのに……え?ちょっと待って……」

 何かがツボに入ってしまったらしい。僕は溜息をついた。三十代のおにぃさんというのは、結構繊細なのだ。でも遠野さんが笑ってくれたのが嬉しくて、途中から僕も笑っていた。


 帰ってからよく考えてみると、明確に僕が有利をとれるような種目がないことに気付いた。将棋もおまけでつけて三番勝負にしてもらったが、それにしたってだ。

 僕みたいな雑魚に勝ったところで、彼女の自信になんかならないのではないか?僕が醜態を晒して終わるだけな気がしてきた。だが僕が言い出したことだ。腹を決めよう。そう思いながら、水風呂に口まで顔をつけて、子どものようにぶくぶくと泡を吐いた。

 

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