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神無月

(どこで、間違ってしまったんだろう)

 あの後、僕は詳細を伏せた上で大まかな事態を志保に説明し、琴音と千種のケアをお願いした。志保はニュアンスを理解したのか、「あまり自分を責めないで」と僕を気遣ってくれた。こんな僕をだ。

 こういう時、自分のメンタルの弱さを痛感する。呆然自失となりそうなところを、何とか自分にムチ打って農作業に足を運び、日中は目の前のことに集中した。

 夜になると僕は村の中を彷徨い歩いた。鏡渕池の周りには蛍が舞っていた。彼ら、彼女らは、とても親密そうに見えた。

 土を踏む自分の足音が、自分のモノと思えなかった。小鳥遊邸の前を通りがかった時、何気なく庭に目をやると、頭の中が騒めいた。あれはいつだったろうか。千種と琴音が線香花火をしながら身を寄せ合っていたような気がする。もしかすると、この世界ではもうそんな光景は失われてしまったかもしれない。そんな風に思う度、僕は後ろ向きな思考を蹴り飛ばそうとしたが、後ろ向きな思考というものは蹴り飛ばそうと追いかければ追いかける程に僕を後退させた。自己嫌悪に耽っている暇などないというのに。


 ある夜、学校の前を通りがかった際、そこにはいつもと違う点があった。プールの照明がついていた。

 点検か何かかと思ったが、人の気配がない。消し忘れたのか、タイマーの誤動作の類か。

(プール……)

 自然、初めて村を訪れた日の光景が脳裏をよぎった。

 流れるような髪。友人たちと交わす気さくな笑顔。

「遠野琴音」

 文武両道な学校の人気者。千種の羨望する自慢の友人。でもその内面は、酷く不安定で、行く先には数多の困難が待ち構えている。

 僕は気づくとプールのフェンスをよじ登っていた。身を翻して着地すると、膝にずしりと衝撃が来た。もはや昔のように身軽ではない。

 改めて周囲を見回すが、やはり誰もいない。見えるところに照明のスイッチがあるかもしれないと思って軽く見回ったが、そんなものはどこにもなかった。

 溜息をついた後、一度はプールに背を向けたが、僕は思い直してプールサイドに腰を下ろした。明かりに照らされた水面の下で、光と闇が混じり合っている。

「……」

 あれから何度も、どうすれば良かったのか考えた。確かに図書館で二人きりの状況を作ったこと自体がまずかったかもしれないが、今更それを言っても仕方がない気がした。

 千種の行動は軽率だったのかもしれない。でも、何もかもがそうお行儀よくはいかないだろう。特に彼女らはまだまだ若い。色々とアクションを起こして失敗して学んでいく段階だ。

 ならやはり、僕があの状況を作ったのがまずかったのだろうか。だが遅かれ早かれ、何らかの形で同じようなことは起きていた気がする。琴音自身にも、もう少し落ち着いて物事を見てもらう必要はある。客観的に見ればそうだ。

 でも、彼女の事情や感情にも配慮したい。

「なぁ、ヌァルー。僕で合っていたのか?」

 僕は、目の前の水面に向けて、そんな風に語り掛けていた。

「彼女らを救う役目を担うのは、本当に僕で合ってるのか?」

 僕は限界まで追い詰められると、こうやって独り言を呟くことがあった。かつてであれば、深夜の車の中で。今は、この夜のプールの前で。

 弱気になっている。何もかも自分が悪い。そんな気持ちになる。

「俺は屑だ。昔から何も変わっていない。人を傷つけてばかりだ」

 虫の声と、僕の低い声だけが、闇の中で響いている。なんだか、滑稽だ。

 屑とまで言わなくてもいいんじゃないか?自分の中でそんな風に言う自分がいる。それが客観的な判断なのか、自己防衛なのか、分からない。

 でも多分、こんな風に自分を責めたくなるのは、図書室での千種との時間を心地よく感じていた自分がいたからかもしれない。それが後ろめたさを呼び込んでいる。

 彼女が後ろ手に扉を閉めた時だって、もっと大人として叱るような対応もできたはずだ。毅然と、背筋を伸ばし、そんなことをしてはいけないよ、と。

 でも、僕はそうしなかった。それが彼女に寄り添う気持ちからなのか、自分の内に秘めた男としての欲望のせいなのかと問われて、前者のみだとは言い切れない。

 完全に清廉潔白であることなど、不可能なのかもしれない。でも――

「だからこそ心構えをしたつもりだった。琴音を助けるのは俺が社会に繋がるためで、彼女の為ではないと。そう思うことで、無意識に狡猾なエゴの入り込む余地を塞いだつもりだった」

 頭がずっしりと重く感じられ、僕は手で支えなければならなかった。

「でも結局、俺には想像力が足りなかった。琴音も、千種までも、傷つけてしまった。かけがえのない二人の友情に、亀裂が入るような事態を、こんな下らない男がもたらした」

 それだけが事実だ。

 拳で床を殴りつけると、防滑性の為にザラついた表面が僕の脆弱な皮膚を苛み、血が滲んだ。

「消えてしまいたい……」

 心が薄汚れた人間は、結局どれだけ過ちを犯し、想像力を巡らせたところで、性根の醜さ自体は変えられない。

 そう、心が闇に囚われようとしていた。水底から、僕を呼ぶ白い腕が伸びてくる。そんな妄想が髪の毛のように絡みつく。

「俺は、この村にいて良い人間じゃない……いや……そんな場所、もうこの世界のどこにもないのかもな……」

 拳を額に打ち付ける。

「せめて、あの二人の関係だけでも修復したい。俺がどう思われたっていい。どうせ流れ者だ。でもどうすればいい……?」

(『なるようになるよ。二人とも、もう子どもじゃないんだから』)

 そんな、いつかの若菜の言葉が、水面を浮かぶ木の葉のように、僕の思考に流れてきた。

 確かに、そもそもが介入しすぎなのかもしれない。使命を負ってはいる。でも、だからといって僕の行為が正当化されるわけじゃない。僕はまたすり潰されようとしている。でも、いま僕は心から望み、その必要性を感じてそうしている。それが決定的な違いだ。

「対話を続けるしかない。間違ってるかもしれない。今回のように、より深刻に彼女を傷つけるかもしれない。自己満足かもしれない。でも――」

 プールの照明に舞い寄る蛾が、光をかき乱す。

「そうやって皆が距離を置いて、孤独になるのは彼女だ。少なくとも、あの頃の俺はそうだった。傷ついて精彩を欠いた俺になんて、誰も興味はなかった。そりゃそうだ、誰だってキラキラしたものを見ていたい。……若菜みたいな存在を」

 プールの水面が微かに揺れた気がした。屋外プールだし、アメンボかカエルでも泳いでいるのかもしれない。ここも、決して僕の場所ではない。

 僕は重い腰を上げると、蛾やアメンボたちに別れを告げた。


 それから僕は、空いた時間があると琴音がいそうな場所を探した。

 志保によれば、今は少し落ち着いていて、慎重にアプローチする分には問題ないのではないかということだった。彼女にとっても、対話は必要だし、志保は僕のことを信頼している、と。僕にはもう、それを買い被りだと捉えることは許されない。

 その瞬間は前触れなく訪れた。あの公園のブランコに琴音がいた。だが、近づこうとする僕を制するかのように、一人の壮年男性が彼女に近づいた。

 年齢は僕よりひと回りは上に見えた。僕には一目で分かった。彼は、僕が嫌いなタイプの人間だと。

 身長は180前後だろうか。端整な顔立ちに、スリムだが筋肉質であることがスーツの上からでも見てとれた。オーダーメイドと思われるダークネイビーのスーツに、白いシャツ、ボルドーのタイを合わせ、左手首には金属製の高級時計が光る。僅かに白髪が混じった黒髪は後ろに撫でつけられていた。彼からは搾取する側の人間の気配がした。あの厄神が憑依した神崎君から感じたものと同じだが、ジュの場合は奴の言った通り、凝縮された象徴性のようなものを感じた。いわば、誇張されており、個別の人格は薄らいで感じられた。

 だが目の前の彼は違う。彼は正真正銘のリアルな生身の人間であり、そのことが僕の警戒心を強めた。

 しばらく遊具の影から様子を窺ったが、琴音がブランコから腰を上げ、後ずさる様子からして友好的な関係には見えなかった。

 僕は敢えて足音を立てるようにして、彼らの方へと近づいて行った。僕は歩く時にせよ、戸を閉める時にせよ、音を立てないように意識する方だ。だが、今その必要はない。

 彼は野生動物でも見るかのような眼差しで僕を見たが、すぐに外面の良いマスクでそれを覆い隠した。

「突然すみません、遠野さんのお知合いですか?」

 彼が本当はどのような人間か、まだ僕の偏見である可能性は拭えない。極力感情を出さないように努め、僕はそう声をかけた。

「ああ、どうも、はじめまして。私はすみれさんの知り合いなんですが……あなたは……?」

 お前が先に名乗れ、そういう態度だ。構わない。

「申し遅れました。月城と申します。僕は和夫さんの依頼を受けた、この村のオブザーバーです」

 僕は初めてその立場を名乗った。

「オブザーバー……なるほど、白木さんも面白いことを考えますね」

 彼は微笑みを浮かべてそう言った。よく手入れされた、ゴシックな笑みだ。

「琴音さん、今日は日和が悪そうなので、また改めて」

 彼はそう言うと、僕には名乗らずに去っていった。すれ違いざま、ジャスミンのようなムスクのような香りが微かに香った。僕は彼の残り香を払うように一つ息を吐いた。

「琴音さん、大丈夫……?」

 琴音は俯き、黙ったまま頷いた。

「彼は……?」

「……知らない人。神無月って言ってた」

 神無月。

「変なこと、言われなかった?」

 琴音の眼が、はじめて僕を捉えた。そこには怯えの色があった。あるべき僕への警戒心を凌駕するように。

「よく、わからなかった……お母さんの娘さんだね、って言われて、お母さんのこと、何か褒めてたけど……なんか……私……あの人、好きじゃない……」

 僕は唇を噛むことしか出来なかった。

「このことは、和夫さんにも共有しておくから。大丈夫」

 気休めだ。「大丈夫」何の根拠もない。

「少し話したかったんだけど、今日じゃない方がいいね。それこそ、日和が悪い。またね」

 そう言って僕はその場を立ち去ろうと、琴音に背を向けた。

「そうやって優しくすれば、みんなあなたのこと好きになると思ってるんでしょ?」

 張り上げられたその鋭い声は、震えていた。歪んだ針みたいに。


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