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村Ⅳ(前編)

 麦畑を後にし、僕は約束通り白木さんのお宅へと向かった。

 役場を通り過ぎ、北に向かって歩く。日没まではまだ少し猶予があるが、空を見上げると瑠璃色の空に星が瞬き始めていた。

 西の空の低い位置に見えるのは金星だ。それよりも高い位置にぼんやりと見えるのが、アルクトゥールスだろう。僕は小学生の頃、この星が好きだった。なんといっても響きが格好いい。少年心をくすぐる名前だ。夏の大三角も一部が姿を現し始めている。反対の東の空の高くに見える、まだ淡い光。ベガだ。彼女はまだ独りだった。

 やがて道の先に立派な門構えが見えてきた。左右には長い壁が続く。こうした古き良き日本の巨大邸宅は、似たような様式のものであれば地方でしばしば目にするが、ここまで大規模なものは中々お目にかかれない。高台にあるせいで、余計にその大きさが際立っていた。門は開け放たれている。『白木』と記された表札を検めると、僕は敷居を跨いだ。

 庭の砂利を踏み締めながら、一定の間隔で配された敷石を頼りに、玄関へと向かう。綺麗に刈り込まれた庭木は、白木さんの厳格さを物語っている風にも見えた。もっとも、僕は彼のことをまだほとんど知らない。

 敷石が途絶える頃、格子状の引き戸の玄関が現れた。左手には藤の花、右手には巨大な陶器の鉢があり、中を覗くと鮮やかな蘭鋳(ランチュウ)が悠然と泳いでいた。心なしか、睨まれたような気がする。

 表の門と同様に開放された戸を意を決してくぐる。どこか懐かしい香の匂いと、白熱電球の温かみのある空間が僕を迎えてくれた。

 

「ご、ごめんくださーい」

 

 奥へ続く廊下に向けて呼びかける。しばし間を置くものの、反応はない。奥から笑い声がする。既に酒宴は始まっているようだ。

 僕は嘆息した。自慢ではないが、僕の声はあまり通る方ではない。飲食店などでも大きな声で店員を呼ぶのは苦手だ。意を決して大きな声を出しても、振り向いてもらえる確率は体感三割程度。なお、打率での例えはしない。皆が皆、野球好きではないのだ。誰に言うでもなく、僕は心の中で(うそぶ)いた。息を吸う。

「ごめんくださぁーい!」

「はぁーいー」

 奥から、人の良さそうな初老の女性の声が返ってくる。僕はまだ透明人間ではないようだ。ややあって、声の通りの人物が姿を現した。

「あらあら」

 女性は最初僕の顔を見て驚いた顔をしていたが、すぐに柔和な笑みを浮かべた。

「あんた、月城さんかね?よう来てくれたねぇ!和夫の妻の、房枝と申します。まぁ、あがってくなんせ」

 そう言って房枝さんは、快く僕を中に通してくれた。

 

 時折ギッと軋む木板の廊下を何度か曲がり、畳敷きの広間に入ると、そこには十人くらいの村民達が既に酒を酌み交わし、盛り上がりを見せていた。玄関と同様、天井に吊るされた白熱電球の柔らかな光が、宴席を温かく照らし出している。

「おお、来なすったな」

 一番奥の席に座っていた和夫さんが僕の姿を認め、対する僕は軽く会釈をした。僕の背中で緊張がとぐろを巻き始める。彼はよっこいせと立ち上がると、迎えに来てくれた。そして隣に立ち、皆の方を向いて僕を紹介する。

「彼は月城結人さん。故あってこの村にやってきた、旅のお方じゃ。彼にはちょっとした仕事を頼むつもりでおる」

 誰かの咳払いが聴こえた。

「まぁ、彼の適性次第じゃがな。しばらくこの村に滞在されるご予定じゃから、みな仲良くしてやっておくれ」

 彼の言葉には、柔和な中にも有無を言わせぬ力を感じた。

「ご紹介に与りました、月城結人と申します。……よろしくお願いいたします」

 そうして頭を深く下げる間にも、僕は彼らの不信感や警戒心が矢のように刺さる思いがした。顔を上げると案の定、彼らの顔には引きつった笑みや、無表情、およそ友好的とは言えないニュアンスが貼りついていた。露骨に訝しみ、目を眇める者も。

『この村は、あんまりソトの人、歓迎してないんだよ』

 若菜という少女の言葉が頭をよぎる。このままでは不味(まず)い。そう思い、僕は情に訴えることにした。酒の席では悲劇も肴になるだろう、と。

「実は、二年前に事故で妻を亡くしまして……傷心のまま彷徨っていたところ、偶然にこの村のことを知ったんです。霞巫峰村という名の神秘的な響きに、何か自分を変えるきっかけを掴めるのではないかと、気づけばバスに乗っていました。そして思っていた通りの素敵な場所でした。でもそれはきっと、皆さんが苦心して積み上げてこられたものだと思います。お煩わせするのは本意ではありません。そう思い、すぐにでも去るつもりだったんですが、鏡渕池の縁でお会いした白木村長さんのご厚意で今日お招きいただきました。皆さんのお愉しみのところ、水を差してしまって申し訳ありません」

 僕は再び頭を下げた。彼らのどよめきを感じる。

「そらぁ、お気の毒になぁ」

「どうぞ、座って座って」

 勧められるままに座布団に腰を下ろしながら、僕は内心ひどく苛立っていた。何に対して?自分自身に対してだ。

 僕はいま、妻の死による傷心を政治的に利用した。そうしていると、僕の傷心なんて所詮ポーズであるような気がしてくる。傷心を偽る弱さへの苛立ち、妻の死を利用する不道徳への苛立ち、そしてそんな風に己を疑う内在化された誰かの眼差しへの苛立ち。

 僕ら人間は常に社会の目を内在化し、社会化しながら生きている。自分の中にたくさんの元他人の()()()()がある。そして、僕の妻への愛についての本質主義者と構築主義者の諍いも生じる。もはや、何も信じられなくなる。自分が信じられない。だからこそ、さっきの村の人たちへの説明は、芝居がかっていた。僕がそうした。それは自分自身への当てつけであり、言い訳だ。これが妻のことでなければ、いくらでも割り切れる。人はいくつもの顔を持っている。それを使いこなすのが成熟だ。しかし、それがより自身の()に近い事柄に関してとなると、冷静さを欠いてしまう。僕は過去の仕事上であれだけ嫌悪していた本質主義者達の在り方に、あるいは嫉妬しているのかもしれない。妻への愛の証明というただ一点において。


 僕が通されたのは、白木さんの近く。木目の美しい座卓の上座、特に賑やかな一角だった。そこには二人の比較的()()男性がいた。落ち着いて真面目そうな男性は僕より少し上、もう一人の元気がよく調子のよさそうな男性は同じか少し下だろうか。正直、二十代後半から三十代にかけてになると、見た目ではあまり判断がつかなくなってくる。

「はじめまして、中野起一(なかのきいち)といいます。年の近い男性は貴重なんで、嬉しいです。起一と呼んでください」

 綺麗な標準語だった。白木さんも立場上の問題か、標準語に寄っていたが、それでも多少の訛りは感じる。起一さんにはそれがない。ひょっとすると村のソトの人なのだろうか?席の位置的に主賓級と思われる。

「どうも、中野巧二(なかのこうじ)いいます。よろしく結人さん。義兄さんとは、義理の兄弟なんですわ」

 こちらは比較的方言が強い。巧二と名乗った男性が起一さんと自身を交互に指さした。

「改めまして、月城結人です。こちらこそです。お二人が今日の主賓とお見受けしましたが、合ってますか?」

 巧二さんが破顔した。

「かたいかたい、もっと気楽にしてくださいよ」

 起一さんは巧二さんの様子にやや困ったような笑顔を浮かべつつも、頷いていた。

「そうですよね、少しお酒の力を借りようかな」

 僕はちょうど房枝さんが持ってきてくれたグラスを受け取り礼を告げると、起一さんが瓶ビールを注いでくれた。僕は最初グラスを傾け、泡立ちを抑えながら徐々に縦にしていった。こういうのは学生時代のアルバイトで覚えた技術だ。

「乾杯」

 和夫さんが静かに宣言する。

「乾杯!」

「カンパーイ!」

 呼応するように、離れた席でも波のように声が挙がる。さっきまでの緊張感が嘘のように。皆、本来は気の良い方達なのだ。

 そんな場の空気の変化も手伝い、黄金色の液体を呷ると爽快感が体を駆け抜け、早くも頭がふわりと軽くなった気がした。思えば、酒は随分と久しぶりだ。刺激に対して体が過敏に反応しているのかもしれない。

「今日は僕が墓参りで村に帰ってきてたんですけど、そしたら白木さんが宴会だというので。でも結局着くのが遅くなっちゃったんで、墓参りは明日かな」

 久々の酒についペースが速くなり、今度は巧二さんがビールを注いでくれた。これは訪問初日から粗相のないように気を付けなければ。僕は気を引き締めた。しかし七月末のこのタイミングでの墓参りとは妙だ。旧盆だとしてももっと早い。

「お仕事がお忙しいんですか?」

 起一さんはグイとビールを呷ると、やりきれなさを強調するかのようにグラスをテーブルに置いた。

「そうなんですよ、もうほんとに。お盆の時期に休みがとれなさそうなんで。しかも明日にはもう帰るんです」

(仕事か……)

 僕は妻が死んですぐに仕事を辞めた。仕事にもう幾ばくかでも愛着でもあれば、僕はそれを心の頼りに過ごすような選択肢もあったのかもしれない。でも僕にとっての仕事はただの生活の糧だった。僕独りがただ死んだように生きていくためにはコスパが悪い代物。我儘なクライアントや横暴な同僚のために感情労働することに辟易していた。耐えていられたのは妻がいたからだ。そして会社が象徴するビジネス世界というものが、妻を奪った何かのグルであるかのような、そんな感情が僕の中にあったのかもしれない。

 

 玄関の方から、聞き覚えのある声がした。そうしてしばらくした頃――

「おっ」

 村民の一人が、二人の少女の登場に気づくと、皆の視線が一斉にそちらに集まる。

「ちーちゃんに琴音ちゃんやないか!久しぶりらねぇ」

 巧二が二人に声をかけ、起一も微笑みながら手を振っている。その他方々からも歓声があがる。若く美しい少女の登場に興奮するのは分かるが、やや過剰な反応にも思えた。

 視界の隅で、(うやうや)しく頭を下げている者もいる。かと思えば、娘や孫を見るような、あるいは……思い過ごしかも知れないが()として見るような視線も感じる。

(なんだろう……)

 僕はその場の雰囲気に、村を俯瞰した際に感じたのと同じ、なにか歪みのようなものを感じた。何かが、(せめ)ぎ合っている。

「あ……」

 少女の一人と目が合う。麦畑で出会った少女だった。ワンピースから着替えたのか、袴を伴う和装が良く似合っていた。少女が微笑む。僕も軽く会釈した。

「お、なんねなんね、もうちーちゃんと顔見知りなんね?これだからソトモンは油断なんね」

 そういって巧二さんが僕の肩を叩きながら、早速イジリにかかる。こういう場ではむしろ有難いかもしれない。

 房枝さんが二人を僕らの席の近くに連れてきた。

「ごめんねぇ、二人とも、おじさんの隣なんかで。あんたら、ちったぁ退屈しねぇように面白い話してやんなよ!ちーちゃんと琴音ちゃんは、あんまし遅くならねぇうちに帰ってねぇ」

 さすが房枝さんは若い二人をよく気にかけているようだ。

「起一さん、巧二さん、ご無沙汰してます」

「二人とも久しぶり」

「いやぁ、二人とも見る度に別嬪(べっぴん)さんになるねぇ」

 斜向かいに座った『ちーちゃん』と呼ばれた少女の視線が僕の方を向く。

「さっきは……どうも。月城結人といいます。改めまして、よろしくね……ええと」

 少女は柔和な笑みを浮かべると、察して言葉を継いでくれた。

羽衣石千種ういしちぐさです。みんなは『ういちゃん』とか、『ちーちゃん』って呼ぶんですけど、どうぞお好きなように呼んでください」

 珍しい苗字だったが、その透明感のある幻想的な響きは彼女に似つかわしく感じられた。僕は笑顔で返すと、隣の少女にも目を向ける。

「はじめまして、遠野琴音とおのことねと言います。よろしくお願いします」

 気さくな笑顔を浮かべているが、礼儀正しさを先に感じさせる、端的な物言い。いや、多分これが普通なのだろう。羽衣石さんや若菜という少女が特に人当たりが良いのだ。

(ポニーテール……)

 飛沫を上げるポニーテールが脳裏に甦る。そうか、彼女は朝プールで見かけた凛とした雰囲気の少女だ。あの時とは印象が違うような気がしたが、年配の男の多いこうした場と同級生に対してとで様子が変わるのは自然なことだ。さすがにプールで見かけたとは言えず、僕は黙っていた。

「月城さんは、起一さん達のお知り合いなんですか?」

「いや、僕らも今初めてお会いしたんだよ」

 起一さんがフォローを入れてくれる。

「僕はなんていうか……旅人なんだ。村長さんのご厚意で、ここに呼んでいただいて」

 羽衣石さんは驚いたような表情をした。多分本当に驚いている。

「わたし、旅人さんにお会いするのって、初めてかもしれないです」

 起一さんや、巧二さん、みなニコニコと笑っている。遠野さんの表情も和らいだ気がする。羽衣石さんには場を和ます才能があるようだ。

(でも……ちょっと危うい感じもするな)

 もし彼女が今後村を出るとしたら、誰か大人が心構えを説いてあげるべきだ。こういう娘は搾取されやすい。僕はほぼ初対面にも関わらずそんなお節介な感想を持っていた。

「はーいこちら、羽衣石さんと小鳥遊さんからの差し入れだよ」

 房枝さんの手により、テーブルの上に握り飯と、これは赤カブだろうか?漬物が並べられた。だが、『小鳥遊さんから』と言っていた。確か若菜という少女の苗字が小鳥遊だったはずだ。さっき玄関から聞こえた声は若菜の声のような気がしたが、差入れだけ置いて帰ったのかもしれない。そういうさっぱりしたところは、イメージと違わない。

「おおーっ、燈子さんの握り飯と文乃さんの漬物じゃねーかや」

 みなが鼻息を荒くして、次々に握り飯に手を伸ばす。

「遠野さんからはいつもの冷やし甘酒だ。飲みたい人ら、手ぇ挙げんかね」

 勢い、僕も手を挙げてしまう。図々しかったろうか。皿に盛られた赤カブの漬物にも箸を伸ばしてみる。甘酸っぱさと適度な歯ごたえが、ビールにもよく合った。

「赤カブの漬物にはこれでしょう」

 和夫さんがどこからか八海山を持ってきた。

「結人さん、いかがですかな?」

「いただきます」

 (ほだ)されていく自分を感じた。和夫さんにとっては計算なのかもしれない。それでも――

 酒をお猪口で受けながら、周囲を見回す。(ざわ)めきが心地良い。お猪口に継がれた辛口の純米酒を口に含むと、すっきりとした味わいが体に染みわたった。

「最高ですね、これは」

「いける口ですな」

 和夫さんがニヤリと笑った。

「月城さん、良かったらおにぎりも食べてくださいね。母のおにぎり、結構人気なんですよ」

 僕はどんどんと遠慮がなくなっていった。羽衣石さんが勧めてくれたのを後押しに、僕もその争奪戦に参戦した。綺麗にラップで包まれた三角のおにぎりを剥き、頬張る。

(これは……)

 僕が手にしたおにぎりの具は梅干しだった。まだほんのりと温かいご飯の甘味と、大粒の梅干しの鮮烈な塩味、酸味の調和が僕をほっとさせてくれる。ご飯の密度も程よく、握った人の温和な人柄が想われた。

「本当だ、これは正に無類だね」

 そう羽衣石さんに賛辞を伝えると、彼女は嬉しそうに微笑んだ。

 そんな彼女の元に、ひとりの酔っぱらった熟年男性が酒瓶を持ってふらふらと近寄ってきた。

「あれれ、ちーちゃん、お酒は?ビール?日本酒?」

 すかさず、遠野さんが間に入る。

「もぉー、知念さん酔っぱらいすぎ!私らまだ十八になったばっかりだっての!」

「え、十八ってもう成人でしょ?お酒飲めないの?」

「の・め・な・い!」

 そう言いながら、遠野さんは男性を元の席へと押し返していった。どこにでも同じような酔っぱらいはいるものだ。遠野さんが戻ってくる。

「ごめんね、ことちゃん、ありがとう」

 笑顔で感謝を告げる羽衣石さんに対し、遠野さんはその表情以上に嬉しそうに見えた。

「気にしないで。でも、私がいなくてもちゃんと断るんだよ?」

「うん」

 僕は少女たちの、そんな何気ないやりとりをぼんやりと眺めていた。畳に片手をついて、改めて周囲を見渡した。柔らかな灯り、皆の笑顔と笑い声、酒肴の香しい匂い、縁側から響く虫の音、それら全てが溶け合っている。気づけば僕は、すっかりその場に馴染んでしまっていた。

(……いい村だな)

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