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琴音Ⅱ

 その日は風が強かった。

 千種は公園のブランコの辺りに琴音を呼び出して話をし、SNSで合図があったら僕も出て行って話をするという段取りになっていた。

 待つ間、僕は大人用の鉄棒で懸垂をしたり、前回りをしたりして、平たく言えば遊んでいた。鉄棒なんていつぶりか分からないくらい久しぶりだった。

 スマートフォンが震え、SNSを開く。「仲直りできました」というメッセージと共にスタンプが送られてきていた。自然、頬が緩む。

「……」

 僕は少し考えたあと、「やっぱり今日は遠慮しておくよ」そうメッセージを打って送信した。取り戻すことのできた親密で和やかな時間に水を差したくなかった。ここに来る以前からそれは気にかかっていたことだが、僕の方にも焦りがあるのかもしれない。ドタキャンするようなことになってしまい、申し訳なかったが、そこに迷いはなかった。二人の関係が修復され、琴音の気持ちが落ち着いてくれば、また話してくれそうな気もした。だが千種からは「大丈夫です」そう返信が来た。

 僕は砂場と空を交互に見つめながらしばし考えた後、結局のこのこ二人の待つブランコへと向かった。

 話が出来るくらいの距離に近づくまでの間に、既に琴音からは些か警戒した空気が感じ取れた。表情が強張っていた。

「こんにちは、遠野さん。その、ごめんね、折角の二人の時間に水を差してしまって」

「い、いえ……その、私の方こそこの間はごめんなさい。なんか、喧嘩腰になっちゃって……反省してます」

 そう言って琴音が頭を下げた。

「遠野さんが謝ることなんてない。以前も言った通り、僕は一緒に考えたいだけなんだ。千種さんのこと、それから、遠野さんのことも」

「私のこと、ですか?」

 彼女の整った眉が左右非対称に歪む。

「なんていうか、僕は遠野さんのことをまだ何も知らないけど、アパートの前で話した時、すごく何かに傷ついているように見えた。だからかな、ちょっと気になったんだ」

 遠野さんは右腕で自分の体を抱くようにしながら俯いた。千種はそんな彼女に手を差し伸べようとして、しかしその手は空を握りしめただけですぐに元の位置へと戻された。

「もちろん、無理に話さなくて良い。でも、志保さんならきっと相談に乗ってくれると思うんだ。だからもし気が向いたら、相談してみてもいいんじゃないかな……僕から今言えることはそれだけ。あとはまぁ、これから少しずつ友達になれたらいいなと思うくらいだよ」

 僅かに、唇を噛んだ後、僕を見上げた瞳には戸惑いこそあれ、敵意は感じられなかった。

「そうだよ、琴音ちゃん。結人さんは、琴音ちゃんが警戒しなきゃいけないような人じゃないよ」

 それは、少し違う。そう思ったが、僕は一旦成り行きを見守ることにした。でも、その時の琴音は千種の物言いに何かを感じ取ったのかもしれない。

「千種は……随分、信用してるんだね。結人さんのこと」

 その言葉には、ビー玉一つ分くらいのしこりがあった。対する千種の表情にも、動揺が見えた。

「そうかな。普通だと思うけど」

 いつも柔らかな千種の言葉が、その時は乾き、ごわごわとしていた。僕ですら分かったその違和感に、琴音が気づかないはずはなかった。

「……何か、あったの?」

 不協和音がする。

「琴音ちゃんが心配するようなことは何もないよ」

「嘘……分かるよ、千種のことなんだから」

 琴音の鋭い眼が、僕の方を一度じろりと見た。

「ほんとだよ?だって……結人さん、図書室で二人きりでもわたしに何もしなかったよ?」

 まずい。

 琴音の眼が見開かれる。

「どういうこと?図書室で二人きり?だっていま、図書室は閉館中だよね?」

 声が上ずっていた。そんなことは認められない、あってはならない。そう叫ぶように。

「結人さんが調べ物がしたいらしいから、わたしに鍵を開けてくれないかって……村長さんから連絡をもらってそれで――」

 琴音はまっすぐに僕の方に向かって歩いてきた。

「ねぇ、どういうこと?」

 確かに、そういう風に詰め寄られると、あの状況を作ったこと自体の落ち度を感じずにはいられなかった。

「ごめん、確かに配慮が足りなかった。僕としては当然、やましい気持ちはない。ただ――」

「ただなに?千種に何もしてないでしょうね?」

「もちろん何もしてない。本を探して、少し話しただけだ」

 あそこであったことを僕の一存で話す訳にはいかない。

「そうだよ、琴音ちゃん!結人さんは、わたしのこと、心配してくれたの!今のままだと、わたしが危ない目に遭うかもしれないって……」

 琴音は一度俯くと、そのまましばらく動かなくなってしまった。何かを、考えていた。やがて再び顔を上げ、僕を見つめた表情にあった感情は……「軽蔑」だ。僕は、それを知っている。

「そうやって信用させるんだ?ふぅん……少しずつ気を許すように仕向けて、結局あなたも同じなんだよね?千種が優しいからって、それにつけ込んで……サイテイ……」

「結人さんは――」

「千種は黙ってて!」

 そう叫んだ刹那、琴音の眼が再び見開かれた。何かに気付いて、酷く動揺しているように見えた。でも何に?わからない。

 琴音は拳を握りしめ、何かを堪えるように震えていた。そして勢いよく僕に一歩距離を詰めると、その右手を振り上げた。

 でも、僕の頬があの忌まわしい、痺れるような痛みを思い出すことはなかった。僕の眼を見て、琴音はすんでのところで動きを止めていた。だが――

「わたしが誘ったの!」

 千種の喉から、これまで聴いたことのない悲痛な叫びが、夏の空気を震わせていた。

「……え?」

 僕を見つめていた琴音の瞳から光が去ると、彼女はゆっくりと千種の方を振り返った。

「結人さんは悪くないの……わたしが――」

「言わなくていい!」

 今度は僕がそう叫んでいた。そうして、世界は息を止めた。


 どれくらい時間が経ったろうか。恐らく、そんなには経っていないはずだ。でも、少なくとも僕にはそれはとても長く感じられた。

「琴音ちゃん……」

 千種が、おずおずと琴音に距離を詰める。

「こないで」

 ひどく乾いた、小さな声だった。千種の動きが止まる。足に釘でも打たれたかのように。僕は、千種の表情を見る勇気がなかった。

 琴音は、その場の空気に似つかわしくない、ゆったりとした所作で、両手で自分の体を抱いた。それから、だらりと弛緩した。

「キモチワルイ」

 そう、最後に呟いて、走り去った。

「……」

 千種の方を見ると、身じろぎせず、声もあげずに、ただ頬を涙が伝っていた。

 僕は、サイテイだ。そうだ。そんなことは分かっていたはずだ。人間失格?そんな高尚なものじゃない。ただの屑だ。


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