志保Ⅱ
カフェに戻り、アイスコーヒーのお代わりを買って自分の席に座ろうとすると、さっきまで千種が座っていた場所に志保さんが座っていた。テーブルの上には彼女の愛用のものと思われるマグカップが置かれ、『碇ゲンドウ』みたいなポーズをしていた。
「……お待たせ」
僕は試しにそう声をかけてみた。
「大丈夫、今来たばかりだから」
そう言ってケーキ屋の店員みたいな笑顔で笑った。女性というのは色んな笑顔を使い分ける。あくまで傾向であり僕の偏見だ。多彩な表情を持つ男性もいるし、僕みたいに笑顔が苦手な女性もいる。
美容室で眉カットしてもらった際、眉の筋肉がすごく発達していると言われたことがある。そんなこと初めて言われたので戸惑ったが、言われてみると僕は笑顔に苦手意識がある分、表情を作る際に目に頼りがちかもしれなかった。いや、どうでも良い話だ。
志保さんはしばらくの間、うろん気に僕を見つめていた。僕は視線に耐え切れなくなって、間を埋めるためにコーヒーを啜った。実は話を聞かれていて、何か咎められるかもしれないと思ったからだ。琴音の問題に僕が介入することについて、僕の中には拭えない後ろめたさがある。それを見透かされている気がした。
「ちーちゃんとデートですか」
僕は思わずコーヒーを吹きそうになった。咽そうになった呼吸を整えてから、僕は発達した眉に力を込めて彼女を見つめた。
「僕は一回り以上も年下の女の子に手を出したりしない」
志保さんはハリウッド女優みたいにおおげさに皮肉っぽい表情をつくった。
「明らかにデートコーデだったわよ?ちーちゃん」
「千種さんは普段からお洒落だし、この後お出かけかもしれない」
「へぇ」
空気の抜けるような声だった。そして枝豆の皮でも見るような目で僕を見た。僕は観念することにした。
「確かに、彼女とはちょっと、色々とあった。でも本当に何もない。これ以上何も起きない。信じて欲しい」
「何も言ってないじゃない。良いと思うわよ?別に。若い者同士、好きにすれば」
「志保さんの方が僕より若いでしょ」
そこまで言うと、訝しむような表情をしていた彼女が破顔する。
「ごめんごめん、ちょっと揶揄い過ぎたわ」
僕は大きく息を吐いた。
「良い性格してるよ、まったく……ありがとう、おかげでリラックスできたよ」
彼女は最後に会った時よりも、随分と心理的距離を詰めてきていた。そういう人はいる。二回目に会うと急に距離が近いのだ。
志保さん、いや、志保の場合は前回話した際に、僕の方からもっと気安く接してくれと提言したこともあるが、決して不快な感じはしなかった。
「傍から見てると、なんだかすごく初々しくて、イジリたくなっちゃったのよ。私の昔の身の回りみたいにドロドロしてなくて。癒されちゃった。医療業界なんてクソよ」
最後の一言は声を抑えていたが、あまりの毒舌っぷりに僕はつい周囲を見回してしまった。大丈夫、誰にも聞かれていない。たぶん。
「僕らの話、聴こえてたかな?」
「ん?別に、盗み聞きなんてしてないわよ?いい雰囲気だなーって、見てただけ」
「なら、いいんだ。ちょうど志保さんに相談したいことがあって」
彼女の中で何かのスイッチが入った音がした。カチリと。
「わかりました。今日はもう時間がないから、明日でもいい?」
「もちろん」
それから僕はカウンセリングという形で予約をとり、ついでに連絡先を交換して別れた。
待ち合わせ場所のカフェで待っていると、スタスタといつもの機敏な所作で彼女がやってきた。予定時刻を十分ほど過ぎていたが、彼女も多忙だろう。わざわざ出迎えてもらえるなんて、恐悦至極だ。
「ごめんなさい、遅くなっちゃって」
「大丈夫だよ、考え事のストックならたっぷりあるから」
それは事実なのだが、少し気障な物言いだったかもしれない。
「わーお」
「……それは何かの皮肉?」
「ちがうちがう!多分、私の男運が悪いせいね、素直に感心したのよ……ていうか、私のこと皮肉屋だと思ってる?」
「ちょっとだけ」
僕は指でジェスチャーをしながら答えた。
「まぁ仕方ないか。間違ってないし。でもきっとあなたに文句がある時はもっとハッキリ言うと思う」
笑いながら彼女はそう言った。信頼されてると思っていいのだろうか?なんだか複雑だ。
それから、彼女に従ってカウンセリングルームまで移動した。席に着くと、早速志保は語り始めた。
「それで?今日はどうされました?」
それは友人と医師の中間位のトーンだった。
「遠野……琴音さんのことで相談があるんだ」
その名を聞いて彼女は少し緊張したように見えた。何か表情に変化があったわけじゃない。でも、そういうことは分かる時がある。無論、思い込みかもしれないが。
「その顔はひょっとして、既に一悶着あった感じ?」
志保はやや苦い笑顔を浮かべながら僕にそう言った。
「まぁちょっとね。千種さんの奉習参加を巡って軽く言い合いというか……まぁ決裂したとまでは言えないんだけど、警戒されてるとは思うよ」
彼女は少し意外そうだった。
「ちーちゃんの奉習の話して決裂してないなら大したものよ。普通の男性相手だったら、『千種に近づくな!』って感じで決裂しそうな勢いだからね、あの娘」
実際に前回はそうだったのだから、何も言えない。
「実は、ちーちゃんの奉習のことについては私もあの娘からは色々訊かれたの。それで、以前あなたに説明したのと同じように答えたのよ。まぁ彼女の場合はあの娘自身も血筋だから、もう少し突っ込んだ話もしたけど、まぁ大体一緒。で、反応は予想できると思うんだけど……混乱してたわ。チェックリストのことについても、それで安心するというよりは、拒否感を感じてるように見えた。これはけっこう根が深いし危ういなと思ったのね……そういう話で合ってる?」
彼女の察しの良さには敬服する。愚鈍な亀のような僕とは大違いだ。頭の回転の速い人というのはいる。
「合ってる。お節介なのは分かってる。でもだから、直接僕が何か関与する形でなくとも、志保さんや千種さんの協力を仰いで何かしら良い方向に持っていきたいと思った。和夫さんから任されている役目も無関係ではないけど、伝統のことにしても、まず前提として彼女自身がそれをフラットに見れるような心理的安全を確保したいと思った。今はそれ以前の状態に見える。フェアじゃない。それに多分、彼女がなんていうか、本来の彼女でいられないというのは、すごく勿体ないし、今後の彼女の人生で彼女を苦しめるような気がするんだ」
僕は用意してきた話をしたが、実際に話し始めてみると、やはり伝え方のニュアンスが難しかった。
「なにが、あなたにそこまでさせるの……?」
「大丈夫、これは全部、僕自身のためのことだ……僕の前職の話をしたことはあったっけ?」
志保は「いいえ」といって首を位置を整えるように振った。
「僕はITベンダーで元PM、プロジェクトマネージャーをしてた。成り行きで就いただけの職業とはいえ、僕は、たぶんもうとっくに疲れ果てていたんだ。自分のために、他人の人生を生きることに。妻を失って、そのことを認められた。僕のキャリアは既にズタズタだ。でも人生は続いていく。だからいま僕は、自分と社会とを再接続しないといけないんだ。琴音さんのことは、たぶんそのために必要なことなんだと思う。この先彼女が、社会にうまく繋がって行けるようにしたい」
僕が語った理由は、あの悲劇を繰り返さないためという説明しようのない事由のダミーとして導き出したものだったが、嘘はなかった。それは全て、真実だった。
僕の言葉に対し、彼女は、やや前のめりだった体を引き、テーブルに置いていた手を膝の上で重ねると、視線を落としながら語り始めた。
「わたしも、同じようなものかもね……」
窓から差す陽の光が、揺らめきながら、彼女の顔に影を落とした。
「この村に来た理由……?」
「そう……待遇の良さはもちろんあるわよ?でも、それ以上に、私も、行き詰ってたの。だから、女性医師限定で、フィジカルメンタル両面で、あなたの言葉を借りるなら脱領域的に患者さんに向き合うことが求められる今のこの場所が、難しさもあるけど、とてもやりがいを感じられそうな気がしたの」
彼女の白衣の襟元に、ほつれ、はぐれた髪が一筋、寂しそうにしがみついていた。
「ごめんなさい、話が逸れました。そして、あなたの気持ちも、わかった。私もね、同じ気持ちなの。医師としての使命感だけじゃなくて、これは私情も入ってるんだけど、なんとかしてあげたい。もっと彼女が、彼女らしく安全に生きられるように、支援したいの」
僕は一つ、頷いた。
「でも、どんな方法をとるにせよ、多分時間はかかると思う。焦らず、彼女の歩調に合わせていく必要がある。たぶん、あなたなら分かってると思うけど、忍耐がまず必要ね」
細められた彼女の瞳が怜悧な色彩を帯び、柔らかく握られた拳がその雄弁な口元を隠す。
「方法としては、色々ある。彼女には運動の習慣もあるから、それに絡められそうなマインドフルネスを勧めたりも出来るかも。でもあなたが協力してくれるなら、カウンセリングの際に、時々あなたにサポート役として同席してもらうという手もあるかも。もちろん、琴音ちゃんの了承が得られればだけど」
正直了承を得られるイメージはなかったが、力になれるならなりたい。とはいえ、具体的には何をすればいいのだろうか。疑問をそのままぶつけてみることにした。
「協力はいくらでもする。ただ具体的には何をすればいいのかな」
「正直、いてくれるだけでもいいの。彼女が若い男性に慣れるために。あとはそれで必要に応じてコミュニケーションに参加したり、終わった後にあなたの視点でのフィードバックをくれたりとか。そんな感じ。大丈夫、あなたなら、そのままでいいわ」
「わかった、ありがとう。もう彼女のあんな顔は見たくない」
「あんな顔、というのは?」
夕日に照らされた苦悶の表情と、ぬるい風に揺られるポニーテール。それは、この世界での記憶ではない。でも、同じ感情が、きっと今も彼女の中にある。
「僕に向けられた不信感や言葉から、この娘はすごく傷ついてるんだなって、思ったんだよ。何があったかは分からないけど、男性というものに対して、その加害性への警戒感が凄まじかった。ごめん、いつの間にかそれを前提に話してしまっていたけど、話の順番としてはまずそれを話すべきだった」
志保はシリアスな表情で机の隅を見つめていた。
「……そう。何があったのか、私はだいたいのところは本人から聞いてるけど……まぁヒドイ話よ。すごくよくある、でもヒドイこと。直接的な性暴力とかそういうのではないんだけどね?それ以外にも暴力って幅広いから」
僕は暗澹たる気持ちになった。まだ見ぬ未来で待ち受けていることを知っているが故に。ヒドイことがありふれ過ぎている。世界が彼女を追い詰め、昏い箱の中に閉じ込めようとしている気がした。
「ニュアンスは、理解したよ……やっぱり僕は、彼女の心と体を、再接続したい」
「協力者は中性的な男性がベストなんだけど、今ではもうそんなセオリーはあまり役に立たないのかもしれないわね。だから、必ずしもあなたが童顔である必要もない。童顔の思想的マッチョなんていくらでもいるもの」
「それはよかった」
僕は童顔ではない。中高生くらいの頃は老け顔だと言われたが、最近はむしろ若く見られる。分からないものだ。




