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千種Ⅳ

 約束の時間に診療所へと向かうと、千種が前で僕を待っていた。

「……」

 僕はその時、バカみたいな顔をしていたかもしれない。 上品なラベンダーのパフスリーブのワンピースは、大きく開いたラウンドネックで、デコルテには白いレースとリボンが(あしら)われていた。左右で結われることの多かった髪は、今日は一つに纏められている。

 優美で(たお)やかなその佇まいに、僕はしばしぼんやりと見惚れてしまった。以前にそんな彼女のファッションを見たことがあった気がしたが、思い出せなかった。前回の世界での記憶かも知れない。

 彼女はそんな僕のことを上目遣いに見つめた後、艶やかな唇の端を小指の先ほど持ち上げた。

「こんにちは、結人さん」

「綺麗な色だね。よく似合ってるよ」

 僕は緩みかけていた表情を引き締め、素直にそう伝えると、千種は嬉しそうに笑った。

 これまでいつもどこか遠慮がちだった彼女の笑顔から今は自信が感じられ、調子が狂った。人間は一瞬で年をとる。全く、その通りだ。

「今日はこの後、お出かけ?」

 彼女の目が僕を捉える。その目が、僕の心の膜をぬめるように撫でた気がした。

「どうでしょう」

 彼女はそう言ったまま僕の返事を待たずに診療所の中へと入っていった。

 

 オーダーした彼女のアイスティーと僕のアイスカフェラテを受け取った後、窓際の席に座った彼女の元まで向かう際、僕の目は窓の外を眺める彼女の横顔に吸い寄せられていた。それは愁いを帯び、燈子さんを髣髴(ほうふつ)とさせた。

「ありがとうございます」

 彼女の前にドリンクを置いた後、なんとなく僕も彼女の見ていた方を眺めたが、特に変わったものはなかった。あるいは、その何かはもう去ってしまったのかもしれない。猫か、鳥か、子どもか……幸運にも彼女に見初(みそ)められた何かだ。

 正面に直ると、彼女はそんな僕を見ながら、涼し気なアンバーの液体をロングドリンクグラスからストローで丁寧に飲んでいた。

「……」

 三秒ほどだろうか。僕らは意味もなく見つめ合った。

 昨日の一件は、正直に言って僕の心をかき乱した。アパートの部屋に戻ってからようやく現実感が追い付き始め、僕は動物園のクマのように狭い部屋の中をぐるぐると回った。真剣に何かを考える時、そんな風にする癖があった。そして何度も水風呂に入った。

 だから今日は極力千種のことを意識しないように心構えしてきたつもりだったが、一夜にして変貌を遂げた彼女の魔力の前では、僕の薄っぺらいオトナのマスクなど一吹きで吹き飛ばされてしまった。

 僕は思った。多分いまやもう、年齢差による生物としての僕のアドバンテージなど無に等しいか、あるいは追い越されていて、あとは小玉スイカ一つ分程度、僕の方が世慣れているだけに過ぎないのだと。僕と彼女とでは持って生まれた()()が違うのだ。

「遠野さんと話すための作戦会議、だったよね」

 僕はひとまず今日のアジェンダを再確認することにした。

「はい」

 真剣さと穏やかさの調和したいつもの千種の表情が、僕をほっとさせた。

「連絡すれば、きっとわたしとは会ってくれると思うんです。琴音ちゃん、やさしいから。でもそれに甘えるのが嫌でずっと勇気が出なくて……それこそ甘えてますよね」

 見えないテーブルの下で彼女の手が固く握られているのが分かった。

「お池の西にある公園で待ち合わせしようと思うんです。琴音ちゃん、あそこでよく運動してるみたいだし、昔よく二人で遊んだ原っぱを挟んで、琴音ちゃんのお家からはすぐだから」

 花咲く春の草原を走り回る幼い二人のイメージが降りてくる。目の前の千種の大人びた雰囲気のせいだろうか、千種が先を行き、琴音の手を引いているような気がした。

「それでもし、うまく仲直り出来たら、その後に結人さんと話してもらうのがいいかなって……でも、結人さんは、琴音ちゃんに何を話そうと思ってるんですか?」

 当然の疑問だ。

「おかしな話かもしれないけど、正直、何を話せばいいか自分でもよく分かってないところはある。もちろん、伝統を継ぐように促そうとか、そういうつもりは全然ない。ただ、彼女の抱える問題を、少しでも軽くしたいんだ」

 僕は一度カフェラテを潤滑油代わりに流し込んだ。

「お節介と言えば、そうだ。ただなんていうか……嫌な予感がするんだ」

「嫌な予感……ですか?」

 彼女は真剣な表情を崩さず、そう僕に確認した。

「うん。昔、彼女によく似て、同じように痛みを抱えた女性が、その脆弱性に付け込まれて、もっと傷ついてしまうようなことを見てきたからかもしれない」

 それは、他ならぬ琴音本人の話だ。でもそんなことを言う訳にはいかない。

 今度は千種がアイスティーを少し口に含んだ。汗をかいたグラスが、陽の光を拡散してきらきらと光る。彼女がテーブルにグラスに戻す音の優しさが、僕を宥めてくれた。

「結人さん、先生みたい」

 氷の割れる音がした。

「教育実習には行ったよ。あんまり楽しくなかったけど」

 千種が目を丸くする。

「そうなんですか?」

「ちょっと特殊な学校だったしね」

 僕が教育実習に行った学校は東大合格率一二を争うような超高偏差値の中高一貫男子校で、確か僕はジェンダーをテーマに社会科の授業をした気がするが、彼らは全く興味がなさそうだった。僕の授業の拙さもあったろうが、多分あれはそれ以前の問題だ。僕を担当してくれた社会科教員の先生も「彼らはそういうことに興味がない、でもだからこそ必要だ」と励ましてくれたし、掃除の時間に「先生大変ですね、あいつらちょっとおかしいんですよ」と慰めてくれた高校からの入学生もいた。いわゆる高入生というやつだ。中学からストレートで進学してきたメンバーとは毛色が違った。確かに僕自身の経験からしても、高入生は落ち着いていて大人びた印象がある。まともなのだ。

「結人さんが先生だったら、きっと生徒さんは幸せですね」

 その時、僅かに震えた僕の瞼の動きを、千種はきちんと見ていたのだろう。呼応するように、彼女の肩が跳ねたのが分かった。余韻を引く「シ」のスタッカートのあと、柔らかなピアニッシモのトレモロが続いた。

「僕は、先生にはなれないよ。先生には神崎君みたいに、憧れの先生がいる人間がなるべきだ」

「悠斗君のこと、知ってるんですか……?」

 まずい、動揺して考えなしに言葉が口から出てしまった。

「和夫さんから聞いたんだ。僕の昔の話をするうちに、気が合うかもしれないって」

「そうなんですね……気、合うかなぁ……結人さんなら大丈夫かもですけど」

 気難しい印象なのだろう。確かに繊細そうに見えた。そう考えてみると、そもそもなぜ彼はあんなことになってしまったのだろう。何が、あの邪な存在が彼につけいる隙を生んだのだろうか。

 もしその原因を解決できれば、その線でもあの惨劇は回避できるかもしれない。でもヌァルーはその提案をしなかった。

「……神崎君は、千種さんから見てどんな人なの?」

 千種はアイスティーをストローでかき混ぜながら記憶を辿っているようだった。

「実直っていうか、すごく誠実であろうとしてる人、っていう印象はあります。ちょっと頑固なところもあるから、合う人と合わない人はハッキリしてるかも。わたしも幼馴染ではあるんですけど、若菜ちゃんの方がよく知ってるかも」

(若菜……)

 確かに、彼は若菜を特別扱いしていたのかもしれない。虐げてはいたが、千種や琴音に対するようなやり方ではなかった。

 ふと、千種のよく手入れされて健康的な爪が目に入る。

(もう絶対にあんなことは繰り返させない)

「そうか。ごめん、話が逸れちゃったね」

「いえ、わたしが変なこと言っちゃったから……」

「そんなことないよ。僕が先生みたいに見えてるなら、それは悪いことじゃないと思う。ありがとう」

 彼女の目が細められる。

「でも先生だったら……こんなところで生徒とお茶してたら怒られちゃいますね」

「確かに」

 僕らはそんな風にして笑った。

「でも、それならまずは仲良くならなきゃですね、琴音ちゃんと」

 彼女の方から、話を戻してくれた。

「わたし、言ってあげます。月城先生はとっても良い先生だよーって」

 その笑顔にはなんだか含みがあって薄ら寒さを覚えた。

「わたしも……ずっと気にはなってたんです。触れていいことなのか分からなかったから」

「志保さんにも、相談しようとは思ってるんだ」

 ハッとした表情で、千種は僕を見た。

「こういうことは本来、専門家の力が必要なんだと思う。でも、志保さんがどこまで遠野さんの抱えている問題の切実さを把握しているか分からない。把握していないなら、その橋渡しがしたいし、僕らがとるべき、とっても問題ないアクションも見えてくると思う」

「そうですね、志保さんならきっと、力になってくれますよね」


 考えを整理する為にもう少しカフェに残ることにした僕は、カフェの前で千種のことを見送った。

 去り際――

「結人さんにはいなかったんですか?憧れの先生」

 頭の中で、カエルが水に飛び込むような音がした。千種が僕に向けてくれたそんな関心に対して、卑屈になって話さないのはもはや傲慢な気がした。

「お世話になった先生はいたよ。感謝してる人もいる。でも、憧れとは違うかもね。……なぜだろう、教師というものへの負の感情が強すぎるのかもしれない」

「負の感情……」

 意識が過去に遡る。蓋をして埃を被った記憶のつづらの、破れた隙間から中が垣間見えた。

「楽しい話じゃないけど」

 千種の方を見ると、有無を言わせない力強い眼があった。こういう時、彼女の芯の強さを思い知る。

「中学一年の時の担任がいてね、理由はよく分からないけど妙に僕のことを可愛がってくれてたんだ」

 そう、その理由も良く分からなかった。

「でも二学期の頃だったかな、時期はよく覚えてないけど、保護者面談から帰って来た母の様子がおかしくて、泣いたり怒ったりしながら、僕の部屋の引き出しやら何やら全部ひっくり返し始めた。そしてこっそり隠してた漫画雑誌の中を検閲し始めた」

 陽炎が見える。

「別に成人向け漫画なんてない、よくある普通の少年誌があっただけだ。禁止こそされてなかったが、そういうのを見えるところに置いておくことを彼女が好まないことは知っていたから、隠していただけだ」

 ゆらゆら。

「担任の教師は言ったんだそうだ。僕はいつも猥談の中心にいて、それに寄ってくる人間は猥談に興味があるだけで友達でもなんでもない。そんな僕は、惨めで恥ずかしい人間だって」

 ……。

「確かに当時の僕は性的に早熟なところがあって、よく猥談をせがまれていたのを憶えてる。僕はね、千種さん。もしかすると君に似てるかもしれない。精通を迎えた小学五年生の頃、中学受験に向けた勉強が本格化していて、トイレの中しか自由な時間がなかった。だからそこでの自慰だけが、僕の安らぎの時間だった」

 千種は何も言わずに僕に近づいて、僕の左の袖を親指と人差し指で摘まんだまま、しばらく俯いていた。

 灼けつくような蝉の鳴声が耳に刺さる。今も昔も変わらない。彼らは死にゆき、僕らも死んでいく。僕に何が残せるだろう。


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