千種Ⅲ(後編)
僕はこめかみと背を伝う汗の感触を感じながら、ひどく動揺していた。
「それは、とても難しい問題だ。でもつまり……そうすると千種さんは、かつて行われていたようなお勤めに、興味がある、ということ?」
千種は、身じろぎひとつしなかった。肯定はしない。でも、否定もしない。
僕は素直に言って混乱していた。僕の知らないところで、彼女がそんな葛藤を抱えていたという事実に。そしてまた、千種のような少女がそんなことを望むなどということは、男性に都合の良い妄想か、あるいは男性の欲望を内面化してしまった結果くらいにしか思えなかった。正確には、自戒としてそう思うよう自分を仕向けていただけかもしれない。もちろん、彼女に関してはまだ後者の可能性を否定できない。僕が知らないだけで、何らかのトラウマ反応なのかもしれない。彼女は元々コンプレックスが強い。だがそれは僕が迂闊に判断すべきことではない。志保さんに任せるべき領域だ。なら僕に出来ることは、志保さんへの相談を促すことだけだろう。
「女性が性欲をもつことは自然だよ。でも千種さんのそれは慎重に考えるべきことだと思うから、志保さんに相談してみるといい。きっと彼女なら何の偏見もなく受け止めてくれる」
「それは、志保さんにも言われました」
少年が湖面に浮かべた手製のヨットが、風に吹かれて流れていく。
「女の人が強い性欲をもつのは、今はごく普通のことだって。でも……」
僕は彼女らと話していて初めて恐怖しているかもしれない。僕に、彼女を受け止めきれるだろうか。
「そう言われれば言われるほど、わたしは、志保さんの言う普通から外れてるんじゃないかって、そう、思ってしまうんです」
水圧にガラスが軋みを上げる。
「わたし、いつもここで、独りになるんです」
ヒビ割れた器から水が漏れ出す、もはやこの流れは止められない。彼女は部屋の中央より少し奥まった位置にある椅子に手を添えた。
「閉館時間になってみんなが帰った後、誰にも見られてない、でも誰かに見られるかもしれない……そんな緊張感の中で、ゆっくりと自分を感じる。ひとひらの恐怖の中で、一枚ずつ、ゆっくりと自分の凝り固まったものを解していく。折り重なった、みんながわたしに向ける期待や、余計なものが、段々と蕩けていって……色んなことがどうでもよくなって……そうやって抑えきれなくなると、場所を移して……そこで、もっと深く潜るんです」
彼女の瞳には蕩けるような妖しい光が灯っていた。
「あの日、初めて結人さんに会った時も、ちょっと前までそんな風に潜っていて、それで……お気に入りの麦畑の前で火照りを冷ましていたんです……清純な女の子だと思いましたか?」
彼女は微笑んだが、そこには諦めのような色な滲んでいた。僕は何も返すことができずにいた。
「あの日はその後、初めて起一さんにお神乳を飲んでもらったこともあって、なかなか火照りが治らなくて……夜、結人さんのことを想いながら……」
動悸が早くなるのを感じた。僕はいま、到底敵わない存在の吐いた糸の上にいるのかもしれない。
「……引きました?」
彼女は笑っている。いや、嗤っているのだ。
「学校での自慰なんて、そんなの、僕だってあるよ」
千種の顔から、すっと幕を引くように笑みが消える。
「そうなんですか?」
僕は一体何の開示をしているんだろうとも思ったが、今はそれが必要なのだと自分に言い聞かせた。
「習慣的なものではなかった。でも、うちの学校のトイレもここみたいに清潔で共学だったら僕もどうだったか分からない」
冷静に言葉を選んでいられず、とにかく考えたことを口に出した。ひどくナンセンスなことを言っている気がする。でも会話を止めてはいけない、そんな気がした。
「結人さんも、わたしと同じ変態さんだって、そう言いたいんですか?」
荒らされた部屋のイメージが脳裏をよぎる。軽蔑するような眼差し。怒り。失望。
(そんなのはお互い様だ……違う、今は関係ない)
嫌な記憶が蘇りかけたが、なんとか振り払った。
「変態というか、若気の至りの範疇のことだと思う」
そう告げると、彼女が僕に一歩近づく。
「ほぼ毎日ですよ?」
そこには、畳みかけるかのような気迫があった。
「それでも、自分と同じだって言えます?」
まるで鋭く光る硝子の切っ先を、己の喉元に突きつけているかのような、そんな声音だった。
「なんとも言えない……人の嗜好の表れ方は、それぞれだから」
僕は肝心のことを忘れている。
「千種さんは、そんな自分が嫌いなの?」
「……わかりません……でも……結人さん、動揺してる」
それは、否定できない。
「確かに、僕は動揺している。無意識に千種さんに勝手な幻想を抱いていたのかもしれない。でも――」
「でも?」
彼女が首を傾げる。
「それで君の魅力が減じるわけじゃない。むしろ強めてる。コントロールさえ出来れば、それは千種さんの武器になるはずだ」
僕は思い知らされていた。彼女の求める在り方が正しいのか否か。それはきっと、答えのない問いだ。否定されるべきではないと思いつつ、手放しに正しいのかと言えばそう単純ではない。きっと上手く折り合いをつけていくしかない問題なのだ。
「まるで他人事みたい。結人さんはどう思うんですか?ふしだらなわたしは、嫌いですか?」
僕は答える立場にない、そう言おうとして、でも彼女が話す方が速かった。彼女は捕食者然としていた。鋭い前脚を、僕の前に突き立てる。
「きっと答えてくれませんよね。結人さんはオトナで……やさしくて……イイヒトだから……」
そう言うと千種はブラインドを下ろし、足早にドアに歩み寄るとゆっくりとこちらを振り返った。そして僕の表情を見ながら、後ろ手でカチリと音を立てて鍵を閉めた。
「だから……結人さんには、正直になってもらいます」
千種がその純白のブラウスのボタンに指を掛け、ゆっくりと見せつけるように解いていく。その指先は、微かに強張っていた。
ふと、視線を落とす。その目元には、火照りと怯えが、まるで一枚のヴェールの裏表のように、ひそやかに揺れていた。
「……ねぇ、結人さん。お神乳って……どんな風に味わってもらうのが、いちばんなんでしょうね……?」
僕は矢も盾もたまらず彼女に走り寄った。勢いを殺しきれず、手をついた扉がガタリと揺れる。千種の肩がピクリと震えた気がした。
だが、そこまでだった。どうしていいか分からない。そして一種の無意識的な現実逃避なのか、またも過去の記憶が蘇る。
たまたまかもしれないが僕は学生時代、母子家庭の女性によく好かれた。僕の演じていた父性が彼女らを惹きつけたのかもしれない。ただその父性はあくまで演出であって、舞台を降りてしまえば苦しむのは僕だった。カタログスペックと現物の差がギリギリと僕を追い詰めた。そうしたことは派遣ビジネスの世界でもよく起きた。下駄を履かされた当事者が一番苦しむのだ。クソッタレだ。ただ僕に関して言えば下駄を履かせたのは僕自身なわけで、言い訳はできない。
「結人……さん……?」
だが今はそんなことどうでもいい。
「……いま、埋めて欲しいんだよね?」
千種がおずおずと僕を見上げる。瞳が潤んでいる。
「わかるよ……皆は、そんな焦ることないよって言う。でも、大人と若者の感覚はちがう。今すぐ、埋めて欲しい……心の隙間を……そう焦がれてしまう」
僕の腕の下で彼女がもぞりと身動きした。千種の甘く濃密な匂いが僕の鼻腔を支配し、頭の奥が痺れる。僕は、目の前で冷静な判断を欠こうとしている美しく可憐な少女をなんとか落ち着かせようとしていたはずだ。しかし、僕はいつしか彼女に感情移入していた。彼女の隙間を埋めてあげたい。何もかも投げうって。そんな気分になっていた。でもダメだった。僕の過去がそれを許さない。
僕は深呼吸した。落ち着け、冷静になれ。彼女は妻の面影で武装している。でもそれは、彼女を僕が守るべき存在だと思わせてくれた。そしてまた、妻は彼女とは違い性的なことに対してはかなり受け身だった。二人は別人だ。
「千種さん、僕はあと十歳若ければ、いとも簡単に君の誘惑に負けていたと思うよ。それぐらい君は魅力的だ」
千種のこめかみを伝う汗の行き先を追わないよう、僕は意識する必要があった。
「君は、積極的な理由だけでなく消極的な理由においても、自分の魅力をもっと自覚した方がいい。その自覚は君に自信をくれると思う。それが積極的な理由だ」
緊張のあまり言い回しが堅苦しくなるが、それでいい。今はエモさはいらない。
「でも今自覚しなかったら、それは成長を阻むだけでなく、君の身を危うくする」
彼女の美しい瞳が揺れる。
「この村は守られてる。変わった因習はあるけれど、人々は学び、今はそれ故に守られてるんだ。でもソトに出れば、君はただの一人の女性に過ぎなくなる。とても魅力的で……でもそれにいまいち無自覚な……カモだ」
僕はあえて卑劣な表現をした。千種の表情に怯えの色が差す。鴉が鳴いている。
「千種さんの周りの人はみんな優しいよね」
僕はなるべく彼女を安心させるように意識して声を和らげ、語りかけた。
「はい……母も、友達も、村長さんたちも、志保さんや、村のおじいちゃんおばあちゃん……みんな、やさしいです」
儚げな彼女の頭を、僕はつい撫でたい衝動に駆られた。でもそういうのは僕の主義じゃない。もし僕が日中に誰かを撫でることがあるとしたら、それは自分の子どもだけだ。それだって嫌がられるかもしれない。
「でもね、ソトの人はそうとは限らない。別に必ずしも悪人ってわけじゃないんだ。ただ必死なんだよ。自身の抑えきれない欲望や、生活に」
悪というのは相対的で多義的だ。その多義性に時に人は胡坐をかき、時につけ込み、今やネットは火の海だ。僕はまたも眉間にしわが寄っていることに気づいたが、指でほぐす余裕はなかった。
「そんな過酷さの中では、思春期に育まれた善意はやがて摩耗して、即物的になっていく。あるいは、幸いにも穏やかな生活を手に入れられたとしても、今度は見下すようになっていくんだ。日々擦り切れて堕ちていく人々をね」
僕は自分の過去を振り返り、その二種類の道を辿って行ったかつての友人たちのことに思いを馳せた。
「自分はがんばったからそうならなかった……そうやって自分を形作るあらゆる奇跡への感謝を忘れて、無自覚な悪意をすくすくと育てていく。そうして分断は生まれていく。もしかすると、この村にもそういったことは見えないだけであるのかもしれない」
成功者は自身の置かれていた環境を過小評価し、精神性を過大評価する。それは強者による逆説的なルサンチマンのようなものかもしれない。強者が弱者を敵視し、憎んでいる。なぜなのか。無論それは強者を脅かすからだ。しかしそんなことは、僕が言ったところで何の説得力も持たないことに歯噛みした。弱者のためのルサンチマンに過ぎないと言われればお終いだ。だがそれにより搾取が正当化されるのは、哲学者だって望んでいないだろう。弱者のための自戒の論理を強者が他者に課せば、弱者を増産し放題だ。
僕が小さく息を吐くと、静謐な図書室の沈黙が僕らを取り囲んだ。千種はじっと僕を見つめたままだ。
「僕はね、千種さんにはどちらにもなって欲しくない。搾取する側にも、される側にも回って欲しくない。君には君のままでいて欲しい。あの麦畑で僕に笑いかけてくれた君のままでいて欲しい。でも人間の想像力には限界がある。痛みが伴うこともあるだろう。自分を、誰かを、呪うこともあるだろう。でも、それをなるべく最小限にしてあげたいと思うのが大人なんだ。もちろん、これはただの僕の我が儘だ。それでも――」
そこまで話したところで、僕はひとつの違和感に気付いた。その正体はすぐに分かった。でもそれを話すべきか……僅かに逡巡した後、僕の口は開かれていた。
「いや、違うな……僕はいまひとつ、嘘をついた」
きっともう、オトナぶった上辺だけの言葉では伝わらない。
「搾取についての話は、その通りだ。どちら側にも回って欲しくはない、それは変わらない。でも……初めて会った時と同じように笑っていて欲しいというのは、三十分前までの僕の気持ちで、今は違うような気がする」
喉に当たる彼女の熱く湿った息が、僕の心臓を締め付けた。
「僕はさっきの君が見せた、翳った表情を、濁った瞳を……美しいと思った。それは、若菜ちゃんにも、遠野さんにもないものだ。残酷なことを言ってるかもしれない。それは君の苦しみの証なのにね。さっきの僕の言葉とは矛盾するだろう。でも僕は多分あの表情を忘れられない。千種さん……無駄なことなんてひとつもないんだ。熟すのに時間がかかることもある。歪なこともある。焦ると思う。でも自分の望むものを、まずは受け入れていいんだ。誰にも引け目を感じる必要なんてない。そうして千種さんだけの表現を見つけて欲しい。でないと、君が望んでいると思っていることが、罰するかのように、いつか君自身を傷つけ始める。そしてそれは伝染するように周囲の大切な人間をも傷つけることになる」
どこか遠くで、知らない少女が、薄闇の奥で泣いていた。
千種は俯き、そのまま動かなくなった。伝わらなかったろうか。少し情報量が多すぎたかもしれない。いつもながらの、僕の悪いところだ。でも、今は流れを変えなければならなかった。僕は冷静になって、彼女から少し身を離した。
「……」
ややあって、千種はゆっくりと顔を上げる。小さく、深呼吸をしたように見えた。
「結人さんは……ずるいです……」
そうだ、僕はいつだって狡猾なのだ。愚鈍で人畜無害な顔をして、いざとなれば平気で人を傷つける。
「そんなこと言われたら……ちょっと、自信つけちゃいますよ?」
困ったような、照れたような、そんな複雑な表情で微笑む千種に、僕は年甲斐もなくドキリとしてしまった。そんな僕の表情を聡い彼女は見逃さなかった。
「そんな顔、するんですね……わたしが、させたんですよね……」
彼女の中で何かが芽吹いたようだ。やや目を細めたその相貌には、先ほどまでは感じられなかった余裕と、匂い立つような艶やかさがあった。千種は僕をすり抜けて窓に近寄ると、ブラインドを上げ、窓を開け放った。一陣の風が先ほどまで僕を眩惑していた彼女の匂いを運んできた。その香りは夏草や、土や、彼女の汗の匂いだろうか……甘酸っぱく、澄んで、淀んでいた。それは僕の脳を侵し、痺れをもたらし、爪痕を残す。
「ありがとう、ございます」
彼女は僕の方を振り返り、後ろで手を組んで言った。
「いや、いろいろ一気に話して、ごめん」
千種はかぶりを振る。
「わたし、やっぱり琴音ちゃんと話してみます」
顔を上げる。晴れやかな表情だった。
「明日、お昼過ぎに診療所のカフェに来てください。作戦会議です」
「わかった」
去り際、千種は僕の耳元で囁いた。
「さっきの顔、琴音ちゃんにしたらダメですからね?」
僕がどう反応したものか戸惑っていると、千種はいたずらっぽく笑いながら去っていった。
「……あれは悪い大人になるな」




