千種Ⅲ(前編)
現地集合で待ち合わせをした千種と合流し、図書室のある校舎へと入った。図書室への入室前、僕は校舎内のトイレに立ち寄ったのだが、長期休暇中ということを差し引いても妙に清潔で驚いた。
この村は、畑の近く等にも公共のトイレが設置されていて、手伝いの折に利用したことがあるが、そうした場所もやはり清潔で、しばしば新しくてお洒落だった。
一見些末なことだが、村の衛生意識の高さが伺えた。医療サービスの充実もそうだが、村全体から女性的なエンパワーメントを感じる。
余談だが、それらのことがしばしば「女性的」と解されることに、男性として釈然としないことは多い。マーケティングする上で、美しいものや健康的なもの、お洒落なものは女性向け、となるのは実態を踏まえ仕方のないことなのだろうが、段々とどちらが卵で鶏か分からなくなる。
これまたどうでもいい話だが、考えてみると僕は学生時代から仲の良い友人は女性の方が多かった。だから毎回一緒に歩いている女性が違うと揶揄されることもあった。確かに僕は、家庭での孤独感や長い男子校生活の反動で恋愛体質気味なところはあったが、それとこれとは別問題だ。ともかくそんなわけで自分の感性は「女性的」なのかと思うことも少なからずあるものの、僕の性自認はあくまで男だ。だが様々な眼差しが僕の中の性自認を引き裂き、今や混沌としている。そして段々と、どうでもよくなってくる。確かなことは二つだけだ。僕には僕の好きな物事があり、無辜の怪物を抱えている。それだけだ。
図書室に入ると、闇の中に眠る本たちの悠然たる匂いと息遣いがした。千種がブラインドを上げ、光が差すと、本たちが騒めいたような気すらした。昔、人が死ぬと本になるという物語を読んだことがある。本は知の象徴であると同時に、人の生きた想いの結晶でもある。それらに囲まれていると、落ち着くと同時に心が騒めく。
「探し物は、見つかりましたか?」
「いや、ないね。何か村の歴史について分かるようなものがあればと思ったんだけど、やはり秘されているのか、こういう場所にはないのかもね。奥に仕舞われてたりするのかもだけど」
千種は口元に握った手をあてて記憶を漁ってくれているようだった。
「時々、本の整理を手伝ったりするんですけど、そういうものは見たことないかもしれません」
「やっぱり社とかに保管されているのかな……いや、でもここにないことは分かったよ。ありがとう。それに一度ここには入ってみたかったしね。思ってた通り、良い場所だ」
すると、千種の表情が綻んだ。
「結人さんにも気に入ってもらえて、よかった。わたしもここ、凄く好きなんです。本の匂いってなんだか落ち着くから」
分かる気がした。僕は同意する意味で彼女に微笑んだ。そういえば、と僕は思った。
「遠野さんとは、仲直りできた?」
確かこの段階ではまだのはずだったが、今後協力を仰ぐ上で話題を出しておく必要があった。そう考えると、酷な質問だ。案の定、千種の表情が曇る。自分が嫌になる。
「いえ、実はまだ、勇気が出なくて……ごめんなさい、結人さんにも背中を押してもらったのに」
「いや、お節介なことを訊いてごめん。いざとなると怖くなるのは無理もないよ。千種さんのペースでやっていけばいい」
千種は僕を見ながら困ったように微笑んだ。
「結人さんは、やさしいですね」
それは違う、僕はそう思いながらも話を進めた。
「そんなことはないよ、ただ実は僕もあの後に遠野さんと偶然話す機会があって、ちょっとギクシャクした感じになってしまって……改めて、もっときちんと話したくて探してるんだけど、避けられてるのかなかなか会えなくて」
千種が目を丸くする。
「琴音ちゃんと、会ったんですか?」
「アパートの前で素振りをしていたら、彼女の方から話しかけてくれて。池の周りは彼女のランニングコースなんだろうね。でもその時に、千種さんの話になって、意見が割れたんだよ」
自分の話になったためか、彼女の表情は複雑だった。
「琴音ちゃんは、昔ちょっと色々あって、男の人が苦手なんです」
千種は苦し気に目を伏せながらそう語った。
「それは、感じたよ。彼女は、すごく傷ついてるんだなって。苦しいくらい、伝わってきた。だから、これもお節介な話だけど、遠野さんについても何か手助けできることがないか、とも思ったりはするんだけどね」
自分が大それたことを言ってるのは重々承知だ。そう思うと自然、僕は自嘲的な笑みを浮かべることになった。千種は下唇を嚙みながら僕の方を一瞥すると、またすぐに視線を外した。
「やっぱり、結人さんはやさしいですね」
その言葉には乾いたニュアンスがあった。確かに役目であるとはいえ、無節操に少女たちにお節介を焼き続けているわけで、軽薄に感じられたのかもしれない。話題を変えよう。
「それからごめん、結局あれから奉習のお礼が出来てなかったね。待ってるのも変かと思ってあの日はすぐ帰ってしまったものの、連絡手段がなかったから」
千種は慌てた表情をした。
「そうですよね、連絡先、教えてなかったですもんね。い、いま、交換します?」
僕は少し考えた。だがこの後、若菜ともバス停で強制的に交換させられることになるはずだ。そのくらいは許容範囲に思えた。
「お願いしようかな」
そうして僕らはSNSで友人登録をし合った。
「奉習での千種さんは、すごく堂々としていて、綺麗だったよ」
千種が頬を染め、目を伏せる。
「その後も順調に進んでる?」
そう尋ねると、彼女の顔に影が落ちる。そしてやにわに歩き始めた。歩むその先に、掲示板のようなものが目に入る。そこには琴音が水泳の大会で活躍したことや、若菜が廃屋を利用したインスタレーションアートで注目を浴びたということについての村の新聞記事が掲示されていた。確かに、前回の世界で見た彼女のアトリエの記憶が微かに残っている。それだけ、僕の中に爪痕を残したということなのだろう。人はそれを、才能と呼ぶのかもしれない。だが千種はそれらをやや虚な目で眺めていた。
「……やさしくていい娘」
「え?」
千種がぽつりと呟いたその言葉に対する僕の疑問の声は、僅かに図書室の静謐に波紋を立てただけで、何も応えは返ってこなかった。
「……何か、気になってるの?」
そう、僕が改めて問うと、千種はふらふらと机間巡視をするように歩きながら語った。
「奉習には慣れてきました。やりがいも感じます。でも……」
灯火が風に吹かれている。
「わたしに務まるのかなって」
意外だった。どちらかと言えば、他の選択肢への影響を心配しているのかと思っていたが、彼女は伝統の継承の方に不安を感じている?
「どうして、そう思うの?」
千種は立ち止まると、しばしそのままの姿勢で動かなくなった。蝉の鳴き声が遠い。
「今から聞くこと、誰にも言わないって、約束できますか?」
彼女は振り返らず、顔だけを僅かにこちらに向けながらそう言った。自分が唾を呑んだ音が他人のもののように感じた。
「約束するよ」
彼女が振り返る。その瞳の色はどこか濁っていたが、不思議に美しく、僕の心を捉えて離さなかった。
「巫女の奉仕……お勤めは、昔はもっと過激だったそうです。性的な色が強かったって」
なるほど、彼女は今後自分にもそうしたことが求められるのではないかと不安なのかもしれない。
「志保さんや和夫さんの話から、そうなのかもしれないとは思ってたよ。でも、あの二人がいれば、千種さんが望まないような形を強いられることはないんじゃないかと思う。それにしばらくは、微力ながら僕もいる」
和夫さんは立場的に難しいこともあるかもしれないが、志保さんと僕は間違いなく千種の気持ちに寄り添うことが出来るはずだ。僕は安心させようと微笑んだつもりだったが、千種は表情を変えずにかぶりを振った。
「そうじゃ……ないんです」
どう、違うというんだろうか。
「わたし……」
彼女の手が祈るかのように握り合わされる。
「想像するんです。お勤めをしていた頃の母や、すみれさんや、文乃さんや、もっと昔のたくさんの巫女さん達のこと。詳しいことは、聞いてません。でもニュアンスで分かることもあるんです。特に母は、そういうことにはオープンだから。以前話しましたよね?里中のお爺ちゃんのこと。わたしのお神乳を飲んで、たぶん亡くなった奥さんのことを思い出して、泣いてた。でも帰る時は、すごく穏やかな表情で……」
いつもの千種の、慈愛に満ちた表情。でもその中に、微かに知らない色が混じっている。
「胸が、締め付けられるような気持ちになるんです。村の人達の、渇きを感じる。そうすると、なんだか、村のお母さんになったような気分になるんです。もっと何かしてあげられるんじゃないかって。してあげたい……って」
村の、母。
「もっと近くで、もっと温かく、もっと柔らかく包んであげたら、喜んでくれるんじゃないか。そうして、みんなの渇きを癒すことができたら、わたし……」
僕は、その感情を知っている気がした。
「変、ですよね。自分でもよく分からないんです。どうして、そんな気持ちに繋がるのか。それにもちろん、怖いです。でも、わたしが本当に恐れてるのは、別のことなのかもって……」
「別のこと……?」
彼女の感情が図書館の中の空気と共に、肺の中に流れ込んでくる心地がした。
「それは……誰の渇きなんだろうって……」




