霞(後編)
僕は改めて見極めなければならなかった。目の前のこの神性にどう対応すべきか。善か悪か、敵か味方か、そう単純ではないかもしれない。
「わたしがこの村に来た約四百年前、村には完全な搾取構造が出来上がっていた。そして、わたしはそんな搾取的な環境下で悲痛な叫びを上げる巫女たちの情動と……ある異質な揺らぎを偶然にキャッチした。惹き寄せられたと言ってもいい」
「異質な揺らぎ……?それがジュと呼ばれた邪神?」
ヌァルーは頸を振る代わりに、僅かに瞼を絞った。
「もっと馨しく、怖ろしいものだよ。あれは、フナに紛れて土佐錦が泳いでいるみたいだった。花崗岩の中の尖晶石、スギナの奥の銀竜草――なんでもいい。彼女はもはや人のカタチをした概念、あるいは自然現象にすら近かった」
喉がカラカラに乾くのを感じた。
「――それが六百年を生き永らえた始祖の巫女、瑞葉」
言葉が、出なかった。
気づくと目の前に水の入った冷えたグラスが置かれていた。
「よかったらどうぞ。会話には飲み物が必要でしょ」
僕は喉の渇きに耐えられず、そのグラスの水を半分ほど一気に飲み干した。この渇きは肉体なき僕の緊張がもたらしたものだ。
「続きを」
「瑞葉の噺はこのくらいにしよう。知らない方がいいこともある。そして、その時は相手が無警戒だったこともあって、奴――ジュを封じるのは簡単だった。不意打ちだね。そしてわたしは巫女の夢を介して交信し、霞様として村の神になった。村民にはそれまで虐げてきた巫女の祟りか何かと映ったみたい。わたしたちは巫女を贄ではない、村で最も神聖な存在として崇める今に続く信仰の体系を作った」
蝋燭の周りを蛾が舞い、部屋の光が揺らぐ。
「三十年前に、なにがあったの?」
僕は核心に迫った。和夫さんらが度々口にしていた何かが、そこにあるはずだった。
「それは多分、結人、君自身が当時を知る人間から直接話を聞いた方がいいと思うよ」
「それは、なぜ……?ひょっとして神がプライバシーを気にしているのか?」
ヌァルーがニヤリと笑う。
「そうだね、わたしは極めて現代的な神性だから。でも本当はそこじゃない。その理由は今から説明するよ」
突然、それまでの世界が霧散し、風を感じた。目の前には広大な水平線が広がっていた。蝉の声と波の音、子どもたちの遊ぶ声が聞こえる。僕らは堤防の上に横並びで座っていた。
「へぇ、こんなイメージもあるんだね。根暗な結人らしくない。でも悪くないね」
僕はきらきらと輝く海面の美しさに目を奪われていた。僕の中のどこにこんなイメージがあったのだろうか。
「わたしはね、結人に、彼女たちの成長を促し、見守って欲しいんだ」
「彼女たち?」
ヌァルーは海を眺めていた。カモメの声がする。ヌァルーの白い肌に夏の日差しが痛々しくすらあった。
「わたしと繋がりの深い巫女の血の濃い少女たち。千種に、琴音、それに若菜」
「彼女たちの成長が、ヌァルーの力になる?」
「そう、彼女たちの心が成長することにより得られる自信、喜び、共感や友情、相互理解と互助精神、そういった人間らしい前向きな波長がわたしの力になる。強いて言えばだけどね。わたしは敢えて君が受け入れやすいような言い方をしているかもしれない」
ジュという神が搾取する神だとすれば、ヌァルーのそうした性質を何といえばいいだろうか。僕はかつてそれを学び、求め、よく知っているはずだ。そう――
(『共生』だ)
ヌァルーの見つめる先、水平線の向こうを僕も見やる。寄せては返す波の音が僕の心を落ち着かせた。
「でも、なんていうか……」
「地味だって言いたいのかい?」
僕の思考などはお見通しというわけだ。
「そうだね……あの……目と耳を覆いたくなるような凄惨な状況を覆す方法としては、正直そう思った……ある意味、ちょっとセカイ系っぽいね」
「ふふ、じゃあ聖剣や聖遺物を探したり、君の秘めたる潜在能力を開花させる旅にでも出るつもりだったのかい?」
僕は小さく肩をすくめて見せた。
「そういうメタファーが君の、ひいては彼女らの成長を促すなら、君をそういう世界に『異世界転生』させるのもやぶさかじゃない。でもわたしにはそれはあまり有効には思えない。主義じゃない。メタファーがその領分を超えて実存を持ってしまえば、コンテキストの問題が生じる。アクチュアリティが損なわれる」
神にとっては僕らが信じきっている科学も世界観も、数ある物語の一つに過ぎないのかもしれない。
「だから結人、物事というのは本質的にそういう地味なものだ。大きな土砂災害を防ぐのに地道に苗木を植えるしかないようなことだって多い。大事なのは積み重ねだ。そしてその結果生まれたほんの僅かな差が明暗を分ける」
その通りだ。
「そうだね、そういう積み重ねが案件を炎上させないために必要なんだ。でもそういう地味なアクションは評価されないし、クライアントの気まぐれで燃える時は燃える」
「ビジネスの話かい?無粋だねぇ。こんな綺麗な景色を前にしてすることじゃないよ」
「ビジネスでも、研究領域でも、人間関係でも、何にだって言えることだ。ヌァルーの言う通りだ」
でも確かに、無粋だ。この光景をずっと眺めていたい。霞巫峰村は山間部の村だ。いつか彼女らと、広い海を見られるだろうか。
「結人、こんなことを言うと君を追い詰めることになるかもしれないけど、君が村に来なかった可能性の世界もあるんだよ」
僕が村に来なかった?
「結人はどうして村に来たの?」
「地図でたまたま、霞巫峰村の名前を見つけて――」
「もっと根本的なことだよ」
始まりの喪失。
「紗季が……死んだこと……」
「あの事故がなければ、結人が村を訪れることはなかった」
またあの耳鳴りがして、僕は思わず顔を伏せる。
「結人は村に来て、何度かビジョンを見たでしょ。幻覚と言ってもいい」
僕は顔を上げてヌァルーの方を見る。
「あぁ……見たよ」
「あれは結人が村に来なかった世界で起きたかもしれないことだよ」
あの淫靡な光景が実際に起きたこと?でも、あの時感じたリアリティは、それを裏付けるだけの強さを持っていたのも確かだった。
「宴の夜、結人は起一のことを止めたでしょ?あの行動がなければ、起一は千種の魅力に抗えずにちょっとしたトラブルに発展した」
僕はヌァルーから目が離せない。
「大丈夫、起一も根は悪い奴じゃない。そこで起きたのは結人が心配するような凌辱的なことではないよ。でも、純真無垢な少女を否応なく開花させるには十分なこと」
あの時、確かに僕は虫の報せとも言うべき何かを感じた。
「結果として千種は大きく傷つかず、その一件は成長のきっかけになった。それは千種の強さや素質があってのこと。あくまで表面上の結果としてだけど、白木や志保のサポートもあったからね。わたしにも本当のところは分からない。人間心理の深みなんて、ね」
僕は続きを聞くのが怖くなった。
「そして、三人は村の因習に対してそれぞれの在り方を見つけ、成長し、友情を育み、私はそこから得られる情動や情欲を糧にして奴を封じることに成功した」
ヌァルーが堤防の上で立ち上がる。いつの間にか空は雨雲で覆われ、今にも雨が降り出しそうになっていた。
「今回は色々と足りなかった。それは結人のせいではないけど、結人が鍵になってるのも確かな事実だ。塞翁が馬ってね」
ポツポツと雨粒が堤防や僕らの服に印をつけ始める。ヌァルーが僕を見下ろす。
「君に力をあげる。よくフィクションで見たことあるでしょ。時巡り、タイムリープ、呼び方はなんだっていい。結人はこれから再びあの西暦二〇二四年七月三十一日からの日々を繰り返すんだ」
夕立だ。雨の勢いが止まらない。
「わたしや彼女たちのためだけじゃない。君が悲劇に見舞われた後、この村に来たことにも意味があるはずだよ」
カシャリ、とブレーカーが落ちたように世界が暗転する。浮遊感――
「大事な記憶以外は持っていけない。そして繰り返すことはきっと結人の精神を摩耗させるだろう。限界だと思ったら言って欲しい。この円環から、君を解放する」
聞きたいことは山ほどあった。でも、そこが限界だった。
僕の意識は再び闇の中に沈んでいく。




