霞(前編)
遠くから鐘の音が聴こえた気がした。闇。目を開けているのか閉じているのかすら分からないほどの闇。手で瞼に触れてようやく、そこが本当の闇であることが分かる。しかし重力を感じない。上も下もない。
「僕は死んだのか……?」
自分の声が自分の声でないような気がした。そして間抜けな問いだ。だが思わずそう声に出して確かめずにはいられなかった。状況がつかめない。前にも後にも進みようがない。何か触手のようなモノに首を絞められた。これは夢で、今頃僕は病院のベッドの上かもしれないし、あの出来事自体が夢だったかもしれない。いや、そもそもこの村自体、存在しないのかもしれない。なんとかして現実世界の自分の目を開けて体を起こせば、隣には紗季が寝息を立てているかもしれない。ふふ、だとしたら客席はブーイングの嵐だろう。みんな僕が惨めに死ぬことを望んでいる。だとすれば、やはりここは死後の世界なのだろうか。
しかしやがて、視界に白い綿毛のようなものが入ってくる。それは染みのように空間に拡がっていき、みるみるうちに形を成していった。それは少女のように見えた。だがあまりにも白い。床……があればの話だが、床まで垂れ広がりそうなほどの長い白髪。白いキャミソール。やがてその瞼がゆっくりと開かれる。そこには血のように紅い双眸が収まっていた。異様。
「君は死んだ、混沌に回帰した。その認識で概ね問題ないよ、結人」
不思議な響きの声だった。でも、その見た目の異様さに比して、その声色には人間臭さを感じた。
「自己紹介から始めようか。わたしは、みんなが霞様と呼んでいる村の神様。|Nualu-Stigua《ヌァルー=スティグァ》。最近はそう名乗ることにしてる。ヌァルーでもナルちゃんでもお好きにどうぞ」
独特の発音に脳がやや混乱する。ラブクラフトの神話体系に出て来そうな名前だ。僕は何から尋ねていいのか分からなかった。
「混乱しているね。そりゃあそうか。落ち着くまでトークしよう。仰々しくする必要も、焦る必要もないからね。ここ百年ほどでわたしもようやく人間らしい思考というものに慣れてきたけど、いかんせん話し相手がほとんどいなくて退屈してたんだ」
神というのは饒舌らしい。突然の不条理を前に僕に抗うすべなどない。これが夢なのかどうかすら判然としないのだ、流れに身を任せよう。
「ちなみにわたしのこの姿は若菜のイメージする理想の神を元にしてるんだ。なかなか可愛いでしょ」
不意に重力を感じた。小さな蝋燭の光が灯り、瞬く間に二畳ほどの狭い空間が現出する。僕とヌァルーはその中に収まる形になった。
「落ち着かないだろうと思ったから、結人のイメージを参考に、わたしと君が語るのに最適な表象世界を用意してみたよ。これはなんだろう、サイレントヒルかな、村上春樹の影響?森見登美彦のテイストも感じる。陰惨で知的で怪奇な雰囲気だ」
それは正にイメージ通りだった。僕とヌァルーと名乗る神はこういう空間で話すべきだ。僕はなぜかそう思った。埃っぽい部屋は作り付けの本棚で囲まれ、蝋燭の周りには蛾が飛んでいた。後方のくたびれた木製のドアはきちんと閉まってなかった。今も誰かが隙間からこちらを覗き込んでいるような気がした。
「なぜ、僕をここに?みんなはどうなった……?」
多分いまはそれが一番重要な話題だ。
「せっかちだね。まぁ、いいよ。でもあの世界はもうどうにもならない。みんなのことは、一旦忘れることだ。あの物語は、もう終わってしまった。酷なようだけどね。わたしが力を取り戻せれば、少しはマシにできるかもしれない。だからどうにかしたいなら、まずは話を聴いて欲しい」
僕は一度瞼を閉じ、改めてその柘榴のような瞳を見つめた。
「まず結人とわたしがこうしてお話出来るのは、君の中にも微量に巫女の血が流れているから。そして一番重要なのは、わたしと一番波長の合う若菜と君の精神的な繋がりが強いから」
巫女の血?しかし微量と言っていた。そういうこともあるのだろう。家系図など見たこともない。だが若菜と僕の精神的な繋がり?
「若菜と僕……?」
「そうだよ、鈍感な結人は分かってないだろうけど、若菜は君のことを随分と信頼している。ただ若菜自身にも無自覚な部分があるから、そこはあまり結人を責められないかも。大丈夫、鈍感系主人公ってほどじゃない」
若菜が僕を信頼していると言われて、もちろん悪い気はしない。ただ実感がない。彼女ともっと話せればよかったのだが……感傷的になっていても仕方がない。
「僕はこれからどうすれば?」
「わたしが力をつけるのを手伝って欲しい。あいつより優位に立ち、御すために」
若菜達を蹂躙し、僕を絞め殺したあの存在。恐らく神崎君は憑代で、どこまで彼の意思が介在していたかは分からない。
「神崎悠斗は憑代に過ぎない。今回は彼の血筋と脆弱性を突かれた。そもそも前回の封印が不完全だった。本当に倒すべきはその本体、君たち人間に言わせるなら厄神、邪神、そういった存在。Ju-Zagrua。千年前にこの村に来た全ての元凶」
スケールの大きな話だ。千年前というと、平安時代頃になる。
「ただ発音はわたしが多少アレンジしていて、元々は、呪う、邪、喰らう、魔羅の『羅』、という字を連ねて、古くは村民に呪様なんて呼ばせてたりもした。己を恐ろしく、大きく見せたいあいつらしい、いかにもな名前だよ。もっとも、三十年ほど前には霞の呼び名に対応させるようにして、『朧』と呼ばれるようにもなったけどね」
ヌァルーは目をすがめた。そのジュと呼ばれた邪神への嫌悪が読み取れた。
「でも現代ではクトゥルーの神話体系に寄せた音にした方が、異端の神性を認識してもらうのには合ってるかなと思って、わたしはヌァルーって名乗ることにした。それに合わせてあいつもジュ=ザグルアって呼んでるってわけ」
何が楽しいのかニヤニヤとしながらヌァルーは話を続けた。話すのが楽しいのかもしれないが、神の思考なんて畏れ多くて分かるはずもない。そもそも本当に笑っているかどうかも定かではない。
「呪から『ジュ』になるのは分かるけど、『ヌァルー』はどこから来たの?」
瞬間、ヌァルーの髪の先が蛸の触手のように変貌し、ぬるりと蠢いた。
「わたしに近い権能をもっているクトゥルーの神の名前からニュアンスを拝借して、あとはインスピレーションかな」
ヌァルーは触手の先で床に落ちた本を器用に拾い上げると、棚に並べていく。僕はその動きをつい目で追ってしまう。
「ちなみに、巫女の血筋の少女を乳が出るように作り変えたのも奴の所業だよ」
さりげなく重要な話が始まった。
「作り変えた?」
思わず、声が強張る。確かに奴は、僕のことも作り変えるようなことを言っていた。
「それがあいつの権能だからね。命を作り変え、使役し、搾取する」
「なぜ……そんなことを?」
ヌァルーの触手が僕の足元から這い上がり、頬を撫でる。
「前提として、わたしと奴はある点においてよく似ている。それは人間の情動を糧にしているということ」
ヌァルーはテーブルに肘をついてなおも僕の体を撫で続ける。くすぐったいのをどうにか我慢する。
「いいね、その反応。おいしいよ。もっと気持ちいいことしてあげようか?」
「ふざけないでくれ」
ヌァルーの触手がするすると引き下がっていく。
「悪かったよ。こういうことはもっと信頼関係を築いてからでないとね」
どこまで本気なのか分からない言動だ。
「それで、あなたは僕のこういった感情を含めた情動が糧だと」
ふと、眠そうなヌァルーの目が真剣な色を帯びる。
「誤解しないで欲しいんだけど、わたしが好むのはあくまで人間のポジティブな情動や情欲。嫌悪や嗜虐性といったネガティブな感情の温床となる情動は好まない。それがわたしと奴の違い」
それが真実であれば、僕は少しこの神性を誤解しかけていたのかもしれない。もちろん、鵜吞みにしていいのかは分からないが。
「奴は人間の嫌悪や憎悪といったネガティブな感情、あるいはそれを誘発する嗜虐性や残虐な感情それそのものを好む。そして、そうした情動を生成する人間の養殖場としてこの村を作り変えていった」
神々の前では僕たちは家畜同然なのだと、思い知らされる。
「そのためには村を安定的に発展させる必要があった。当時は現代ほど医療が発達してなかったし、食糧事情も酷いものだった。乳幼児死亡率が高く、平均寿命にしたら二十数歳だったろうね」
語られているのは村の過酷な歴史だったが、僕はつい純粋な知的好奇心をも刺激されていた。
「そこで、お神乳が生まれた。村では元々は荼枳尼天、しばしばお稲荷様と同一視される神様が信仰されていたんだけど、これに仕える巫女を贄として差し出させることで、奴は自分を神とする信仰の体系を作り上げていった」
風もないのに蝋燭の火が揺らいだ。
「同時に贄を、お神乳が出る体質に作り変えた。お神乳は村民のための糧食としての役割と生殖を促す役割、そして奴のために村民の情動を刺激し生み出すという三つの役割を兼ねていた」
ヌァルーは指を一本ずつ順番に立てながら説明した。
「だから贄は、母であり、女であり、家畜だったというわけ」
おぞましい神話だった。それがただの神話なら良かったのだが、僕は実際にお神乳を口にしている。
「よく……」
ヌァルーの瞳が僕を捉える。僕の言いたいことなんて言葉にするまでもなく伝わっているかもしれない。
「よく、今まで血が絶えなかったね」
「結人は釣りをしないと思うけど、穴場の釣り場を見つけたとして、それは自分だけの秘密にしたくならない?ましてそれが自分が大事に育て作り上げた環境なら、なおのこと」
ぞくりとした。邪な神と人間のエゴとの類似性を指摘されたことに、僕はなぜか恐怖した。
「あまりおおっぴらにやると、横取りされるかもしれない。あるいは漁業権だなんだと介入が入って、君自身が糾弾されるかもしれない」
今の僕には正確には肉体というものはないのかもしれないが、それでも脇の下に嫌な汗をかくのを感じた。
「そうやってあいつは慎重に村を育てていった。でも結局、横取りされた。横取りした簒奪者……それがわたし」




