村Ⅲ(後編)
途中、少し休みを入れつつ、ゆっくりと石段を下り切った頃には、ミンミンゼミの声にキキキというヒグラシの物悲しい音が混ざり始めていた。そんなに長く滞在したつもりはなかったのだが、なんだか時空が歪んでいるような錯覚に陥った。僕は村の南東の斜面にそって、更にぐるっと村を見て回った。東側には畑が多く、村の中でも特にのどかな雰囲気が漂っていた。ちょろちょろと耳心地の良い小川のせせらぎを聴きながら小さな石の橋を渡り、向日葵の間を抜ける。向日葵には心惹かれるところがある。鮮やかな黄色い花弁は、自分にないものを持っている、そんな雰囲気がある。憧れさえ、今の僕には無縁に想える。
ふと、西側の斜面から村を見ていた時に目にしたモダンな家屋が目に入る。広い庭には様々な植物が植えられ、よく手入れがされていた。華美にすぎない、素朴で上品な空間がそこにはあった。きっとガーデナーの主人は素敵な人なのだろう。
(そろそろ白木さんのお宅に向かうか)
日が暮れ始め、トンボが飛び、辺り一面がこんがりと茜色に染まり始めていた。逢魔が時。日本にはそういう表現がある。なぜだかそれを思い出した。この村に霞のように漂う神秘的で妖しい雰囲気が、僕の思考を震わせた。逢魔が時には不吉なことが起きるという。だとすれば、視線の先に広がる黄金色の地平線も、僕を黄泉へと連れ去るための眩惑なのかもしれない。僕は誘われるように足を前に踏み出していた。
ザァという魂を攫うような音がした。麦畑だった。広大な麦畑が風に吹かれ、波のような音を立てていた。それと同時に、麦畑の前に佇む少女のほつれた髪も風に流される。……少女?
「……」
そこには少女が立っていた。麦畑越しに夕日を眺めている。白いワンピースが風に吹かれて舞っていた。それは画になった。一瞬で脳に焼き付く光景というものがあるのなら、いま目の前にしているものは正にそういう類にものだった。
僕は指でフレームを作ると、その中に彼女を収めた。その横顔が夕日に照らし出され、僕の瞳に飛び込んでくる。
(……紗季?)
ひときわ強く風が吹いた。在りし日の妻の笑顔がよみがえる。不満げな顔、泣き顔、熱に浮かされた表情、僕の名を呼ぶ声、胸に染みる匂い、温もり。それらが一瞬のうちにフラッシュバックする。
耳鳴りがする。焦点がぼやけ、世界の輪郭が曖昧になる。
いつものように紗季が玄関を出ていく。行ってきます、と彼女は言った。眠たげで、気だるげな、何も変わらない朝のトーン。逆光で表情は見えない。
行ってはダメだ。僕はそう叫ぼうとした。でも声は出ない。どこかで小鳥が鳴いている。バタンと、扉が閉まる。断定的に。そこに一切の譲歩はない。
行かないでくれ。僕はもう一度叫ぼうとした。同じだ。想いが喉を震わせることない。行き場を失い、僕という容れ物の底に沈殿していくだけだ。
足元が崩れ、闇の中へと落ちていく。途中、色んな人が僕に語り掛ける。彼は警察だろうか。確かに、事故の後に警察からの聴取を受けた。相手ドライバーの状況が説明される。アルコールや薬物は検出されず、過労と睡眠不足でハンドル操作を誤ったのだと。
処罰感情……?誰が誰を処罰するって言うんだ。誰が、何が、ドライバーをそんな風に追い詰めたんだ。……どうだっていい。感情というものが、武骨なクレーンアームで根こそぎ捥ぎ取られていた。
「あのっ!」
鈴の鳴るような声が、向き合うべき現実へと僕を引き戻す。
「だいじょうぶ……ですか?」
いつの間にか、目の前にはさっきの少女がいた。妻とは違う。妻はもう少し声が低かった。当たり前だ。しかしその心配そうな表情には、妻の面影があった。姿形がすごく似ているというわけではない。雰囲気だろうか。通ずるものを感じた。少女の後ろには、やや胡散臭そうに僕を見る小学生くらいの男の子が二人いた。一人は手に何かを抱えている。
(……カエル?)
ウシガエルと思しき茶色い巨体のそれは突如「ヴッ」と一鳴きすると、その少年の手を逃れ、麦畑の中へと姿をくらませた。
「あっ、こら!」
二人はこちらを気にしつつも、カエルの方が魅力的なのだろう、そのままどこかに消えてしまった。少女は彼らのことをしばし目で追っていたが、すぐにこちらに向き直り、微笑んだ。僕もそれにぎこちなく笑みを返したが、ちゃんと笑顔になっていたかは疑問だ。
「すみません、ご心配をおかけしたようで。僕、その……変、でしたよね?」
しばしばフィクションで「怪しい者ではありません」というフレーズがある。様式美のようなものなのだろうが、僕はその言葉の説得力のなさとチョイスの不自然さに辟易していた。そんなわけで、まずは自分の怪しさを認めることにした。とはいえ、今日の僕は謝ってばかりだ。
「い、いえ!変とかっていうわけじゃ……確かにその、様子はちょっと不思議な感じでしたけど……わたしの方を見て、何かすごく驚かれていたようだったので」
礼儀正しい娘だった。そして内省的な雰囲気がある。それは僕も同じだ。さらに言うなら、妻も。
「よく知っている人に面影が似ていて、それで少しびっくりしてしまったんです。驚かせてしまって、すみません」
少女はまだ心配そうだったが、多少は納得したのか、徐々に落ち着きを取り戻してきたようだった。小さく、深呼吸したように見えた。そして等身大の笑みがこぼれる。
「そうなんですね……そんなに、似ていましたか?」
年の頃は十七八だろうか。警戒心の強い年頃にも思えるが、村の平穏な環境が彼女のような人懐っこい人格を育てるのか、あるいはそれが彼女の個性なのかもしれない。
風上に立つ彼女の淡い香りが運ばれてくる。長い髪は肩のあたりで左右に結われ、髪を縛るシュシュと白いワンピースが彼女の可憐で上品な雰囲気を引き立てていた。
「姿形がすごく似ているというわけじゃないんだ。ただ、その人はもうこの世にいないから」
「あ……」
少女の表情が曇る。まずい、こんなひと回り以上も年下であろう女の子に気を遣わせてどうする。どうもこの村に来てからというもの、僕は気が抜けている気がする。
「ごめん!なんていうか、そんな顔をさせるつもりじゃなかったんだ。ダメだな……」
瞼が重くなり、頭の中に濁った煙が満ちていくような感覚に陥る。
「それより、こんなところで足止めを食わせてしまってごめんね。もうすぐ日も落ちるし、家に帰った方がいい。……話せて、嬉しかった」
僕はなぜ咄嗟にそんな言葉が出たのか、自分でもよく分からなかった。場を取り繕いたかったということはあるにせよ、話というほどの話もしていないのだ。これではナンパだ。
「よかったです」
そう言って、その少女は微笑んだ。目の奥に光が差したような気がした。頭の中の煙が晴れていく。彼女の純粋さはどこにも存在しない図書館の本から出てきたみたいだった。僕はそんな彼女の無垢な表情に、自然と頬が綻んだ。
「それじゃあ、また」
「はい、また」
僕はその少女とすれ違うように進むと、白木さんの家へと向かった。途中振り返りたい衝動に駆られたが、再び彼女の姿を見るのがなんだか怖くて、ひたすら前を向いて歩いた。




