朧(後編)
「月城さんじゃないですか。遅かったですね。でも間が悪いなぁ、もうちょっとでイケそうだったのに、貴方はいつもそうだ……俺の邪魔をする」
僕の中で糸が一本切れたような感触があった。言葉こそ丁寧だったが、その奥の侮蔑的な本心を隠すつもりなど露ほども感じない、慇懃無礼な声色。
「お前、誰だ?」
「神崎悠斗ですが?」
「違うだろ」
僕は、自分の中にこんなにも乾いた感情があったことを久々に思い出した。今目の前にいるのは、人を見下し、簒奪することしか考えていない存在だ。それが直感的に分かった。そういう人間を、かつてはよく見てきた。もちろん、そういう人間にも守るべきものがあり、やむなくそういう仮面を被っていたのかもしれない。でも、僕には僕の守るべきものがあった。甘い顔をしたところで、良いようにすり減らされるだけだ。そして目の前の奴は、それを煮詰めたような強烈な臭いがした。僕が動じないことが分かったためか、奴は苛立たし気に舌打ちをし、態度を豹変させた。
「俺は俺だよ。昔の俺とは違うけどな。もうあんな幼稚なガキじゃない。俺は真理を知った。もう搾取される側の人間じゃない。でも俺は毒され過ぎていた。弱者の論理にな。そんなものは搾取する側から押し付けられたものだとも知らずに。だから高みに至るために、俺は感性を鍛えたんだ。徹底的に」
僕は彼の言っていることが全く理解できなかった。感性を鍛えるとはどういうことだ?
「そんなことより、ようやく役者も揃ったことだ。お愉しみを始めようじゃないか。でもお前の配役はまだ決まってない。今からそれを決める。テストだ。これが誰だか分かるか?」
神崎君の形をした何かが、彼が覆いかぶさっていたものを指さした。見たくなんてなかった。だが奴は彼女の髪の毛を掴むと、僕に向けて顔を見せつけるように引っ張り上げた。短い悲鳴が耳に刺さって、血が出そうだった。
見ないで――彼女は擦り切れ、枯らした声でそう言った。そこには感情の残滓だけが襤褸切れのようにぶら下がっているのみだった。
もはやその面影がないほど泣きはらした顔は、若菜のものだった。眩暈がして、猛烈な吐き気に襲われ、僕は膝をついた。
「脆弱なメンタルだなぁ。興奮するところだろうそこは。感性が貧弱な証拠だ。お前に見せてやりたいよ、俺が今見てるこの色鮮やかな景色を!魅惑の世界を!……どうせお前のは灰色なんだろ」
肉を叩くような音がして、また短い悲鳴が聴こえた。
怒れ――そして今すぐ体を起こして奴を引き剝がせ。
そんな思いとは裏腹に、僕は体に力が入らなかった。
威圧感だ。それは圧倒的だった。それが故に、僕は目の前の存在が神崎君だと思えなかった。非科学的で、邪な何かを感じた。世界が曖昧になっている。そして到底かなわない巨大な脅威を目の前にして足が竦むというのは、こういう感覚なのだろうか。僕は生まれて初めての感覚の前に、指先ひとつ動かせなくなっていた。
「やめろ」
僕は震える声でそんな風に声を出すのが精一杯だった。
「簒奪者が俺に指図するな。今は再教育中だ。血筋の女だからな。若菜には村の母になってもらう」
村の母……?
「何を……言ってるんだ?」
「別にお前が理解する必要なんてない。ヤる側か、ヤられる側か、どっちになりたいか選ぶだけだ。それ以外の生き方なんてない。シンプルだろ?ビジネスの現場にいたなら、お前だって解かってるはずだろ?自分だけは無縁だったとでも言うつもりか?」
僕は強く、奥歯を噛みしめた。
「俺は、俺自身の情動を糧に、一番効率のいい、気持ちの良い方法を選ぶ。村の人口も減る一方だ、今を逃したらもうチャンスはないかもしれないからなぁ」
理解が追い付かない。でも、僕にはまだ気がかりなことがあった。
「千種や、琴音は、どうしたんだ……?」
他の皆も気がかりだったが、若菜の状況を目の当たりにして、僕はまずその二人について問うた。血筋と言うのは巫女の血筋のことだろう。それが相手にとっては価値を持つらしい。なら二人が、そして文乃さん達の身も危うい。神崎君の姿をしたそいつは、いかにも愉しそうに嗤った。
「ああ、まず千種だがな」
わざとらしく間を置いた後、そいつは話を続けた。
「爪を一枚ずつ剥いでやった」
僕はとうとう堪えきれずに嘔吐した。食事も摂らずにここまで走ってきた僕の空っぽの胃から、胃液だけがぱしゃぱしゃと壊れたポンプみたいに撒き散らされた。
「良い声で啼いたよ。いつもの澄ましたお上品な顔からは想像も出来ないような声でな。おかげで自分でも驚くくらい硬くなった」
相手の言っていることが何ひとつ理解できなかった。いや、僕の思考が理解を拒否した。粘ついた脂汗が額から、耳の裏から溢れ出し、嫌な臭いがした。
「両手と両足を全て剥いだら次は爪切りで指の肉を少しずつ削いでやった」
何かあると、いつももどかし気に揉み合わされていた彼女の美しく可憐な指が脳裏に浮かぶ。美しかったものが汚され、傷つけられ、貶められている。目から、口から、全身の穴と言う穴からあらゆる汁が流れ出す。
「でも何回か削いだところであの娘の精神は限界だった。何でもするというから、慈悲深い俺はたっぷり甘やかしてやったよ。心を折るのが最優先だ。肉なんていつでも削げるからな。もっとも、すぐに甘い蕩けた声で鳴くようになったがな。あれには才能がある。下らない劣等感なんて感じる必要はなかったのに、憐れな娘だ」
「人間じゃない……いや……生命への冒涜だ」
視界が歪み、全身が粟立ち、震えが止まらなかった。
「お前に人間性が語れるのか?人間性を語れるのは生き残った人間だけだ。つまり強者だ。お前のような弱者が偉そうに。俺からすれば、俺は人間性のより純粋な部分を啜って生きているつもりだ。俺は人間性で出来ている」
「人間性の……搾取……?」
「そうさ、お前たちも大好きだろう?搾取が。それこそが人間の本質だ。耳触りの良いお為ごかしで弱者を宥めながら、いかに効率的に搾取するかが重要だ。今も昔も変わらない。今はより複雑で馬鹿には分かりにくくなっただけだ」
僕は、言葉を返せなかった。
「あと、琴音とかいう娘な。あの娘には千種のショーを最前列で見せてやった。半狂乱になってて笑えたよ」
呵呵と声をあげて笑う目の前の存在に対し、感じたことのない、熱したタールの如き感情が腹の底から湧き上がる。
「そんな琴音は皮を剝ぐことにした」
(皮を……剥ぐ……?)
ふっと、全身から力が抜ける。それまで体を満たしていた怒りの熱が一気に冷め、背筋が凍った。精神がヒートショックを起こしている。
「……」
声が出なかった。体が、声の出し方を忘れている。あまりの負荷に回路が断絶している。
「そうだな、彼女をリスペクトして水着の形に――」
「お前ぇ!」
怒りが限界を超え、飛びかかろうとした僕の体に何かが絡みつき、止める。触手だ。縛り付け、拘束される。いよいよリアリティが無くなって来た。誰だ、こんな脚本を考えた奴は。
「平和ボケしたお前らは見たことなんてないだろう。見たければ見せてやる」
「……やめてくれ……」
人生で感じたことのない感情だった。人生でこんな惨めな泣き方をしたことはなかった。こんな感情を知りたくなかった。……悪夢だ。そうでないと説明がつかないことが起きている。
「大丈夫だ安心しろ、皮を剝いでもちゃんと代わりのモノを与えて生かしてやる。そういうのは得意なんだ。大事な娘だ。血の一滴、涙の一滴まで無駄にはしない」
「なんだってする……だからもう……やめてくれ……」
そいつは大仰に溜息をついた。
「どいつもこいつも同じようなこと言いやがって。大した覚悟もねぇくせに。それにお前は分かってない。お前に残された選択肢はふたつだけだ。お前がこれまで築いてきた絆には利用価値がある。良いオモチャだ。意思のあるままこっち側に来て俺を愉しませて、お前も少しでも美味しい思いをするか、あるいはここで意思のない人形に作り変えられるかだ。生きたまま作り変えられるのは苦しいぞ?WIN-WINあるいはWIN-LOSEだ。アピールしていこうぜ、お前のメリットをさぁ」
「……」
僕にはなんの力もなかった。なんだっていい、神頼みだって出来るならしたい。虫のいい話だ。神?霞様という秘神はどこにいった?まさか目の前にいるのがそうなのか?考えたところで分かるはずもない。苦しいのは嫌だ。ここは一旦味方になるふりをして、反旗を翻すのが合理的な判断かもしれない。でもそんなのはただの自己正当化にも思える。僕はそんな自分に耐えられるのか?
「あー、ダメだ。お前、めんどくさいな。考えてることなんて丸わかりなんだよ」
僕を拘束していたそのミミズのような触手が、粘液に塗れたそれで首を絞め始めた。振りほどこうとするが、見た目以上に力が強い。その息苦しさは、本物だった。
「お前のような奴は一番虫唾が走る。弱いくせにどっちつかずの態度で状況にぶら下がって、結局何もできやしない。不愉快なんだよ。一回絞めてから使ってやる。じゃあな」
視界が霞む。いや、朧がかかったように、黒く塗りつぶされていく。
「お前にとって俺みたいな存在はファンタジーなんだろうけどな、俺はただの象徴だ。その証拠にお前の弱さはリアルだろ?御伽噺みたいに都合よく特別な力が目覚めたり、助けが来たりなんかしない。そのまま鶏のように惨めに終わってろ」
可哀想にな――奴は最後にそう言った。
耳鳴りがする。意識がぼやけ、皆の顔が浮かんだ。
悔しい。悔しい。悔しい。悔しい。悔しい。悔しい。悔し――




