朧(前編)
酸っぱい、饐えた臭いで目が覚めた。どこかで嗅いだことがある気がしたが、それがどこかは思い出せなかった。
瞼を開けると、そこには自分の膝があった。椅子に座っている。肘掛があり、背もたれの高い、つるりとしたアンティーク調の椅子だ。状況が掴めなかった。周囲は薄暗く、遠くから漏れ出ている灯りでなんとか視界が確保されている程度だった。
立ち上がる。ぶにゅりとした、異様な感触が裸足の足の裏から伝わって来た。ぬめぬめと粘液に塗れた床。いや、肉……?それはまるで、何か巨大な生き物の内臓の中にいるかのようだった。ぴたぴたと耳障りな音を立てながら前進し、灯りの方へと足を運ぶ。周囲の様子が段々と鮮明になってくる。灯りは恐らく蝋燭かランタンか、そういった種類のものに思われた。肉の壁はデコボコとして、大小さまざまな球状の肉塊が並び、脈打っていた。大きいもので、バスケットボールか、それよりひと回りくらいは大きそうなサイズだ。
「それは子宮だよ」
しわがれた声が、僕の耳元で囁き、全身が粟立つ。しかし周囲を見回しても、誰もいなかった。呆然としていると、また違う声がした。
「時間だ」
その声もどこかで聞いたことがあるような気がしたが、記憶に朧がかかったように思い出せなかった。何もかもが曖昧だ。
気がつくと、視線の先には見慣れた天井があった。夢だ。僕は全身にびっしょりと汗をかいていた。汗を吸った布団や下着が不快だ。僕は溜息をつきながら、顔を手で覆った。なんだか、酷く不気味な夢を見ていた気がする。気が昂っているのか、自分の唾を呑み込むだけのことが酷く億劫に感じた。外を見ると、もう日が高い。
まずい、今日は祭祀だ。寝坊どころではない。具体的な役目があるわけではないが、今は千種たちに寄り添わねばならないのだ。跳ねるようにして身を起こそうそして、しかし僕はその場でよろめいた。
頭がぐらつく。
鞄を手繰り寄せ、体温計を探り当てる。脇に挟む。待つ。時計の音が耳につく。視界が歪む。
電子音がして液晶を見ると、40度を超えていた。
記憶している限りで、ここまでの高熱を出したことがあったろうか。
吐く息が熱い。こんな状態で出て行ったって何の役にも立たない。迷惑を掛けるだけだ。何かの病気なら、伝染す危険もある。
「……」
でも、何か嫌な予感がした。本当ならこのまま寝ているのが正解のはずだ。でも、そうしてしまったが最後、もう取り返しがつかなくなる。
なぜか、そんな気がした。社に赴き、一目確かめられれば、それでいい。何も変わらないことを。
若菜の朗らかな笑みを、千種の穏やかな表情を。琴音のことがあるから、いつも通りとはいかないかもしれない。当の琴音も、まだ外には出て来られないかもしれない。それでも――
僕は直感に従い、急いで風呂場に向かった。洗面台の前で鏡を見ると、目に隈ができていた。昨夜は早く寝たはずだが、変な夢のせいだろうか。何かがおかしい。シャワーを浴び、歯を磨き、着替えてすぐに外に出た。
全身に纏わりついてくるような違和感があった。それが何かは分からない。ただ動物的な直感が、僕にそう訴えてきた。道端の草木の細胞ひとつひとつに至るまで、すべてが巧妙に似せられた偽物のように感じられた。僕はともかく社に急ぐことにした。ふらつきながらも小走りに駆け出してしばらくした頃、途中、ひとりの村民とすれ違った。
(……あんな人いたか……?)
祭祀の日だ。出稼ぎから戻ってきている人間も多いはずだ。もちろん、その全てを把握しているわけではない。だが――
「……」
足を止め恐る恐る振り返ると、彼は変わらずゆっくりと歩いていたが、こちらの視線に気づいたのか立ち止まり、ネジを回すように振り向いた。砂場にうち捨てられたビー玉のような、虚ろな目だった。
僕は得体のしれない恐怖にかられ、すぐさま駆け出した。
それからも村民を何人も目にした。彼らは、なんというか、徘徊していた。自分の意思で動いているというより、ただ索然と、動き回っているように見えた。あるいは、何かを探している。何を……?誰を……?
社に続く石段の前まで一気に駆け、上がった息を落ち着けた。見上げると、社の上空には墨色の不吉な雲が、とぐろを巻くように渦巻いていた。
僕は、かぶりを振った。また夢でも見ているのではないかと。
目覚めた気になっていたが、まだ夢の続きではないかと。
僕は部屋の中で倒れ、高熱にうなされながら、悪夢の中で死線を彷徨っているのではないかと。
頬を叩いてみるが、耳まで伝うようにじんじんと痺れる感覚は本物だった。
僕は社の方を睨めつけると、意を決して石段を登り始めた。
石段の両脇の茂みの奥から、無数の何かが僕を監視しているような気がした。
錯覚だ。僕はそんな嫌な感覚を振り払うようにしてひたすらに石段を登っていった。
(おかしい)
登り始めて、かれこれ十五分以上は経ったと思う。
もっと前から違和感はあった。熱に浮かされているせいで足下ばかり見ながら登っていたが、見覚えのある石の割れ目を何度も繰り返し見た気がする。
振り返っても、同じように鬱蒼とした木々が続くばかりで、じっと見ていると闇に吸い込まれそうになった。危うく転落しそうになる。
見上げても、昏い雲があるばかり。
村に訪れたばかりの頃ならともかく、慣れた今の僕ならもうとっくに二の鳥居が見えてくる頃合いだった。
視線――その視線には悪意があった。茂みの奥から僕に投げつけられる眼差しに僕は段々と怒りを覚え始めた。それは僕にパノプティコンを想起させた。きっと、僕の心を折ろうとしている。そう思った。
僕は一心不乱に石段を登り続けた。登ることに集中するうち、僕は蝉の声が聴こえないことに気がついた。彼らが恋しかった。
三十分は経った頃だろうか。二の鳥居の代わりに、目の前に洞窟の入り口のようなものが現れた。僕は一度背後を振り返った。だがここまで来ればもはや進むしかない。夢であれ現実であれ、行きつくところまで行くしかない。今の僕に、他に向かうべきところなどないのだ。
昏い穴を進んでいくと、湿った土と古い木のような臭いがした。そして、夢の中で嗅いだような饐えた臭いがした。そうだ、確かに夢でこんな臭いを嗅いだ。その臭いは歩を一歩進めるごとに段々と濃くなっていった。やがて何かが聴こえてきた。背筋がぞわりとした。聴きたくなんてなかったが、その正体を掴むべく僕は立ち止まって耳を澄ませた。それは声のようだった。無数の、囁くような声。それが闇の向こうに犇めいている。だが今のところ、何かが襲ってくるような気配はない。僕は再び歩き始めた。次第に、よりはっきりとした人の声のようなものが聴こえてきた。それはある場合、悲鳴だった。すすり泣く声や、嗚咽。嬌声や嗤い声のようなものも聴こえる。何かおぞましいことが行われている。全身の毛穴が開き、汗が噴き出る。僕は洞窟の奥の方に微かに見える灯りに向かって駆けた。途中、危うく滑って転びそうになった。土の洞窟はいつしか何か動物の内臓のようなものへと変貌していた。徐々に夢の記憶が蘇る。同じだ。ならこの先に何かが待っている気がする。それを突き止めない限り、この悪夢は終わらない気がした。元凶があるはずだ。
向かう先から、それまでのくぐもった音や声とは異なる、より鮮明な生々しい営みの様子が耳に侵入してくる。それは徐々に湿り気を帯び、激しさを増した。ようやく最奥と思しき場所に辿り着いた時、そこには周囲の光景に不釣り合いなものが鎮座していた。無数の蝋燭に囲まれた、天蓋付きのベッドだ。そこに、彼がいた。
「神崎君……なのか……?」
会うのは去年の夏以来だ。彼は、何かに覆いかぶさるようにしていた体勢からこちらに気付くと、ゆっくりを身を起こし、僕を見下ろした。彼は何も身に着けていなかった。汗ばんだ肌が朧げな光に照らされ、てらてらと光っていた。そして以前会った時からは、雰囲気が一変していた。どこか怒りを感じる、しかし責任感と自制心をも感じさせる、教職志望の誠実そうな青年は、まるで違う何かに変貌していた。最初一瞬それが誰か分からなかった。でもその顔は間違いなく彼のものだった。




