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村Ⅹ

 村の冬は雪深かった。積雪は最高で四〜五メートルになるといい、三メートルくらいまでは実際に積もるのを目にした。僕は雪かき要員として重宝された。比喩としての文化的あるいは経済的な雪かきではない、本当の雪かきだ。今更のように知ったこととして、村の東側には温泉が湧いていた。雪かきの後に雪を眺めながらのんびりと露天風呂に入るのが日々の癒しになった。さすがに冬に水風呂には入らない。その代わり、温泉から外に出ると、寒さが頭の中をクリアにしてくれた。

 時々、子どもたちと雪だるまを作ったり、雪合戦をしたりもした。こういう遊びは昔から変わらない。そして皆、僕よりずっと上手かった。慣れているのだ。子どもというのは時に残酷だ。彼ら彼女らときたら、しばしば除雪用のスコップで僕に雪をかける。もはや僕の知っている雪合戦ではない。そんな風に子どもたちにボコボコにされている僕をよく千種が気遣ってくれた。彼女が止めてくれなかったら多分雪だるまがもう一体増えていた。片や若菜は当然の如く手加減がないし、琴音の球は鋭かった。ヒュッと音を立てて耳元を掠めると、中に石でも入っていやしないかとヒヤヒヤした。

 素振りに、農作業に、雪かき。晴耕雨読の日々。僕の体は段々と引き締まり、それは思考をすっきりさせてくれもした。本当に心が疲れている時はなかなか体を動かす気持ちにもならないが、やはり心身は一体のものだと実感する。難しいのはきっかけ作りだ。それは種火のようなものだ。何処かからもらってくるか、自力で火を起こすには相当に労力が必要になる。そう考えると、それだけでも僕は幸運だった。僕は和夫さんや、少女らやその母から火を貰ったと思う。この村に来て良かった。アパートの通路の柵に体をもたれ掛けて降り積る雪を眺めながら、僕はしみじみとそう思った。

 お神乳の奉仕のお勤めは秋祭りの折などにも行われ、和夫さんと稲葉さんとの定例も相変わらずだったが、状況に大きな変化がないため、ほとんどただの老人会になっていた。僕としても拍子抜けだったが、それを正直に口にすると、僕の存在自体がある種の抑止力になっているのかもしれないと和夫さんは語った。具体的にそれが何の抑止力なのかは分からないが、村を訪れた日の夜、彼が語った「自分だけでは村の都合を優先してしまうかもしれない」という言葉を思い出す。なら僕がいなくなったら?とはいえ僕の今後をこの村前提で考えるのは、誰のためにもならない気もした。それに、進路選択という重要なタイミングを見守ることが出来れば、それ以降はそれこそ過保護になるだろうとも思われた。予定通り、来年の夏の祭祀を節目にしよう、僕はそんな風に自分を納得させた。志保さんだっているのだ。

 

 ただ、村の歴史の特殊性を再認する機会もあった。あれはまだ九月頃だったろうか。その日は農作業の手伝いで親しくなった人が離れ屋をリフォームするというので、ペンキ塗りを手伝っていた。脚立の上や階段など、しばしば足場の悪い状態で壁や天井に(ムラ)のないよう何度も塗り重ねるのは、思っていた以上に骨が折れた。

 ひと段落ついた所で沓脱(くつぬぎ)に腰を下ろし、主人が持ってきてくれた煎茶と笹団子で休憩となった。団子の素朴な味わいが疲れた体に染みる。その時、隣で同じように茶を啜っていた主人が(おもむろ)にボクに尋ねてきた。

「月城さんや、()()()()()()にゃまだ呼ばれてねえんかい?」

「その、()()()()()()というのはなんでしょうか?分からないということは、多分、呼ばれたこともないと思いますが」

 僕がそう尋ねると彼は顔の前でウンカでも払うかのように手を振った。

「そげかい、御祈祷だの、まぁ呼び方ぁいろいろだがの、和夫さんの信頼も厚いみてぇだで、どげんずらかって。わしから聞かれたってぇことぁ、よそでぁ言わねぇでくれよ」

 そういえば祭祀でも巧二さんがそんなことを言っていた。新参者(ゆえ)、また半ば部外者であるために自分には声が掛からないのだろうと、その時はさほど気にも留めなかった。だが繰り返しそう訊かれると気になってしまう。ましてそれが村の伝統に深く根ざしたものであるなら自分は知るべきなのではないか?だが、必要なことなら和夫さんから説明がありそうなものだ。時期尚早ということなのか、あるいは――

『もっと物事の良い面に目を向けなされ。あなたが、既に周囲の人間にそうされているように』

 和夫さんの言葉が思い出される。僕はなるべく、その通りにしてきたつもりだ。和夫さんに対しても。でも、それがブラフだとしたら……?

 彼の柔和な笑顔と父の顔が重なる。愚かにも、僕は彼に父の面影を重ねているのかもしれない。冷徹になる必要がある。

 そんな僕の思考を、隣から聴こえるポッ、ポッ、という奇妙な音が遮った。見やると、主人が口を金魚か鯉のように開けたり閉じたりして音を立てていた。恐らく僕は怪訝な表情をしていたのだろう。彼は苦笑いを浮かべると、弁明した。

「こりゃどうも、口さみしくなっちまってよ。煙草でも吸えりゃあええがのう」

 そう言われたら、この村では喫煙者を見た憶えがない。村の平均年齢の高さを考えると、世代的には居てもおかしくない。僕は率直にそのことを口に出してみた。

「確かに、この村では愛煙家の方をお見掛けしませんね。僕も今は吸わないので、気は楽ですが」

 僕の職場は特に上位レイヤーになるほど喫煙率が高かった。喫煙所は非公式のコミュニケーションの場となり、煙に(ほだ)されることで醸成される連帯感のようなものを感じることは少なくなかった。その頃すでに僕は煙草を絶っていたから、当然蚊帳の外だ。

「何か、秘訣でもあるんでしょうか?」

 僕はそう、隣の主人に話の水を向けた。

「やっぱし、お神乳のおかげじゃねぇかなぁ」

 予想しない文脈でのお神乳の話題に、僕は些か混乱した。

「お神乳……ですか……?」

 何か禁煙を促進するような効能があるのだろうか。主人が含みのある表情で僕に視線を送る。

「月城さんや、()()()ことねえもんけ?」

「奉習と祭祀では、口にしましたが――」

「いや、そげじゃねえよ。巫女様の乳房(ちぢ)から(じか)に吸わせてもらったことねえべ?って話だがの」

 僕は息を呑んだ。

「それは……ええ……もちろん……」

 『もちろん』――ただそれだけの言葉が、僕の伽藍堂の如き頭の中で虚ろに響いた。

「あれを知ったら、煙草なんて吸う気になんねえよ。そんでなくても、口ん中がヤニ臭けりゃ巫女様に失礼だしなぁ」

 なんと返していいか分からない僕を置き去りに、主人は尚も語る。

美味(うめ)えだけじゃねえ。(こら)えきれねえで巫女様の喉っから漏れる声が艶っこくてなぁ」

 僕は動揺に声が震えそうになるのを抑えながら、しかしこう尋ねずにはいられなかった。

「そういったことは、いつ頃まで続いていたんでしょうか……?」

 すると、主人のぎょろりとした目玉が僕を見つめた。値踏みでもするかのような異様な眼差しに、僕は彼が先刻までと同じ人物だと思えなかった。

「まぁ、先代の頃ぐれえまでゃなぁ。続いてたよ」

 燈子さんのつるりとした白磁のような肩と主人のイメージが像を結びそうになるのを振り払った。いつの間にか、心臓が早鐘を打っていたことに気づく。主人が見つめる遥か前方では、子供らがザリガニを釣っているようだった。

「惜しいこったなぁ……」

 主人は僕の肩をひとつ叩くと、去っていった。

 

 クリスマスになると遠野家でパーティーが開かれ、招待してもらった。白を基調としたスカンディナビアデザインの家はうってつけだった。小さな子ども向けのイベントではトナカイ役をやったりした。正月には羽衣石家がやもめの僕を気遣って年越しそばや御節を食べに来いと誘ってくれた。久々に初日の出を見て、初詣にも行った。石段にも段々慣れてきたと感じると同時に、村に来て半年近くが経とうとしていることを実感した。節分にはまたイベントで鬼役をやったりした。

 

 絵に描いたような平和で充実した日常だ。だがその温かさの中にいると、僕はしばしば何故か無性に胸が切なくなった。喉がつかえて、耳鳴りがした。僕は場の空気を乱さぬように物陰やトイレで声を殺して泣いた。僕はこんなにも涙脆かっただろうか。長い年月をかけて(かめ)に溜った淀んだ雨水がひび割れから染み出すかのように涙が出た。そしてなぜこんな気持ちになるのだろうかと思った。村での穏やかな日々の光景は僕にはあまりに眩しかった。まともな人間になれたように錯覚した。どうして紗希がいないのだろうかとも思った。やがて失われることを恐れてもいるのかもしれない。思考がまとまらなかった。支離滅裂だ。苦しい。苦しい。愛おしい。苦しい――

 夜になると僕は底冷えのする部屋で布団の上で胎児のように身を丸めてまた泣いた。誰かにそっと後ろから抱きしめて欲しかった。そんな自分に嫌気が差した。でも冬の寒さだけは厳しく、そして優しかった。寒さは平等だ。それは僕の存在を知らせてくれる。僕を締め付け、背中に爪を立て、肩に歯形をつけるように、苛んでくれた。やがて僕を置いたまま、雪は解け始めた。

 

 夜の宴会でたまたま起一さんに再会した。彼は僕にこっそりとある秘密を共有してくれた。

「実は、妻が妊娠したんです」

 僕は一瞬呆気にとられたが、すぐに彼を祝福した。

「まだ安定期には入ってないので、千種さんには秘密にしておいてください。万が一があって、がっかりさせては申し訳ないので」

 彼は照れ臭そうにそう言った。僕が渇いた涙を流している間に、命が生まれていた。あるいは、それがもう少し早く分かっていれば、千種は巫女を継ぐ気持ちになっただろうか。


 桜の舞う季節になった。バス停の裏に座って診療所のある広場を見下ろすと、その場を取り囲むようにして絢爛に桜が咲き乱れ、ビニールシートを広げた見物人が昼間から酒宴をしている姿も見られた。僕は元々春という季節があまり好きではなかった。理由は単純で、良い思い出が少なかったからだ。春は僕を無気力にした。唯一、大学進学は僕にとっては穏やかな記憶と言えた。僕自身は入寮しなかったが、学生寮の周りの桜並木は見事なものだった。周りで花見をする学生の退廃的で、気だるげでプライスレスな雰囲気は嫌いではなかった。あの桜を見て初めて、春も悪くないかもしれないと思った。そしてまた、いま目の前の桜もこの村での記憶と結びつき、僕の春のイメージを刷新してくれそうな気がした。

 琴音と千種は四年制大学に進学した。琴音については予想通りと言えたが、千種に関しては少し気になった。詳しく話は聞けなかったが、最後に見た表情は、いくらか寂しげに見えなくもなかった。彼女らとの距離感の取り方は難しい。それでも、もっと話をした方がよかっただろうか。僕はそんな、後悔ともつかない感情に囚われていた。でもその感情も、桜の花の舞い散るがごとく、一時のことだった。僕は僕自身のことも考えなければならないからだ。若菜は村に残った。アートスクールに通いながら、巫女のお勤めをこなしている。実のところ少女らとの別れを寂しく思っていた僕にとって、彼女の存在は部屋の片隅に咲いたサボテンの花みたいに僕の心を癒してくれた。ついさっきまで、隣で三色団子を食べていた。癒しということで言えば、相変わらず文乃さんとの仕事は楽しかった。それはただの癒しに留まらず、僕にかつてない充足感を与えてくれた。おおげさかもしれないが、彼女との仕事はこれまでの人生で最も楽しく、最も情熱をもって臨むことが出来た。僕自身そのことに、ひどく驚き、そして興奮した。そんな感覚は初めてだった。彼女と仕事をすること自体楽しかったが、何より自分の感情や思考を言語化する作業は僕という器の中で澱み、腐敗していたものを洗い流し、絶え間ない流れを生み出していた。僕は真剣に、文筆業で身を立てることを考え始めていた。皮肉なことだが、家族がいれば不用意にそんな風には考えられなかっただろう。だが、今の僕に守るべきものはない。失うものもない。だからこのまま、引き続き若菜の様子を見ながら、自分で設定した次の祭祀という期限まで僕自身の可能性を並行して探っていけば、何らか明るい展望が見えるのではないか。その時の僕は、そんな風に楽観的に考えていた。

 六月になると、村の南西側は紫陽花で美しく彩られた。ちょうど遠野家の前の道にも沢山の紫陽花が咲き誇り、雨露で化粧が施されると、それに惹かれるかのように蝸牛や様々な虫が集まってきた。だがそんな美しい花も、再びあの季節がやってくる頃には色あせ、薄汚れ、跡には僅かに残った花びらと蜘蛛の巣だけが目立つようになった。僕の周囲で不協和音が響き始めたのは、そんな時だ。

 

 七月も終わり頃、僕は鏡渕池のほとりで風に吹かれている千種を見かけた。懐かしさから自然、彼女に駆け寄った。

「千種さん!」

 だが、振り向いた彼女の目は赤く腫れていた。

「結人……さん……」

 僕は何やら深刻な様子でふらふらと身を寄せる彼女を受け止めると、そのまま彼女が落ち着くまでしばらくの間、肩を貸した。

「……ありがとうございます」

「何があったか、訊いてもいいかな?」

「……琴音ちゃんが……」

 琴音に何かあったのだろうか。

「琴音ちゃんに、連絡したんです。夏休み、いつ帰る予定?って」

 彼女は虚ろな目で池を見つめながら話した。

「いつもならすぐに返信をくれるんですけど、なかなか既読もつかなくて……でもしばらく待って返事が来たんです。そしたら、『今は会いたくない、ごめん』って」

 千種の声が軋んでいる。

「わたし、何かしちゃったかと思って、訊いたんです。でもそれっきり返信がなくて、何かあったんじゃないかって不安で……どうしようもなくて……ごめんなさい、久しぶりに会ったのに、わたし結人さんに甘えてばかりで……」

 こんな時に不謹慎かもしれないが、彼女は以前より感情を出すようになった気がした。

「何も、心当たりはないんだよね?」

 彼女は小さく頷いた。

「なにも、分からないんです……だからさっき、もう帰ってるかもと思って、琴音ちゃんのお家に行ってみたんです……そしたら、すみれさんが出て来てくれて」

 今日は平日だ。普通なら仕事で家を空けていそうなものだった。

「琴音ちゃんはもう帰って来て、でもずっとお部屋に籠ってるって。それから、わたしが何か悪いことをしてしまったとかそういうことはないって、そう言ってくれるんですけど……今はそっとしておいてあげて欲しいって」

 何か千種にも言えないことなのだろうか。

「すみれさん、笑ってたけど……苦しそうでした」

 何かが起きている。

『気づけました。私がなりたかったのは、こんな自分じゃないって』

 琴音が千種と仲直りしたことを僕に(しら)せてくれた時、彼女はそう言っていた。彼女は常に千種の眼差しを意識しているように見えた。だとすれば――

(琴音は、いまの自分を千種にこそ見られたくない……?)

 いや、憶測が過ぎる。

「……僕から、すみれさんに訊いてみようか?」

 彼女を見かねた僕の口からつい、そんな言葉が出る。彼女の瞳が揺れている、迷っているのだろう。それが正しいことなのかどうか。

「大丈夫、僕自身も気になるから、僕のために訊いてみるよ」

「よろしく……お願いします」

「千種さんの方はどう?何か困ったりはしてない?」

「はい……ありがとうございます。わたしの方は、普通です。なんだか……親衛隊?が出来ました」

 よく分からないといった顔で彼女は笑った。千種は知らぬ間にアイドルデビューしていたようだ。水面下の戦いが始まっている。苦労が耐えなさそうだ。誰かに恨まれたり、逆に憎んでしまうこともあるかもしれない。そうやって彼女も普通の女性になって行く。彼女の特殊な体質も理解してくれる良いパートナーに恵まれればいいのだが。

「寂しいですか……?」

「え?」

「わたしがいなくなって、寂しいですか?」

 僕はなんと答えるべきか、僅かに逡巡した。

「……そうだね、この村ではよく千種さんが気遣ってくれたから、それは寂しいよ。もちろん、琴音さんが去ったのもね。だから……まずは動いてみる。環境が変わって戸惑うのは普通だけど、そこに何か理不尽な問題があるなら、出来る範囲で何かしたい。彼女は僕のねじを締めてくれた。そのくらいのお節介をやく権利はあると信じたい。それに、僕の寂しさの割に合わない」

 僕はそう言って笑って見せると、千種もそれに追いつくようにして笑ってくれた。

 ただ改めて考えてみると、千種にも話せなかったことを、夏のバーべーキューの夜に一度話したことがある程度の僕に、すみれさんが開示してくれるだろうか。僕はひとつの提案を千種にしてみた。

「僕から訊いてみる、と言った直後に格好がつかないんだけど、燈子さん経由で訊いてみるのはどうかな?」

 二人は仲が良さそうに見えた。もしかすると既に何か知っているかもしれない。

「お母さんに……そうか……そうですね。そうしてみます」

 そしてその夜、燈子さんからSNSで連絡があった。明日、少し話ができないかと。

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