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文乃Ⅱ(後編)

 後日、再び文乃さんに連絡をとって小鳥遊邸を訪問し、予め文乃さん宛てにPDFにして送った「感想文」に目を通してもらった。僕が言葉にしたのは端的に纏めるとこういうことだ。

 『生物学的にも性自認としても男性の私としては、ついついそのタイトルを見てイデオロギー暴露に終始してしまいそうになってしまう。だがその内容を見ていくと新鮮な視点に満ちている。確かに男性学をバックラッシュの一形態と見る批判的な視点は重要だ。価値の簒奪者はどこにでもいる。だからこそやや棘のある本書を、タイトルに惑わされず、男性にこそ食わず嫌いせずに手に取って欲しい。そこには馴染みのある声なき声があり、きっと同じに苦しむ女性と手をつなぐきっかけになるはずだから』

 彼女の怜悧な眼が画面の上を滑る。しばし、目を閉じる。あの美しい睫毛はなにか特別な手入れでもしているのだろうか。

「とってもいいわ。期待以上」

 そう言う彼女の表情には、いつもとは違うプロフェッショナルな風合いがあった。

「もちろん、粗削りな部分はあるし、個人的にはもう少しユーモアが欲しいところだけど、少なくとも初めてとは思えない」

 僕は思わず、機械が排熱するように鼻から長い息を吐いた。自分で思っていた以上に緊張していたようだ。彼女の期待に添えるかどうか。他ならぬ、彼女の。

「ありがとうございます。やはり、褒めるのがお上手だ」

「忌憚のない意見よ」

 文乃さんはそう言ってやや首を傾げるようにして、目を細めた。蠱惑的な表情だ。そんなものを昼間から持ち出さないで欲しい。

「改めて、どうして僕にこんなことを?」

「好きだからよ」

 僕はちょっと怒ろうかと思った。だが、彼女に悪びれる様子はない。つまり、()()だということだ。

「あなたの言葉選び、好きなの」

 鳥が飛び立つような音が聴こえた気がした。部屋に差し込んだ光の粒子が妙にきめ細やかに見える。それは、あるいは直接的に好意を伝えられるよりも、僕にとっては嬉しい言葉かもしれなかった。僕はたぶん、照れていたと思う。でも、そんな僕をその時の彼女は揶揄ったりしなかった。わきまえているのだ。

「ありがとうございます」

「よろしい」

 彼女は満足そうに、花のように微笑んだ。

「それでね?よかったら時々、わたしの仕事を手伝ってもらえないかと思って」

「僕が……ですか?」

「嫌?」

「とんでもないです……すごく興味があります」

 それから彼女は今後の流れを説明してくれた。まずは彼女が書評を任された著作物に関して、カジュアルな形で感想や意見が欲しいということだった。その本のコンセプトや表現の妥当性など。それから簡単な要約やメモ作りなどの補助、文乃さんの書いた原稿の校正や誤字脱字のチェックにも徐々に慣れていき、最終的には僕も彼女と同様に書評を書いたうえで、二人のものを突き合わせてのディスカッションをする。そして僕のスキルが十分になったと彼女が判断したら、僕の希望次第だが、編集者や出版社に紹介し、正式な書評家へのキャリア形成もできるのではないか、と。

「……」

 僕は言葉が出なかった。だが、まず気になる事があった。

「どうして」

 彼女がテーブルの上で上品に手を重ね、傾聴のポーズをとる。

「どうして、僕にそんなに良くしてくださるんですか?」

「もちろん、あなたには若菜のことで感謝しているわ。でもね、勘違いしないで?さっきも言ったけど、わたしはあなたの物事への姿勢が好きなの。プロの端くれとして。知識なんて後からついてくる。でも、根本的なスタンスはそう易々と変わらないわ。その人の生きてきた軌跡が顕れる」

 そこで一度言葉を切り、彼女は紅茶で唇を湿らせた。

「あなたの謙虚で、慎重で、ロジカルだけど感情も大切にして寄り添ってくれる、複雑なものを出来るだけそのまま解釈しようとする、でも袖口にはナイフが忍ばされている……わたしの想像の部分もあるけど、そんな風な思考や言葉が好きなのよ」

 僕はどう返すべきか分からなかった。

「大袈裟って顔ね。確かに、私情も入ってるわ。それは否定しない。でももっと客観的に見ても、あなたのビジネス世界での経験は新鮮な切り口や説得力を持つと思うの。どう?やってみない?」

 断る理由なんて、僕には何一つなかった。

「よろしく、お願いします」

 

 そんな風にして、僕は週に一回から二回ほど、小鳥遊邸にお邪魔して、彼女の仕事を手伝うようになった。ティータイムには若菜が以前言っていたような仕事上の愚痴も聞かせてくれるようになった。信頼してくれているようで、なんだか嬉しかった。だから僕も、つい気が緩んで、ある日ちょっとした自己開示をした。

「以前、僕は言葉が好きだと言いました。そして、それはあなたにも見抜かれていた」

 彼女の温かい眼差しは僕の言葉にレールを敷いてくれた。

「でも僕は二十代半ばの頃から、自分の言葉を信じられなくなっていました」

 早くも喉が渇き始めた僕は、紅茶で喉を潤した。その日はウバだった。

「人を、傷つけてしまったからです。僕は自分の言葉に酔っていたんでしょうね。相手のために紡ぎ、捧げたつもりの言葉は、いつの間にか自分に都合よく相手を操るためのものになっていた。無自覚なお為ごかしになっていた」

 僕はテーブルの隅を見つめた。

「そんな自分の醜さに気付くと、罪悪感からでしょうか、言葉が出なくなりました。自分の感情や想いを言語化することに対して、無意識のレベルでブレーキをかけてしまう。僕はそれを、『言語的不能』と呼んでいます」

「言語的……不能……」

 文乃さんは口の中で形を確かめるように繰り返した。

「でも、今は違う」

 彼女はあのバーベキューの夜のように、僕の心を覗き込むようにこちらを見ていた。心が震える。

「はい。それは恐らく若菜さん達との対話や、文乃さんがかけてくれた言葉のおかげなんだと、そう思っています」

「いいえ、それはあなたの力よ」

 彼女の言葉は確信に満ちていた。何故、そんな風にはっきりと言えるのだろう。

「なぜ……そう思われるんですか?」

「自分のことを救えるのは、自分だけだと、そう思うからよ」

 今度は彼女が目を伏せた。過去をなぞるように。

「あなたが自分の罪悪感を越えて、あの子、若菜達のことを案じてくれたから、あなたの言葉はあなたに応えて出てきてくれた。そしてそれは、わたしにも同じように降り注いだ。わたしは、そんなあなたの言葉をもっと引き出したくなったの。わたしは、あなたに、結人さんに動かされただけ」

 僕は、息が詰まりそうだった。唾を飲み込む音が、彼女に聴こえていやしないかと、気が気でなかった。だから一度深呼吸をして、背もたれに体を預けてから、こう伝えた。

「僕は一度は言葉を手放しました。でも……やっぱり……僕は言葉が好きなんですね。それは依然として、手が届かないものに手を伸ばすための代償行為に過ぎないのかもしれない。でも、僕は言葉で誰かと手をつなぎたい、誰かを抱き締めたい。それが、分かりました」

 文乃さんの言葉に触発されて、つい大仰な物言いになってしまったかもしれない。そう思ったが――

「もう、手放さないでね?」

 その眼差しと言葉は僕の目と耳から僕のナカにするすると流れ込んできた。侵食されている。狂おしく、逃れ得ないほどの何かを感じる。僕は咄嗟に、目頭を押さえた。

「はい……もう……手放しません……」

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