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若菜Ⅴ(後編)

「うーん……!」

 若菜が天を突くように伸びをする。

「話したらなんかスッキリしちゃった。いつもアリガトね……結人さん、なんか話やすくてさ」

 笑顔の若菜を眺めながら、こうやって周りの男は勘違いしていくんだろうな、と僕は無意識に生温かい視線を送っていただろうと思う。

「それじゃあ着替えてきちゃうね。汚しちゃうといけないからさ」

「巫女のお勤め的なものは、もう他には大丈夫なの?」

 お神乳の奉仕以外にも何かあるかもしれないと思って僕は訊いてみた。

「片付けとか手伝うって言ったんだけど『今日は疲れたろうけ、あとはお祭り楽しんで帰ぇらっしゃい』って言われちゃってさ。ま、それなら若者はお言葉に甘えようかなと」

「初めてのことで緊張しただろうし、それがいいんじゃないかな。僕には想像もできないけど、けっこう大変なことなんだろうとも思うし」

 僕がそう言うと、若菜は草履で土を穿りながら、お勤めのことを思い返しているように見えた。

「まぁ、そんな飛んだり跳ねたりするわけじゃないけどさ……楽しいときとか、怖いときとかもそうだけど、やっぱり興奮すると疲れちゃうよねぇ」

(……興奮するものなのか?)

 気が昂ったりするのだろうか。とても想像できない領域のことなので何とも言えないが、どちらかと言うと静かに心を落ち着けて事にあたる風なイメージを持っていた。あまり突っ込んだ話をするのも気が咎める。話題を変えよう。そう思ったが――

「男の人もオナニーすると疲れるんでしょ?」

「……え?」

 なぜ急に下の話になったのかついて行けず、僕は戸惑いがそのまま口から出てしまった。

「え?って……あれ、もしかして結人さん知らない系?」

 僕はこの会話を続けていいのかよく分からなかったが、終わらせ方も分からなかった。

「たぶん、知らない系」

 自然、僕の反応はオウム返しのようになり、若菜は呆れた表情になった。

「ひょっとしてお神乳が母乳みたいに勝手に出てくると思ってた?」

 僕は馬鹿みたいに何度も頷いた。

「はぁ……まぁ、そうだよね。分かんないよね。でもよく考えてみてよ、お神乳が母乳みたいに勝手に出てきてたら、それってかなり大変だよ?垂れ流しってことでしょ?」

 確かに、母乳の場合は出産というトリガーがあり、断乳することで分泌が治まっていくという程度の知識は僕にもあった。垂れ流しというのは大げさにしても若菜の言う通り、そうしたトリガーがないとすれば、日常生活にもかなり支障が出るだろう。

「だからね、その……いや改めて意識すると、さすがのボクでも言うのちょっと恥ずかしいけど、お神乳はセーテキコーフンで出るんだよ」

「……」

 珍しく頬を赤らめながら若菜が言った内容は衝撃的だった。僕はとりあえずいつもの様に腕組みをしながら拳を口に当て、目を伏せて考える姿勢をとった。なるほど?つまりお神乳というのは、その生成メカニズムとしては母乳よりは愛液に近いということだろうか。和夫さんがあの夜に語っていた意味がようやく分かった。確かに、その効能を考えれば、性的興奮によって分泌されるというのは理に適っている気がする。生命の神秘だ。しかしそうすると、お神乳の奉仕というのは単に搾乳しているだけではなく、自慰行為のようなことが裏では行われていたということになる。

「……」

 僕は思わず顔を手で擦って、そのまま彼女から目を逸らし、斜面の適当な墓石を見つめた。どうでもいいことだが、この顔を手で擦る行為は手に負えない事態に陥った時についやってしまう。一体どういう心理的機構により行われるのだろうか。そんな現実逃避的思考をする程度には、僕は混乱していた。いや、彼女だって恥ずかしいのだ。それでも親切心から僕に教えてくれた。僕が恥ずかしがってどうする。なんてことない。たかがオナニーだ。誰だってする。そう思うことにした。そして彼女の方を見ると、なんとも言えない表情で僕を見ていた。

「たしかに、そうだよね。垂れ流しなわけがない。僕の想像力不足だった。ありがとう、教えてくれて」

「ドウイタシマシテ」

「……行こうか」

 僕は社の方に向けて歩き出した。後ろからついてくる若菜の気配を感じたが、なんとなく睨まれている気がして、背中がぞわぞわした。

 その後、祭りの会場内に戻り、若菜が着替え終わるのを待った。そして既に着替えて出てきていた千種と、休憩に入った琴音にも声をかけて、四人で縁日を回った。僕は最初しばらくは千種の顔もまともに見ることが出来なかった。途中、昨日会えなかった起一さんと巧二さんにも逢った。起一さんは千種と何か話していた。家族計画がうまくいっているといいのだが。巧二さんは僕を『両手に花だ』と揶揄(からか)い、琴音に(たしな)められていた。やれやれ。だが、しばらく回っても神崎君の姿はどこにも見当たらなかった。


「そういやぁ、結人さん、来週末のご予定はどうですかね?」

 少女らが金魚を掬っている間、巧二さんが僕へにじり寄ると、含みのある笑みを浮かべながら小声で尋ねてきた。

「来週末ですか?……いえ、特に決まったものはなにも」

 僕は少し自嘲的になりながらそう返した。だがそんな僕の表情を彼は計るかのようにしばし見つめていた。

「そうですかねぇ、いやぁね、ちょっとした御祈祷みてぇなのがあってさぁ、結人さんはもう招待されてるんじゃねぇかって思ったんですよ。結構格式のあるもんみてぇなんで、まぁそのうちに声もかかるでしょうがね。参加されるんだったら、流れでまた一杯、と思ったんですけどねぇ、また今度ですわな」

 わざわざそのためだけに飲みに誘うのも気が引ける、ということなのだろう。こういう時、真に社交的な人間は食い下がって逆に飲みに誘うのかもしれないが、僕は流れに身を任せる。

「お気遣い、ありがとうございます。そうですね、特に何も聞いてないので、機会があればまた」

 そんな僕の返しに、巧二さんはむしろほっとしたように見えた。あるいはそれは、僕の自虐的バイアスがそう見せていただけかもしれないが……ただ最初のあの笑みは引っかかった。そもそも、そんな小声で訊かなければならないようなことなのだろうか?釈然としない思いはあったが、特に追及する理由も見当たらず、僕らはそのまま祭りの平和な空気を楽しんだ。

 

 やがて本格的に闇が迫って来た。村民らがまた社務所の前に列をなし、何かを受け取っていることに気がつく。

「そろそろテントウの時間だね」

 隣に立った若菜がそう口にした。

「テントウ?」

 若菜は説明を求める僕の背中を押して、強制的に列に並ばせた。見ていると、受け取った者は適当な場所に腰掛けると、四角柱型の和紙の箱のようなものを組み立てている。短冊に何か書いている者もいた。願い事だろうか。やがて、その光は灯り始める。ランタンだ。

「天に、母の『燈』の字で『天燈』と言うんです」

 そう語ったのは、千種だ。

「七年前に母が考案して始まったイベントなんです。必ずしもソトに向けたアピールっていうんじゃなくて、たとえ衰退していく村でも、少しでも自分たちの想いや願いを(あらた)めて、大切に生きるために何かしたいんだって」

 その話を聴いただけで、僕は胸の奥がじんわりと温かくなった。小さな火を、灯されたかのように。

「燈子さんらしいね」

 千種が微笑む。あるいは知ったような発言だったかもしれない。でも、以前の夕食会の場だけでも伝わるくらい、燈子さんは温かかった。

(……売女……)

 昼間の老婆の言葉が甦る。冷やりとした。

 この村で何があったかは分からない。僕に知る資格があるかも分からない。でも、若菜と神崎君の一件だけでも、この村の伝統は微妙なバランスの上に成り立っていることは分かる。それをただ上辺だけで判断するのは、正しい間違っている以前に、勿体ない気がする。この時、僕の中にひとつの想いが生まれた。例えこの先、この伝統がどんな結末を迎えるとしても、そこに息づいていた人々の想いを、何らかの形で語り継いでいきたいと。

 列の順番が来て、天燈のセットを受け取る。

「LEDなのか」 

「なんかちょっと、ガッカリですよね」

 そんな、なんだか琴音らしからぬ言い様に思わず頬が緩む。

「火だと危ないし、仕方ないよね。それに――」

 僕は周囲で数を増し、さざめくように灯り始めた想いの火たちを眺めた。

「人工の火でも、とっても綺麗だ。本質は、たぶん何も変わらない」

「まーた難しい顔しちゃってー。キレイなものはキレイ、それでいいんだよ」

 そうだ、いくら僕が訳知り顔で講釈を垂れても、そんなものは無粋だ。若菜の方がきっとずっと本質を捉えている。

 中庭に移動し、皆で各々にキットを組み上げ、短冊に想いをしたためる。僕は何を書くべきか随分と迷った。こういうところで優柔不断さが出る。先刻の若菜の言葉が甦る。何も小難しいことを考える必要はないのだ。

「結人さん、何て書いたの?」

「特別なことは何も。好きな歌の歌詞を少しもじっただけだ」

 

――ただ一日でも多く、みなの幸せが傍にありますように――

 

 じっと短冊を見つめていた若菜の表情が綻ぶ。細められた瞳は、文乃さんを髣髴(ほうふつ)とさせた。

「いいんじゃない」


 やがて神事を知らせる太鼓の音が重く轟き、皆が集まってくる。

 太鼓が止む。

 水を打ったような静寂の中、焚かれた薪のぱちぱちという音と、虫たちの求愛の声だけが夜空に舞っている。薪の焦げた匂いが、夜気に溶けていく。

 輪の中心には、巫女装束に身を包んだ文乃さん、すみれさん、そして燈子さんがいた。手にした一回り大きな天燈が、三人の相貌を淡く照らし出す。顔を見合わせ頷き合うと、そっと赤子を抱くようにして手を離す。僕は矛盾したことを言っているだろうか。

 それを合図にして、笙の音が響き渡る。

 村の皆が次々に、想いを載せた光の(はこ)を天に捧げていく。

 そうして、目の前に灯篭の海が現出した。

 光は波となり、夜空を流れる。想いが揺れ、踊る。

 それは花のようにも見えた。

 光が咲いている。

 想いが咲いている。

 世界に想いが混ざる。

 世界が滲む。

 想いはゆばりとなり、頬を伝う。

 僕はそれを、流れるままに任せた。

 滝のような音がする。

 嗚呼(ああ)

 ――僕は本当に、遠くまで来た。

 

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