若菜Ⅴ(前編)
千種と若菜を労おうと彷徨っていた僕がその騒ぎに気づいた時、その二人は既にのっぴきならない雰囲気になっていた。
若菜と、一人の若い青年。二十代前半くらいだろうか、今は進学か就職して普段は村の外にいるのだろう。
僕がしばらく様子を窺っていると、やがて僕を見つけた若菜がまっすぐこちらに向かって駆けてきた。そして僕の右の袖口を掴むと、何も言わずに引っ張っていくので、訳も分からないままついて行った。
そこは斜面に墓地の広がる場所だった。神社の敷地とは別なのだろう。僕らはいつの間にか神域を外れていた。
「……」
若菜の足が止まると、しばらく僕に背を向けたまま何処か一点を見つめながらぼんやりとしていた。何か、考えているのだろう。僕は彼女が落ち着くのを待った。やがてこちらを振り向く。
「ごめんね、急に。ありがと、着いてきてくれて」
それは珍しく70点くらいの笑顔だった。気丈に振る舞っている。けれど、まるで夕立前の空みたいだった。抱えきれない感情を孕み、今にも雨粒が頬を打ちそうな――そんな、儚い笑顔。
「ムカつくよね、あいつ……!」
その声音は震えていた。袴を握りしめる指先と同じに。泣き笑うような表情が、痛々しかった。怒りを口にしながらも、僕が彼女から感じたのは別の感情だった。哀しみ、やるせなさ。そして大切なものをひとつ失ったかのような、喪失感とも言うべき何か。
僕は、彼女にそんな表情をして欲しくなかった。だって――らしくない。
「腹の中のものを吐き出したら、代わりに屋台で若菜ちゃんの好きなものを詰め込もう。奢りだ」
そう言うと、若菜は眉根を寄せ、一方の口の端を歪めた。
「今日は、自分で出すよ」
「そう?じゃあ、千種さんと琴音さんの分だけ出すか」
「……それはズルくない?」
非難がましい若菜の顔に僕は思わず吹き出してしまった。若菜も釣られて笑う。よかった。若菜が調子を取り戻したのを見て安心したのか、僕は自然、彼女の巫女装束に目が行った。
「巫女姿、似合ってるね」
伝統的な赤い袴に白衣、襟元には掛襟と襦袢がレイヤーを成していた。しかし何故か若菜は腕を組んで険しい表情になった。
「だよね?フツー褒めるよね?まったく、なってないよ、悠斗は」
一見いつものおどけた口ぶりだったが、どこか苦し気だった。
「ユウト……あの、彼の名前?」
「そう!神崎悠人。社の禰宜の家の息子で、ボクよりふたつ年上でさ。今はソトの大学に通ってて、久々に帰ってきたかと思ったら、ボクのこと見るなり『なんでそんなもの着てるんだ?』だって!」
それから彼女は再び一言、「ムカツク」と零した。そうだ、吐き出してしまえばいい。君は本来、十八の少女なんだ。落ち込んでいるよりは怒ってる方がいくらか安心だ。
「その彼は、若菜ちゃんが巫女を継ぐのに反対ってことなのかな?」
琴音の例もあるし、その気持ちも分かる気はした。
「ソーなんでしょうねぇ。自分が家の仕事継ぐのが嫌だからって、勝手にボクのことまで同志みたいに思ってたんだよ、きっと!」
そこまで言うと、若菜の表情に影が落ちる。
「結構厳しく躾けられてきたみたいだからさ、結局いまも神道系の大学行ってるんだけど……本当は先生になりたいんだよ、彼。ボクも応援したかった。でも……」
「でも……?」
若菜が肩を落とす。
「よく、分かんなくなっちゃった。悠斗は、あんなこと言わない……はず。それとも、ボクに想像力が足りないの?ボク、悠斗に押しつけちゃってる?」
「あんなこと、っていうのは?」
唇を噛むのが見えた。
「『娼婦まがいのことはやめろ』って。……そんな言い方なくない?」
僕は思わず眉を顰めた。そして口元に指を当てる。難しい問題を考える時の僕の癖だ。その様子を見て若菜が戸惑う。
「まさか、結人さんまでそう思ってるの?」
「いや、僕はそんな風には思わない。断じて。僕は僕なりに断片的だけどこの村の伝統を理解してきたし、何より若菜ちゃんや千種さん、和夫さんらの想いを知っている。そう思えるはずがない。セックスワーカーを蔑むつもりは全くないし、敬意を払うべきだとも思ってるけど、区別されるべきだ」
そこまで言うと、若菜はほっとした表情を浮かべた。
「ただ……」
僕は一度言葉を切った。どう伝えるべきだろう。
「そういう風に思う人もいるということ自体は、神崎君が証明してしまっている。今回みたいな葛藤に今後も苛まれる可能性は、頭の片隅におかないといけないのかもしれない」
これには若菜もすぐに返せないのだろう。目を伏せ、それについて考えているようだった。
遠くから祭りの賑わいが聴こえてくる。こんな日にそんなことを考えたくはないだろう。僕は彼女が気の毒になった。だから、一歩踏み込んだ。
「でも、それは決して君のせいじゃない」
彼女の目が僕を捉える。
「君は何も間違ってない。若菜ちゃんの怒りは正当なものだ。君がやりたいと思って選んだ道を、誰かが勝手な見方で歪めることが、僕にはすごく悔しい」
若菜の瞳が揺れる。僕のそんな言葉なんて、予期していなかったのかもしれない。
「だから、これからも怒っていい。むしろ怒っていかないといけないのかも。……それはそれで疲れるだろうけどね」
僕は困ったような顔になっていたと思う。そう、困ったことだらけの世の中なんだ。人はすぐに、誰かに烙印を押す。
「そっか……そうだね。ボク、間違ってないよね?」
「間違ってない」
彼女をまっすぐに見つめながら、僕は断定した。今回ばかりは。彼女に寄り添うために、主義を曲げた。
あるいは感情移入し過ぎているのかもしれない。キモチワルくなってないだろうか。正直に言えば、神崎君の反応だって理解はできる。
(でも――)
毒々しい、藻色のアイスキャンディー。あの時、僕は若菜に救われた。
彼女にとっては些細なことかもしれないが、僕には有難かった。
それに、大切に想う人が、尊敬できる誰かが、身勝手な烙印で苦しむのを僕は見過ごせなかった。
「でも、間違っててもいいんだ。そんなことは本当は誰にも決められない。よほどのことでない限りね。もちろん、文明人として法律は守らないといけないけど」
若菜はまた腕を組んで何かを考えている風だ。
「よほどのこと……ヒトを殺しちゃうとか?」
僕はまたも困った顔をすることになった。
「まぁ、そうかもね。でも難しい問題だよ、それは」




