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村Ⅸ

 祭祀当日、僕は六時頃から起き出して、体を起こすため竹刀を振るった。朝の清新な空気を胸いっぱいに吸い込むと、細胞のひとつひとつが新しくなった心地がした。お神乳は九時頃から十一時頃にかけて振舞われるということだったので、一応それに間に合うように社に向かうつもりだ。健康診断の際に改めて幻覚については相談したが、分からないことも多く、奉習や祭祀で口にする程度であれば問題ないだろうということで、ひとまず経過を観察するということになった。

 釈然としないところはあった。本当に大丈夫なのだろうか、と。だがその思考の中で、僕がひとつの事実に気づいた時、汗が喉から胸へと伝った。僕は、あの味を忘れられないのだ、と。

 思考の逃げ場を求めるように視線を泳がせた時、壁に貼ってあったポスターが目についた。どうやら村では自治体の補助でSTI検査が月一回まで無料で受けられるようだった。珍しい試みだと思ったが、自分のようなやもめには無縁のことだ。

 

 簡単な朝食を摂って八時過ぎ頃に部屋を出る。社に向かいながら、三人のことに想いを馳せた。千種と若菜は妍の巫女として今回の祭祀の主役とも呼ぶべき存在になるだろう。皆の期待が彼女らに向かう。それを受け止め、継承していくのか、するにしても専念するのか、別の道と併せて模索していくのか、在り方を考える必要がある。だがあの二人なら、しかるべき道を選ぶことができるだろうと、僕は楽観視していた。琴音については今日もアルバイトの巫女として準備や参拝者への案内などを手伝うということだった。千種の話に従えば、彼女は伝統に対して嫌悪感を持っている。それがアルバイトとはいえ祭りに参画するというのは、千種を見守りたい気持ちはあるにせよ、なんらかの前進を意味するだろう。だが、伝統の継承という点で言えば、難しい印象があった。彼女は何らかの理由で男性に対して強い警戒心を持っている。それは延いては性的な事柄への忌避感情にも繋がっているのではないかと思われた。すべては推測に過ぎないが、それを確かめ彼女をサポートするのに、自分が適任とは思えない。ともかく、見守るしかない。そんな風に考えているうちに、気づくと僕は同様に社に向かう人の流れの中にいた。開店準備をしている縁日も目につき始める。石段はもうすぐだ。今回も気を引き締めなければならない。

 

 苦労して石段を登りきると、幣殿へと続く人の列が出来ていた。老若男女――女性も多かった。子宝のご利益もあるというのだから、女性が多いのは当然と言えば当然かもしれない。そういえば子供がお神乳を飲んでも障りはないのだろうか。和夫さんの語った歴史では、お神乳の糧食としての側面も語られていた。ただよく考えると、同意書に年齢制限に関する項目があったような気がする。分かっていないことも多いと聞くし、健康面の問題も払えない。何より性的興奮を伴うことを考えると、やはり法的・倫理的問題に触れるのだろう。実際、今目の前の列に子どもの姿はない。

 ふと、村を訪れた日に千種の背に隠れていた二人の男児のことを思い出した。千種も若菜も、面倒見は良さそうだ。千種にちょっかいを出している男児の姿を目にしたこともある。懐かれているのだろう。憧れたり、早熟(ませ)た者なら密かに恋慕していても何ら不思議はない。そんな彼女らの乳を口にするというのは、(いささ)か性癖が歪んでしまいそうな気がしないでもなかった。やはり避けるべきだろう。あるいはかつての歴史においては、意図的に歪ませて帰巣意識を高めたりしたのだろうか、と僕は想像した。そしてもうひとつ、僕はお神乳という存在に馴れて来ている自分を感じた。以前の僕ならば、子どもに飲ませるなんてもっての(ほか)だと思ったかもしれない。でもいま僕は、妙に冷静に駄目な理由を探した。

(絆されようとしている……)

 僕は幾らか、心を引き締めた。確かにあれを飲んだことで当事者になった。しかも、あの味わいに魅了されかけている。それでも、あくまで観察者としての立場も崩してはならない。

 結局幣殿の中に全員は入りきらず、整理券を手に入れた者から順に会場を取り囲むように移動し始め、多くの人間が立ち見となった。時刻になると、神職の男性による雅な(しょう)の音色が空間を揺らした。そして内侍の巫女による神楽鈴の音とともに、巫女装束の千種と、そして若菜が、奥から姿を現した。千種は奉習で見た際と同様、可憐で美しかったが、若菜もまた普段とは雰囲気が違った。巫女としての佇まいは彼女の神秘的な側面を際立たせ、得も言われず優美だった。二人揃って座すと音楽が止み、深く長い座礼の後、最初に口を開いたのは千種だった。

「妍の巫女を務めさせていただきます、羽衣石千種です」

「同じく、妍の巫女を務めさせていただきます、小鳥遊若菜です」

「本日はわたし達二人で、御神乳を奉納いたします。皆様のご健康とご多幸、子孫繁栄と長寿を祈願し、心を込めて供させていただきます」

 奉習とは全く趣を異にした、より荘厳で格式高い雰囲気が場を支配している。そして二人は背過ぎを伸ばし、詠じ始めた。神楽歌などに見られるような、一音一音が冗長な独特の歌。

 

――麗しな 今日の霞の媛巫女を 神もうれしと しのばざらめや――

――この神乳は わがみちならで 秘神の 薫り貴し かみし神乳なり――

――神降りて 巫女の神乳に 悦び給う 神民と共に 酔いたまう――

 

 細かい部分はうまく聞き取れたか分からないが、概ねそのような意味の歌だったと思う。

 二人が再び座礼をすると、氏子たちも皆一様に頭を下げたので、僕もそれに合わせた。そしてそれを合図にようにしてあの雅な音色が流れ始める。ゆっくりと立ち上がった彼女らは、静々と奥の部屋へと去っていった。残された皆からは口々に感嘆や安堵の声が聞こえてくる。皆があの二人に期待し、見守っている。僕はなんだかそれが誇らしく、少し、羨ましく思えた。


 順番までは少しありそうだったから、周囲を軽く見て回ることにした。幣殿の中にテントが設営されていて、そこはお神乳を飲んだ後に休むための場として用意されていた。外のテントが男性用で、幣殿の中に区画されたスペースが女性用という風に分かれている。確かにあの効能を考えると、休んでからでないと動き回るのは宜しくないかもしれない。

 聞き覚えのある声がして、社務所の方へ行ってみると、氏子を案内している琴音がいた。

「お勤め、ご苦労さま」

 まだそんなに忙しくもなさそうだったので、僕は声をかけてみた。

「あ、月城さん。おはようございます。来てたんですね」

「早く村に馴染みたいからね。もちろん、二人の様子を見に来たってのが一番だけど。琴音さんも巫女姿、キマッてるね。褒められて嬉しいかは、分からないけど」

 なんとなく、迂闊に「綺麗だ」といった表現を用いることが憚られ、僕はそんな風に伝えてみた。実際、彼女の凛とした姿に対する賛辞としては、そういう表現でも違和感はない。

「えー、なんでですかぁ?褒められたら嬉しいですよ、フツーに。ありがとうございます」

 以前の明らかに警戒されていた頃に比べると、いくらか打ち解けた彼女は、等身大の十八歳の女の子という感じがした。適度に気さくで、適度に緊張感がある。僕の発言にケラケラと笑って見せると、余所(よそ)行きの笑顔で返してくれた。

(……いや?)

 「普通過ぎる」――よく見ると、眼が笑っていないような気がする。祭祀の日という緊張感が、彼女にいつにも増して濃密な仮面を被らせているのかもしれない。

 相手が僕のような余所者であれば、敵意を露にしてもさして問題はない。だが、村の中で生きる以上、相手が同郷の者であれば、刀を抜くにも間合いを図る必要があるのかもしれない。きっと彼女が剣を持てば、僕などより余程強いのではないかと思った。

 

 あまり長話をしていても邪魔だと思い、水分補給には気をつけて、とそんな風に告げて僕は一旦彼女と別れた。

 僕は境内の隅の日陰にあった、湿って土の匂いのする岩に腰掛け、人々を眺めた。改めて、普段とは違う活気を感じた。特に今回は、久々にお神乳の振る舞いがあるということもあるのかもしれない。小さな、閉じた集落。けれど、そこに生きる人はとても活き活きとして見えた。

(桃源郷……)

 なぜか、そんな言葉が浮かんだ。

「そんなところで黄昏(たそがれ)てると、若菜ちゃんに揶揄(からか)われるわよ」

 声の主を仰ぎ見ると、それは巫女装束に身を包んだ燈子さんだった。彼女の艶美な雰囲気に神聖さが合わさり、神話の世界に迷い込んだような気持ちになった。

「いらしてたんですね。そして流石に、風格がありますね」

「結構良い生地使ってるのよ?……ってその話になると私は話が長くなるので自重します」

 彼女が両手で口元を抑えるような仕草をして、僕の笑いを誘った。

「今日は千種さんのサポートですか?」

「それはついでみたいなものね。気にはなるけど、綾乃ちゃん達もいるし、私は裏方の手伝いよ。といっても、みんな気を遣ってあまり働かせてくれないんだけど」

 そう言って彼女は少し拗ねたような表情をつくった。

「みんな貴女が好きなんですね」

「……そう、単純でもないわよ。まぁでも、私がいるだけで皆が納得するなら――」

 そんな風に話していると、一定のリズムで土を穿つような音の接近に気がついた。それは杖をついた老婆だった。僕らの周りには何もない。明らかに僕らを目当てに向かって来ていた。見やると、燈子さんは見たことのない表情を浮かべている。僕は立ち上がって老婆の到来を待った。やがて老婆が僕らの元に至ると、震える手を掲げ、燈子さんを指差した。

「……ぃた……」

 絞り出されたその声はしわがれ、引き攣り、喉に綿でも詰められたかのように、音は判然としなかった。眼球に纏わりつくようにしていた瞼が、徐々に幕を上げ、奥の仄暗く濁った瞳が垣間見える。

「ばぁ……ぃた……めぇ……」

 ……途切れ途切れの言葉の意味を理解するのに、僕は時間を要した。

(……売女……?)

 耳の奥にこびり付いたその言葉は、爪で掻くような悲痛な響きを伴っていた。

 衝撃に耳を疑っている間に、駆けてきた中年男性が何度も頭を下げながらその老婆を僕らから引き剥がすようにして抱え、そのままどこかに連れ去った。

 僕はしばし呆気に取られていたが、思い出したように燈子さんの方を見やった。

 そこには目を細め、老婆の去った方を静かに見つめる彼女の横顔があった。

 その感情は僕などには到底、読み取れるものではなかった。いや、読み取るべきではないとすら思えた。強いて挙げるなら、それは哀しみだろうか。決して怒りなどではない。深い、憐憫をも感じさせる、薄墨のような感情。その唇が微かに動く。何かを独り()ちたように見えた。

「ごめんなさい、おかしなものを見せてしまって」

「いえ……お気になさらないでください」

 僕はなんとか微笑んで見せたが、いつも月の精霊のような彼女の相貌は、朧がかかったように翳りを見せていた。


 その後、お神乳の順番が迫ってきたため僕は彼女と別れた。気がかりではあったが、僕に何か出来るとも思えず、お神乳は口実のように思えた。

 前回持ち帰った枡に注がれたお神乳を口にすると、体に春が吹き込んだような心地になった。直前まで幻覚の恐怖が頭の隅に埃のように残っていたが、その芳醇な香りを嗅いだ瞬間にそれらは吹き飛ばされ、喉から、腹から、幸福感に満たされる。それは華やかで、軽やかさと濃厚なふくよかさを兼ね備えた味わいだった。前回は、まろやかさと甘味をより強く感じた気がするが……あの時は夜で、今回は昼間だ。僕の体調や環境の違いがそんな風に感じさせるのかもしれない。あるいは――

『きっとお神乳には、その人の()()()()()も溶けだしている』

 以前、僕自身が千種にそんな風に伝えたことがあった。いま僕が口にしたのが若菜のお神乳だとしたら、当然味わいも変わってきそうなものだ。また、奉習直前の千種は食事にも気を遣っているようだった。コンディションの問題もあるだろう。

「……」

 僕は拳で額を繰り返し殴打した。何だか酷く不埒なことを考えているような気がしたからだ。こんな時ばかり想像力が働く。そしてそんな僕の気など知らないかのように、体の芯に熱が(とも)る。

 急いで休憩所まで駆けこむと、そのまま鎮静の香を深く吸い込み、落ち着くまで休んだ。

 それから、もう少し境内を見て回ることにした。起一さん達も来ているかもしれない、と。

 

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