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村Ⅷ

 祭祀が近づくと、一日毎に村の雰囲気の盛り上がりが感じられた。

 日中は、提灯の配置を手伝う子どもらの姿が目につき、集会所の方からはお囃子を練習する音が聴こえた。社を掃除をする神職者の目つきも、いつになく真剣に見えた。夜になると、軒先や木々の間に渡された提灯が()()と村中を照らした。

 アパートの通路に出て、錆びた鉄の柵にもたれて池の方を眺める。いつものカエルの合唱と虫の声に提灯の照明が足され、懐かしく温かな気持ちになれた。スケールは全く違うが、なんとなく故郷の猿沢池を思い出す。

 そして誘われるようにして、僕は夜道をよく散歩した。僕は普段コンタクトレンズを使用していたが、そういう時は眼鏡に切り替えた。

 祭りへの期待を孕んだ賑々しい静謐は、思考をクリアにしてくれた。絶えずパソコンから多種多様なツールの通知音が聞こえる日々は、遥か彼方だ。村に来てからまだひと月も経っていないが、時間の密度の問題か、二、三ヶ月は過ごしているような気がした。

 畦道に腰を下ろし、LEDライトを消し、眼鏡を取る。家々と、星と、蛍と、提灯の灯りが滲み、藍に溶ける。すべてが、混ざり合っている。

(すべてが…………?僕は……?)

 

 部屋に戻り、下着だけになって布団に身を横たえると、人恋しさを覚えることがあった。視線の先には風に揺れるカーテンがあるだけで、他には何もない。愛しい人の(ほつ)れた髪など、願うべくもない。夏とあれば火照った肌を触れ合わせ、汗が熱をさらう感覚に酔いたい……そういう種類の渇きが肌の裏で疼くのを感じた。血の管が、心臓がささくれ、息をするだけで苦しくなる。この村に来るまでは、忘れていた感覚だ。馴染めば温かい人々、()せ返るほどの自然、妖しくも(かぐわ)しい伝統の香り――そんな触れ合いの中で僕は目醒め、同時にヤワな部分が顔を覗かせ始めたのかもしれない。

 昔、そういう感覚は誰もが抱えているのだと思っていた。でも紗季と出会って、そうではないと知った。そういった感覚はよく分からない、それは男の兄弟に挟まれて育ったからかもしれないと、亡き妻はそう語っていたことを思い出す。

 だがいずれにせよ、今の自分にそんな人恋しさを埋める当てなどない。

(……埋める手段があるとしたら……?)

 馬鹿馬鹿しい。そんなことが適切なのかも分からない。こうしてぐずぐずと迷っているうちに、感性は摩耗し、いつしかまた痛みや孤独にも慣れていくのだろう。そうやって僕もまた『合田一人』のようになっていくのかもしれない。僕は童貞ではないが彼のような才能もない。ならばやはり『鼠』のように、報われることなく、ひっそりと静かに――死すべき運命なのだろうか。

 思考が後ろ向きになっていた。前向きに、実際的にならねばならない。思考が袋小路に入ったところで、僕はスマートフォンに手を伸ばす。ディスプレイの冷淡な光が思考を散り散りにしたところで適当なクラシックを流し、墨色の眠りの訪れを求めた。その日は"ジムノペディ"のギターソロだった。

 

 祭祀前日の土曜日には、更に村は活気づいていた。出稼ぎから戻ってきている人や、その家族と思しき若い人たちが村内にちらほら見受けられた。僕はと言えば、朝からブロッコリーとトウモロコシの収穫を手伝った。ちなみに村の生活で知ったことだが、採れたてのトウモロコシの甘さはスーパーで並んでいるものとは比にならない。報酬として貰ったものを昼食の際に茹で、齧りつきながら、千種が好む気持ちも分かるなと思った。そもそも最初に感動したのは、羽衣石家の夕食でいただいた時だ。そしてまた、千種は村のソトのトウモロコシでは満足できないのではないかと、変な心配をしたりした。

 午後からはキャベツとほうれん草の収穫を手伝い、一度部屋に戻ってシャワーを浴びた後、夜は白木邸の酒宴に参加した。門の敷居を跨ぐあたりで、早くも賑やかな声が聴こえてくる。宴会場に足を踏み入れ、起一さんと巧二さんの姿を探したが見つからなかった。相変わらず仕事が忙しいのかもしれない。今夜は若菜も顔を出していた。祭祀前日とあってか、彼女ら以外の若い世代もちらほら見られた。他に前回との違いといえば、今回は僕も最初から燈子さんのおにぎりの争奪戦に飛び込んだ。魔性のおにぎりだ。勝ち取ったものをすぐさま頬張ると、具はシャケだった。ゴロッとした食べ応えのある身がほろほろと解れる白米に包まれ、燈子さんの優しさと秘めた豪快さを感じさせた。

 

 相も変わらず美味な肴の誘惑も後押しし、勧められるままに少々飲み過ぎた僕が縁側で休んでいると、トウモロコシの精が隣に腰を下ろした。

「大丈夫ですか?」

 慈愛に満ちた表情で千種が僕を案じてくれる。年下の女性に母性を感じることをネットスラングで「バブみを感じる」というらしい。この言葉がいつまで生き残るかは分からないが、そんなことを想起する程度に僕は酔っているようだった。

「ありがとう、調子に乗って少し飲みすぎたみたいだ。千種さんも付き合いがいいね。頭が下がるよ」

「わたし、みんなのお話聞くの好きなので、苦じゃないですよ」

 以前、巧ニさんが千種を菩薩のようだと形容していたが、全くその通りだ。

「でも……わたしもちょっと休憩」

 そう言って目を瞑り、小さく深呼吸した。

「そういえば、結局奉習のお礼を言う機会を逸していて、ごめんね」

 はっと気づくような表情の後、彼女はムッとした顔を作った。

「もう、本当ですよ。わたし、ずっと気になってたんですから」

「ごめん」

 僕が素直に謝ると、最初に堪えきれなくなった千種がふふっと吹き出した。僕も続いて同じように声を漏らす。

「嘘です。確かに感想は気になってましたけど……その、どうでした?」

 僕は何度目かになる言語化を試みた。

「上手く表現できるかあまり自信はないんだけど、説得力を感じたよ。千種さんが、巫女さんだっていうことに。綺麗だったし、威厳を感じた」

 そこで一度、言葉を切る。

「お神乳の体験は、言葉にならない。なんていうか、命を飲んでるような心地がしたよ。好きなフィクションで光る酒と書いて『光酒(こうき』っていう、文字通り光り輝く、全ての命の源みたいなものが出てくるんだけど、もし実在するならこんな味かもしれない。そう思った。うまく伝わらなかったら、ごめん。でも間違いなく、幸せな心地だったし、千種さんの言ってたお爺さんの気持ちが分かるような気がしたよ」

 幻覚さえなければ、そんな気持ちのまま終えられたはずだ。

 見やると、彼女はいつものように淡く頬を染め、微笑んでいた。

「よかった……安心しました。お口に合わなかったら、って思ってたので」

「とんでもない。とても、ありがたいお味でした」

 そう、言葉の通り、唯一無二の「有難い」味。一方で、その味には危うさも覚えた。気を許せば麻薬の如く中毒になり、魂が囚われ、彼岸へと連れて行かれそうな――

 そう考えればあの幻覚は、ある種の防衛反応だったのかもしれない。

(……でも)

 もし幻覚が自分の秘めた欲望の顕れの類だったとしたら?僕は背筋に嫌な汗をかくのを感じ、そんな思考を振り払った。

 その後は二人でトウモロコシの話など他愛のない話に花を咲かせたが、媛の巫女就任については敢えて触れなかった。あまり言っても急かすような気がしたからだ。

 少しすると若菜が「なに二人で乳繰り合ってるんだい」と下品な茶々を入れに来た。まったく、意味が分かって言ってるのだろうか?

 平和な光景だ。やがて少女らは明日もあるということで早めに引き上げ、僕は最後まで残って片付けを手伝い、のんびりとまた夜道を帰路に着いた。

 

 その夜、僕は夢を見た。僕はアパートの前に立っていて、辺り一面に濃い霧が立ち込めていた。ふらふらと村の中を彷徨い、やがて村の北東にある木と鉄線で出来た柵の前までやってきた。

 立ち入り禁止の札が立てられたそこをくぐり、鬱蒼とした道の中をしばらく歩いて行くと、木造の廃屋が見えてくる。白いペンキは剥げていたが、その佇まいから元は診療所のように見えた。今の診療所が出来る前のものかもしれない。

 そのままさらに進むと、今度は左手に畜舎のようなものが見えた。かつては豚なり牛なりがいたであろう中を通っていくと、足下は何かでぬかるみ、()えた臭いがした。あちこちに麻縄が垂れ下がっている。畜産業には詳しくないが、梁からも垂れ下がっているのは奇妙な感じがした。そして地下へと下る道があった。奥で一瞬、何かの影が動いたような気がした。

 畜舎を抜け、奥へ進むと次に現れたのはやや広い、何もない敷地だった。そこが行き止まりだ。足下を見ると、黒く変色した土が見えた。何か大きな建物がここにあって、焼け落ちたかのような――

 これは何かのメッセージなのだろうか。

 ふと、誰かの視線を感じる。

 見回すが、誰もいない。

 振り返る。

「……」

 そこには小学生くらいの女の子が立っていた。俯き、手を後ろに組んでいる。

「君……こんなところでどうしたの?大丈夫?」

 次の瞬間、熱を感じた。

 辺りはいつの間にか闇の帳が降り、()()()()()。屋敷が、森が、すべてが――ごうごうと燃え盛っている。

 熱風が頬を()き、肺を焦がす。

「おにぃさんは、わたしのこと……守ってくれる?」

「え……?」

 彼女が僕に歩み寄る。ゆっくりと、一歩ずつ。

 僕は膝をつき、最後ふらふらと倒れ込むようになった少女を抱きとめる。

 熱を感じた。

 右の脇腹に深々と刺さった出刃包丁が赤黒い血で化粧され、炎に照らされてぬらぬらと鈍い光を放っていた。

 耳元で、少女がひとつ、クスリと笑う。それから、囁いた。

「おにぃさん、ヤラシイんだ……」

 そのまま、ぬかるんだ地面に倒れ伏す。最期、僕の耳にまた彼女の声が落ちてくる。

「これでまたひとつ……キレイになった……」

 

 目を覚ました時、僕は滝のような汗を流していた。蝉の声が耳に染み、急速に夢の記憶を攫って行く。

 今日はいよいよ祭祀だ。身支度をしなければ。

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