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村Ⅱ(後編)

 僕は手ごろな土手を探して、水分補給を兼ねて休むことにした。暑さもそうだが、どうにも知らない人の家に土足で踏み入っているような緊張感があり、妙に疲れた。

 目の前には池。水辺というのは心が落ちつく。

 光を反射し、ゆらゆらと揺らめく水面を眺めていると、僕の意識は次第に仄暗い水底へと沈んでいった。

 水底には細長く、大人ひとりがちょうど収まりそうな箱があった。近づくとゆっくりと蓋がずれ、脈打つ泡が視界を覆う。しばらくすると、中の様子が露になる。中には何も入っていなかった。あの日と同じだ。


 二年前、妻の紗季さきが世を去った。

 彼女は妊娠初期で、まだ仕事をしていた。その日は妻の職場の飲み会があり、同僚の送迎をするので遅くなると事前に連絡があった。妊娠以前に体質的に酒がほぼ飲めない彼女は、同僚の送迎をすることが多かった。だから帰りが遅くても、長引いているのだろうくらいにしか思っていなかった。スマートフォンが震えた時、妻からの連絡だと思ってディスプレイを見ると、そこには身に覚えのない番号が表示されていた。よくある営業電話かと思っていつもなら無視するところだったが、時刻は既に二十三時を回っている。胸騒ぎを覚えた。警戒しつつも電話に出ると、緊張した男性の声がした。周囲が騒がしい。彼は警察だと名乗った。そして紗季が運転中に対向車線から中央分離帯を越えて突っ込んできたトラックと正面衝突し、即死したという。

 即死――頭の中でバラバラになったその言葉が意味を成すまで、しばらく時間を要した。震える指でキーボードを叩き電話番号を調べたが、それは間違いなく警察のものだった。

 車種やナンバー、衣服や所持品……淡々と説明を受けるうち、僕はそれが現実に妻に起きたことなのだと認めざるを得なくなった。冷たく、乾いた現実がその身を僕に擦りつけてきた。僕はそれを躱そうとして、ふわりとした遊離感を覚え、体を支えることが出来なくなった。

 遺体、特に頭部の損傷が激しく、直接の遺体確認は避けるよう勧められた。その辺りから後の手続きは、僕を案じた紗季の父が代わってくれた。

 葬儀にあたり準備された棺の中に、妻の遺体はなかった。僕は妻の死に顔に別れを告げることすら出来なかった。

 

「……」

 

 物音がした方を見ると、小学生低学年くらいの男の子が風を切り、斜面を駆け下りていく。

 僕は今どき珍しいかもしれないが、中学の頃には既に結婚願望が強かった。色々な事情から自分の家族、特に母との関係がギクシャクしていて、自分だけの家族が欲しいという思いが強かった。

 やり場のない思いに対して、僕は自身が求める愛情や包容力を内面化しようとした。それを愛する相手に与えられるような自分になろうとすることで己を鎮めた。今思えば、それは防衛機制としての合理化だったのだと思う。

 そしてそうした僕の姿勢は女性との関係を共依存的なものにした。

 未成熟な者同士の共依存は、歪だ。苦しめ、苦しめられ、それはやがて限界を迎える。そんな時、同じようにパートナーとの関係性に疲れ果てていた紗季と出会った。よくキャンパスの周りを、ふたりで当てもなく散歩したのを憶えている。

 よくある話だ。しかしどれだけ陳腐だとしても、それは僕にとっての唯一無二の人生であり、紗季は僕の人生の救いであり生きがいだった。彼女との日々は僕にたくさんの癒しと歓びをくれた。

 音楽は唐突に止んだ。それまでも決して軽快な音が流れていたわけではなかった。それでもダンスは続いていた。

 だがある日、見えざる手が、僕らの人生のレコードから前触れなく針を揚げた。そしてレコードはどこかに持ち去られ、永久に失われてしまった。僕はまだ、彼女に何も返せていなかったのに。

 

(ボチャン……)

 

 さっきの男の子が池に石を投げこんでいた。と同時に、僕は一人の熟年男性の接近に気づいた。僕は一目で分かった。彼が()()なのだと。カーキのハーフパンツにサンダル、リネンのシャツというラフな装いながら、彼から伝わる威厳と知性、そしてそれらを上品に包み込む柔らかさの共存は、彼のステータスを言外に証明していた。撫でつけられ、整えられた短めの白髪と、同じく白い髭が口と顎回りを飾っており、金属フレームの眼鏡は様になっていた。なぜか、父を思い出した。

「よっこいせと」

 彼はさも大儀そうに僕の横に腰を下ろした。そしてこちらに向かって微笑んだ。

「はじめまして、村長の白木和夫(しらきかずお)と申します」

 僕はとっさに彼の方を向くと、膝に手を添えて挨拶を返した。

「申し遅れました、……月城結人と申します」

 僕には名乗るべき肩書などないことに気づき、名前だけを告げた。

「まぁそう硬くならんでください。こんな限界集落に、よく来なすったな。まぁ、今やこの国全体が限界集落寸前のようなものじゃがの」

 彼は手にした鮮やかな青い扇子で扇ぎながら、はっはと軽快に笑った。彼が言うと皮肉も(しつら)えたように上品だった。

「この池は鏡渕池といいましてな、いい名前でしょう?この村でずっと人の出会いと別れを映して来たんでしょうな」

 僕は彼が鏡渕池と呼んだ池を改めて眺めた。確かに、その水面は鏡のように澄み渡り、美しく見えた。

「雑貨屋のトキさんから連絡を受けましてな、()()()()()()、と。して、この村へはどのようにして……?」

 こういうのを眼光と呼ぶのだろうか。僕は穏やかな口調とは裏腹な、老人の力強い瞳の前に慄いていた。あるいはそれは、僕の恐怖心を彼の瞳が映したに過ぎないのかもしれない。この老人には嘘や誤魔化しは通用しない、そんな気がした。

「二年前に事故で妻を亡くしまして、お恥ずかしい話ですが、傷心旅行とでも言えばいいでしょうか」

 初対面で語るようなことではないかもしれないが、僕はその時、吐き出してしまいたかったのかもしれない。白木さんは身じろぎ一つせずに、僕の言葉に耳を傾けていた。

「最初の一年ほどの記憶は、ほとんどありません。ただぼんやりと過ごしていました。そして気づくと、旅に出ていました。僕はこのあたりの気候や雰囲気が好きなので、索然と歩き回っていたんです。そんな時、地域の図書館の古い小さな地図でたまたまこの村の名前を見つけました。霞巫峰村というどこか神秘的な響きに惹かれ、今朝バスでやってきたという次第です。……もし、ご迷惑なら今日明日にでも村を発ちます」

 白木さんは目を瞑り、うんうんと何度か頷きながら、何かを考えているようだった。

「左様でしたか。それはお気の毒なことです。不躾な質問をお許しください」

 そして薄く目を開けると、こちらに向けて軽く頭を下げるような仕草をした。

「そんな、とんでもないです」

 僕は思わずその下げられた頭を支えるように手を差し出した。

「愛してらっしゃったのでしょう。その歳で愛する人を突如として失うというのは、想像を越えて過酷なことなのでしょうな」

 白木さんは池の方を見つめていた。しかしそこには感傷というよりは、冷徹さのようなものを、僕は感じ取った。

「奥様は、元ご学友か何かで?」

「ええ。妻とは大学院で出会いました」

「おお、これは博士様でしたか」

 白木さんはおおげさに驚いたような表情をつくった。器用なのだ。

「いえ、僕は修士号までです。文系で博士課程まで行くのは相応の覚悟が要ります。もっとも、そういう意味では修士だって大概ですけどね。むしろ中途半端なのかも」

 そんな僕にも、彼は穏やかな表情で語りかけた。

「それでも、何か思うところがお有りだったのでしょう?」

 これでは面接だ。だが僕は観念して話を続けることにした。ある程度素性が分かった方が良いだろうという気持ちもある。個人情報の開示にはリスクがあるが、もはや僕に失うものもない。それに彼の態度は少なくとも僕の嫌いな人種のそれではなかった。初対面で相手を正面から指差し、何者だという態度を取られることだってある。こっちが斧か鉈でも持っているならともかくだ。そういう人間との対話は例え相手がどれだけ既存のコミュニティの中で尊敬を集めていても、結果的に話すんじゃなかったと後悔した。マスターベーションに付き合うんじゃなかった、と。

「僕は学部時代、比較文化学類というちょっと変わった名前の学部というか学類にいました。『学類』というのは変換で一発で出なくて面倒なんです」

 彼が退屈そうなら話を変えようと思ったが、促すようにニコニコと微笑んでいる。

「元々は教育系の学部にしようかとも思っていたのですが、恩師が『あまり最初から道を狭めるのは良くない』というので、鵜呑みにして雑多に学べそうなところにしたんです。ただこの比較文化学類というのは教授陣をして『学問のデパート』と揶揄されていました」

「なかなか、面白い表現ですな」

 そんな風に言われる当時の僕らとしてはあまり面白くはなかったが、客観的に見ればそうだ。実際的ではない、ヤワで、夢見がちな場所だ。

「はい。色々と面白そうなものをたくさん眺めて摘まめるが、デパートの最上階まで到達した時には結局何も買っていない、つまり何も究めていない。そういうニュアンスなんです」

「ほぅ」

「特に男子学生は大成しないと言われていました。女子学生は就職でも良いところにいくが、男子はダメだと」

 白木さんはまたはっはと笑った。

「それはまた奇妙ですな。いまどき流行りの『弱男』が生まれ易いということですかな」

 僕は口の端を歪めて苦い表情をつくった。

「僕はあの表現はあまり好きになれません。他者に向けて使うにせよ、自称にせよ。自然発生的な概念の宿命として、まだ定義が曖昧で、それ故に建設的な議論にならなかったり、単純化され易いせいもあるかもしれません。男性の社会的地位を前提とした、ある種の歪なバックラッシュとしての一面もあるのかもしれませんが、特に男性がその概念を武器として使う場合、フェミニストに弱者男性の権利まで考えろというのはお角違いも甚だしい。男性学というものも一方ではあるんです。不満があるならその文脈で言論に参加すればいい」

 僕はいつの間に熱くなっていたことに気づいてかぶりを振った。

「すみません、話が逸れましたね」

「いいえ、興味深く聞かせていただいておりますよ。あなたの人となりを知るうえで」

 やはり面接だ。でも構わない。むしろ手間が省ける。

「それから僕は、元々の動機に従って大学院に進学し、そこで教育社会学を専攻しました。教育には社会学的な視座が必要だと、学類時代に思ったからです。今どき、ということでいうと、社会学畑の人間なんて胡散臭くて就職では不利なんでしょうけどね。正直、メディアに出るような社会学者は僕もあまり好きじゃない」

 そこで一度、僕は言葉を切った。

「でもその後に色々あって、結婚し、結局は生活のために全然関係のないIT関係の仕事に就き、妻を亡くし、今に至ります。端折りましたが、話す価値もない。こんな風に放浪する前から、僕はフラフラと生きてきたんです。いつだって想像力が足りず、判断が遅くて、そのくせ脆い、弱い人間なんです」

 相手が反応に困るようなことを話すのは大人のすることではない、そう主人公が語っていたのは村上春樹の著作だったろうか。どうやら僕は自分で思っている以上にくたびれ、冷静さを欠いているようだ。だがこんなに自分のことを誰かに話したのはいつぶりだろうか。話す度、情けない気持ちになる。改めて振り返ると僕のキャリアは欠陥だらけだ。

「己の弱さを恥じることはありません。みな、さも自分こそが正しいという顔をして生きちょります。ただの想像力不足を強さと勘違いして、弱き者からの様々な形での搾取を正当化する。醜いことです」

 彼は何か共起される記憶でもあるかのように語った。想像力不足というのは確かに、僕自身への自戒としても常々感じていることだった。白木さんは何かを決意するかのように、(したた)かにに自らの膝を打った。

「あなたのように傷みを知り、主義主張もあるソトの人間が、いまこの村には必要なのかもしれませんな。月城結人さん、と申されましたかな?もし滞在される気があるようでしたら、空いている古いアパートか何かで良ければ用意させましょう」

「そんな……よろしいんですか?それに、主義主張というほどのものなんて、僕にはないですよ」

 僕は逡巡した。話がうますぎる。しかし僕には断れるほどの余裕がないというのも正直なところだった。寝袋での野宿は避けたい。そもそも僕は弱っているのだ。致命的に。

「何も大きな声を上げるだけが主義主張ではありますまい。一歩引いて眺められることも重要です。それに、お気になさるな。アパートについては管理もろくに行えていない有様でしてな、人に住んでもらえるならむしろ助かります。それに、わしは結人さん、あなたを体良く利用しようとしているわけです。取って食おうというわけではありませんが、あなたもせいぜいこの村を利用してくだされ。あなたのこれからの糧となれば、幸いなことです」

 白木さんの率直な物言いに僕はむしろ安堵した。それも彼の政治手腕なのだろう。僕にどんな利用価値があるのかは分からない。しかし、少なくともこの村において、白木さんと僕とではヤマタノオロチと小ネズミほど差がある。そろそろ本当に腹を決めるべき時なのかもしれない。僕のこの当てのない旅路にどう幕を下ろすのか。であるなら、僕はこれを好機と捉えるべきだと思った。僕の脳裏にニヤついて不吉な笑みを浮かべるサルが顕れ、暗闇の奥で(わら)っていた。(さぎ)がグワァーと、ひと鳴きした。白木さんは眼鏡をいくらか下げ、隙間から僕の表情を検めると含みのある笑みを浮かべてそのまま立ち上がった。

「今宵はひとまず、私の家にお泊りください。ちょうど今日の夕方頃から、ちょっとした宴がありましてな。なに、月に数回、酒を飲む口実を作っては催している、気楽な寄り合いです。そこで皆に顔を覚えてもらえば、この村でも随分やりやすくなるでしょう。場所は、村の中心地にある役場の少し北。無駄に広い敷地の屋敷ですんで、すぐに分かると思います。妻や皆にも話は通しておきます故、頃合いを見て、お越しください」

 白木さんはそう言うとウインクをして、動物園のトラのように悠然とその場を立ち去った。

 ゲコッと、アマガエルが鳴いた。

「ふぅ……」

 僕は小さく息を吐くと、時間までもう少し村を見て回ることにした。

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