街(前編)
若菜に予告されていた金曜の前日の木曜、彼女からSNSでメッセージが届いた。
『明朝十時、バス停に集合!遅刻厳禁!(結人さんは禊の時間だよ)』
何やら不吉なことが書いてある。もちろん例のカエルのスタンプもセットだ。僕は不幸の手紙をもらったような気分になって、顔を顰めた。でも次の瞬間、僕は笑っていた。これも若菜なりの配慮だ。ありがたく受け取ることにした。だがその後、追加で一通のメッセージが若菜から届いた。
(『朝九時半くらいにウチまで迎えに来てもらうことって出来る?お母さんが挨拶したいんだってー』)
僕は端的に『分かった』とだけ返した。確か、若菜の母親は文乃さんといったはずだ。役場前で会った時の若菜の話では、大学で講師をしているということだった。そしてまた、燈子さんからは、僕に似た部分があるとも言われた。そんな風に言われたら否が応にも気になってしまう。だがよく考えると、僕は若菜の家を知らない。SNSで訊いてみると、村の東側の向日葵畑の近く、広い庭のある家だという。思い当たる場所があった。初日に村を回っている際に目に留まった、趣味の良い庭のことだろう。『多分わかる』と若菜に伝え、僕はその日は早めに寝ることにした。
翌日、緊張のせいか早く目覚めた僕は、黎明の頃に外に出て竹刀を振った。ざらついた薄闇が徐々にアパートの裏手へと去っていく。朝日なんて記憶の限りでは初日の出の折、それも一度くらいしかじっくりと見たことはなかったが、悪くなかった。朝日と言うのはその日の心持ち次第で全く印象が異なる。遠くから長い影を伸ばしてやってくるのが、幸運を告げる知己である時もあれば、昏い暗示を携えた審問官であることもある。今日はなんとなく前者のような気がした。
部屋に戻るとシャワーを浴びて汗を流し、冷たい水で顔を洗う。そして鏡の前で自分の裸を眺めた。僕は元々は痩せ型だったが、仕事をするようになって十キロ近く体重が増えていた。だがそれもこの二年余りで五キロくらいは自然に減量されていた。まだ素振りの習慣の効果が出るところまでは達していないが、これを機に脂肪を筋肉に代えて健康体を目指したい。
支度をして部屋を出た僕は、若菜の家へと向かった。夏の朝の空気を吸い込みながら、池の南を通り、途中千種の家の前を通過して、やがて心当たりの家が見えてくる。改めて眺めると、羽衣石家と同様、見ごたえがあった。それは極めてモダンな和風建築だった。濃い木目調の外壁にガラスの大きな窓がいくつもあり、屋上もあるようだった。開け放たれた門の前まで来て中の様子を伺うと、女性が一人、庭の植物に水やりをしていた。刺繡の美しい白のシフリーブラウスに、シルエットのすっきりとしたネイビーのクロップドパンツ。髪は上品にアップで纏められ、耳の前に無造作に垂れた髪が、リラックスした雰囲気を共存させていた。彼女が振り向く。僕に気づく。少し驚いたように目を見開いた後、すぐに和やかに微笑んだ。雨の匂いがした。少女が一人、雨に濡れている。その姿が、彼女に重なる。雨雲らしきものはない。変わらぬ夏の陽光が降り注ぎ、雫を纏った庭の草木がきらきらと輝いている。
「おはよう」
「おはよう、ございます」
長い睫毛が印象的だった。やや細められたその眼差しからは、繊細さと知性が滲んでいた。柔らかく滑らかなベールの奥に、精巧なガラス細工のような、容易には触れられない、そんな何かの気配があった。
「月城結人さんね?」
そう言うと彼女は如雨露を足元に置き、腰の前でそっと手を合わせた。
「はじめまして、小鳥遊文乃といいます。娘が、お世話になっています」
文乃さんが軽く頭を下げる。
「月城結人です。ご挨拶が遅れてしまって、申し訳ありません。こちらこそ、若菜さんにはいつも助けていただいています」
彼女が微笑む。温かい笑顔だった。親しみやすく、近くて、そして遠い。
ガチャリと音がして、玄関から若菜が飛び出してくる。今日の彼女はいつにも増して鮮烈だった。普段は制服姿だったが、今日は所謂お出かけスタイルのようだ。ピンクのオフショルダーのシャーリングブラウスにネイビーのミニスカートを履き、レザーの小さなリュックを背負っていた。ガーリーな雰囲気が強いが、白のスニーカーを合わせているところは若菜らしい。
「お?もうファーストコンタクトは済んだ感じ?てかおはよ、結人さん」
「うん、いま、正にね。おはよう、若菜ちゃん」
彼女は夏の妖精のようだった。美しく停滞していた世界に、流れを生み出す。本来、僕などからは縁遠い存在だということを再認する。
「ど?可愛くない?」
彼女は僕の前で体を傾けたりしながら、くるくると全身のスタイルを披露してくれた。
「マブイね」
僕がそう言うと、文乃さんが小さく吹き出していた。
「それ、どういう意味?結人さんの時代の流行語?」
「可愛いってことだよ。僕の世代にとってもまぁ、死語だけどね」
若菜は訝し気に口の端を歪めたが、すぐにいつものようにニヤリと笑った。
「なるほど、照れ隠しってわけだ?ういやつよのう」
「こら、若菜」
文乃さんがそんな若菜を窘めていた。それが日常なのだろう。
「じゃ、のんびり行こっか。行ってきまーす!」
若菜が文乃さんに手を振る。
「よろしくお願いします」
文乃さんが少し困ったように笑いながら会釈したので、僕もそれに返し、二人の家を後にした。
その後、僕らは二人で並んでのんびりとバス停に向かって歩いていたが、途中で僕は忘れ物をしていることに気がついた。昨日の夜、財布を整理していた際に出したカードの何枚かが、財布の中になかった。呆れる若菜に先に目的地に向かってもらい、僕は走ってアパートまで戻ると、カードを回収してまた急いで部屋を出た。
そうしてバス停へと続く緩やかな山道を小走りに登っていた時、ちょうどあの分岐のあたりで千種と琴音が話しているのが見えた。昨日、若菜にSNSで確認して、当日二人も一緒であることは把握していたが、僕は思わず身を低くして隠れてしまった。
表情や雰囲気はよく分からなかったが、剣呑という感じではなさそうだ。そんな風に様子を伺っていると、やがて遠くから二人を呼ぶ若菜の声がした。
すっと自然に、千種が琴音の手を引く。一陣の風が見える。そして走っていった。
僕はぼんやりと口を開けてその光景を眺めていた。
意外だった。どちらかと言えば、琴音の方が手を引きそうなイメージがあったからだ。でも改めて考えると、そう意外なことではないのかもしれない。時折、千種から感じる芯の強さ。それが苦境に立たされた際に力を発揮するのかもしれない。
僕は少し、遠野さんの気持ちが分かったような気がした。その一見保護的な姿勢の裏にある感情。二人はもう、大丈夫なように見えた。
「おっそ~い!」
バス停に着くと若菜が腰に手をあてて仁王立ちしていた。一応まだ約束の時間の五分ほど前ではあるが、十分前行動が基本だったかもしれない。そもそも不注意で時間をロスしたのがよろしくない。
「ごめん」
「今日が禊だっていう自覚、足りないんじゃないですかぁ?」
彼女は目を眇めるようにして僕を詰った。相変わらず芝居がかっている。
「原因と再発防止策を報告書にまとめて送るよ」
「なにそれ。つまんなそ。そんなのいいから、今日の働きで誠意を示してよね」
「承知いたしました」
そんな風に話しているうちにバスが来た。若菜が我先にと乗り込んでいく。千種は僕を憐れむような笑みを浮かべて続き、遠野さんも気まずそうながら会釈してくれたので、僕は中立的な笑みで返した。謝るのは禊が終わってからにしよう。そう言われれば何をするのか全く聞かされていない。訊いても教えてくれなかった。それも含めて罰だと思うことにした。
「おっ、にいちゃん三人も相手じゃ両手で足りねぇなぁ!三本目が必要になっちまうってか!……大丈夫け?半魚人でも見たような顔してっけど」
「いえ、発想が斬新で感動しただけです。……街までの道中、よろしくお願いします」
運転手の彼には申し訳ないが、ここで合わせて笑いでもして、遠野さんにさらに軽蔑されてしまうわけにはいかなかった。仮に遠野さんに意味は分からなくとも、ニュアンスだけは伝わったりするものだ。
ひとつ気づいたこととして、初めて村を訪れた際に出会った彼とは随分と印象が異なった。あの時は、もっと淡々として愛想がなかったはずだ。かつて余所者だったのが、いまや認められたと受け取るべきか、取り込まれようとしていると捉えるべきか。
三人がバスの最後列に並んで座ったので、僕は逆に最前列に座った。座席が高くなっていて眺めが良いし、少女達の邪魔をするのも野暮だ。そう言えば、彼女らの今日の姿はいつにも増して眩しかった。千種は普段からお洒落だったが、今日のラベンダーのシックなワンピースは彼女に大人びた風合いを加え、燈子さんに近い印象があった。つばの広い麦わら帽子にサンダルを合わせた姿は深窓の令嬢と言っても大げさではないかもしれない。一方の琴音はクールなスタイルだ。シンプルな白いTシャツにデニムのショートパンツ、黒のキャップを被っていた。黒のナイロンのリュックにスニーカーも白と黒のツートンで、トータルコーディネート感がある。三人それぞれにカラーが違うのが面白い。ある一定以上の年齢になると、友達同士で出かけるとどうしても趣味趣向が近くなり、似通ったファッションになる印象があったが、この村の三人はコミュニティの小ささもあってか各々の個性を発揮しながらも良い友情関係を築いているように見えた。それは僕に可能性のようなものを感じさせた。だがそんな彼女たちを見ていると、自分の着くたびれた服装がなお一層貧相に映り、居心地が悪くなった。今日も変わり映えのしないネイビーのポロシャツに淡いグレーのデニム姿だ。元々ファッションは好きな方だし、それなりに拘りがあるが、いかんせん年季が入り過ぎている。ポロシャツの襟にはピンホールが空いていたが、ピンはどこかに行ってしまった。
そんな風に考えていると、いつの間にかバスは発車して、ディーゼル車特有の重厚な音を立てながら緑のカーテンの中を進んでいた。木漏れ日とバスの揺れが心地よく、気づくと僕はうとうとしていた。朝早く起き過ぎたかもしれない。禊に向けて体力を温存するためにも、僕は睡魔に抗わず、目を閉じた。




