志保(前編)
次の朝目が覚めると、僕は全身にじっとりを汗をかいていた。夏場なのである程度は仕方ないが、それにしてもその日は異常だった。覚えていないが、なにか嫌な夢を見たのかもしれない。
ベーコンエッグとトーストの簡単な朝食をとり、洗濯を終えた紺のデニムと水色のシャツにアイロンをかけた。アイロンをかけて心を落ち着けるのは、『ねじまき鳥クロニクル』の主人公だったろうか。確かにアイロンをかけるというのは心が落ち着く。働いている時は億劫でしかなく、そもそも紗季に甘えていたが、皴を伸ばしていると頭の中のざわつきも凪いでいくような気がした。
何かに似ていると思ったが、きっと表装作業だ。書道部時代、僕らは制作したものを自分たちで額装ないし軸装した。画仙紙のままだと脆いので、厚手の紙を糊で重ねる「裏打ち」という工程がある。事前に作品本体を霧吹きで湿らせ、刷毛で皴を伸ばす必要があった。水分量や力加減が繊細で、適度な緊張感がある。なにせ、そこで間違って破きでもしたら、どんな傑作も台無しだ。
(懐かしいな……)
午前中は部屋を簡単に掃除をしたり、手持ちの本を読み返したりして過ごした。その日は村の古書店で見つけたドストエフスキーの『悪霊』を読んだ。やがて時計の針が十二に差し掛かろうとしたところで、僕はアイロンをかけた服を着て袖をロールアップすると、診療所へと向かった。かねてから名前を聞いていた女医の志保さんと話がしたかった。予約も何もしていなかったが、とりあえずは足を運ぶことにした。そもそも診療所の位置を把握していないので、一度訪れてみたかったということもある。話によれば、この村に降り立ったバス停のすぐ近くということだったが、当時は全く気がつかなかった。
山道を上り、バス停に近くまで着くと僕は周囲を見渡したが、やはり何もない。
(ひょっとして……)
あの時、バスがUターンしていった待機所の方向に向かって歩いてみた。そしてやはり、それはそこにあった。バス停の北西側の斜面の下に、待機所と向かい合う広い空間にゆったりとその診療所は建っていた。昔はもっと村の北東の山深くにあったらしいが、二年ほど前、つまり志保さんが赴任してきた頃にここに新設されたらしい。まだまだ新しいその診療所は、村近くで採れたものと思しき石材や木材をふんだんに用いたモダンなもので、ちょっとしたカフェのようにも見えた。実際、カフェスペースが併設されていて、村の老若男女がたむろしている姿がガラス越しに見えた。
(それも狙いの一つなのかもしれないな。交流の場としては合理的だ)
斜面を下り、診療所に入ると、案の定というか視線を感じた。今は僕も和夫さんのお墨付きがある。動じることはない。午後の診療まではまだ時間があったので、カフェでアイスコーヒーを注文して、適当な席に腰を下ろした。千種達よりも年下と思しき学生らが、僕の方を時々見ながら、何かを話していた。あのくらいの年齢は遠慮がない。コーヒーは美味しかった。浅煎りの甘く爽やかな酸味が心地いい。そして安い。言うことなしだ。
「あの……」
気づくと若い白衣の女性が僕の前に立っていた。
「もしかして、月城結人さんですか?」
実は僕はこの展開を期待していた。キーマンを捕まえるのには手段を選んではいられない。彼女は髪をアップにまとめ、ボタンダウンの紺のブラウスに黒のパンツというスタイルをベルトでアクセントをつけて纏めていた。
「あ、はい、そうです」
僕は驚いたような雰囲気を出しつつ返事をした。
「はじめまして、医師の英志保といいます。今少し、お時間大丈夫ですか?」
「はい、もちろん。英さんこそ、いいんですか?ご休憩の時間かと思いましたが」
白々しい……僕は自嘲しつつ、若干の罪悪感を覚えた。
「大丈夫です、どうせいつもここでぼんやり過ごしているだけなので」
おかしな話だが、彼女は僕が村で出会ってきた人物の中では、ある種一番「リアル」だった。何がそう感じさせるのだろう。他人との距離感のようなものだろうか。ソトから来て比較的浅いという点と、世代的な近さがそう感じさせるのかもしれない。彼女からは、初対面の年上の人物に会った際の演出された脆弱性のようなものが感じられた。
「白木村長さんからあなたのことは伺っていて、歳が近いだろうから機会があれば一度話してみると良いって、言われてたんです。ご迷惑じゃなかったですか?」
「とんでもないです、僕としても一度ご挨拶できればと思っていたので。実はお見掛けできるんじゃないかって、ここで様子を伺っていたところもあります。ああ、そういえば長らく健康診断を受けてないから、それを口実にすれば良かったな」
「ダメですよ。何をするにしても体が資本なんですから。年齢的にもそろそろ気をつけていただかないと」
「はい。今度予約させていただきます」
僕は窘められたことに素直に応じつつ、本題に移った。
「それで、あの……守秘義務の関係で話せることには限りがあることを承知でお伺いするんですが――」
僕は言葉を切ると、彼女の目を見据えながら続けた。
「奉習やお神乳について、お訊きしたいことがあるんです」
そう言うと、目の前にはより濃密に医師としての仮面を被った彼女の表情があった。
「場所を、変えましょうか」
彼女に促されて席を立ち、彼女の背について行くようにして診療所の中を歩く。ブラインドの隙間から日が差す白い廊下を、一定のリズムでスタスタと鳴る志保さんのスリッパの音が僕を導く。そうしてカウンセリングルームに通された。
「どうぞ、お座りになってください」
事務的な笑顔で彼女が僕に席を勧めてくれた。
「それで、どのような点が気になっているんですか?」
僕は呼吸を意識して気持ちを落ち着け、早口にならないように話し始めた。
「お伺いしたいことは二点あって、実は昨日、千種さんの紹介で奉習に参加させていただいたんです。あ、英さんなら、ご存じですよね」
睫毛の影が細く伸び、その相貌に静かに影を落とした。
「はい、千種さんからそのようにご希望をいただいて、医師として承認しました」
「その際に、初めてお神乳を口にしたんですが、幻覚のようなものを見たんです」
志保さんの表情に緊張が走ったのが分かった。
「そういった症例というのは、これまであるものなのでしょうか」
彼女は記憶を漁りつつ、考えているようだった。
「いえ、そのような症例は聞いたことがありませんが、興味深いです。お神乳については分からないことも多いので。それについては後ほど改めて問診票を書いていただいて、きちんと診断を行いたいんですが、今はもう大丈夫ですか?」
彼女は医師として僕を案じてくれているようだ。
「はい、今は何ともありません。その時も、ほんの数秒、妙にリアルなビジョンを見ただけだったんですが」
「ちなみに、どういった内容でしたか?」
僕は言い淀んでしまった。だが相手は医師だ。
「性的な内容でした。それは、もうひとつの相談にも関連するんですが」
「ちなみに、月城さんは統合失調症などの精神疾患の既往歴は?」
思わぬ質問に僕はドキリとしてしまった。
「……二十代前半の頃に、適応障害の診断を受けたことはあります」
志保さんの変わらぬプロフェッショナルな眼差しは僕を安心させてくれた。
「詳しく診断してみないとなんともですが、レビー小体型認知症による幻覚症状に似ているかもしれません。これはドーパミンの異常放出が原因となって引き起こされるんですが、お神乳を摂取した際に強い幸福感を得られるといった報告は受けているので、関連があるかもしれません。もしかすると受診による報告がないだけで、これまでも他の方で幻覚を見ていたケースはあるのかもしれませんね」
僕は千種が言っていたお爺さんの話を思い出していた。
「結人さんの場合は、そこにさらに精神状態が影響している可能性もあります。でも、そんなに重くとらえないでくださいね。しっかりサポートさせていただきますので」
「ありがとうございます」
さすがだ。僕は感心しきりだった。だが、対等な友人関係を築けるかもしれないとどこかで期待していただけに、いきなりの過去の病歴の開示は、僕の頭の片隅に小さな染みを作っていた。その染みは、絶えず僕の眼差しを求め、意識させる。お前は不完全な人間なのだ、と。直接、誰かに言われた訳ではない。でも、感じる時がある。ウチから、ソトから……その声は聴こえてくる。例えば、何かの組織に属する時、病歴の開示を求められる。サポートする為に必要だから嘘のないように、と。それはもう、深く肉へと刻まれた、消えない烙印だ。一度は、それを焼いた。だからもう次は、皮を剥ぐほかない。新しい自分に、仕立て直すために――でもそれは、誰が望んだ僕なのだろう――痛みを伴うなら、せめて、大切な誰かのために――
(僕はいま、何を望んだ……?)




