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燈子(後編)

「そうだ、千種さん」

 僕は箸を置いて千種の方を向いて改まった。

「は、はい」

 僕の眼差しの真剣さに気づいたのか、慌てた様子で彼女も箸を置いた。

「お誘いいただいた奉習のことだけど、千種さんの気が変わっていなければ、是非参加させてもらいたいと思ってる」

 千種の顔にわずかに赤みが差した。そして穏やかに笑った。

「よかったです。お誘いした後になって、ひょっとしたらご迷惑だったんじゃないかと思ってて……」

 僕は小さくかぶりを振った。

「とんでもない。不安にさせてしまってごめんね。僕も、もっとこの村のことを知りたいから」

 彼女はやや上目遣いに僕へと視線を送る。

「……お神乳、興味あります?」

 彼女はややいたずらっぽい表情を浮かべていた。なんてことだ、これは和夫さんの前時代的ユーモアによる巻き込み事故だ。しかも燈子さんの前でどんな反応をすればいいんだ。

「ちーちゃん、結人さんが困ってるわよ」

 表面上、助け舟を出してはくれたものの、燈子さんもくすくすと笑っていて楽しげだ。考えてみれば彼女は先代の巫女なのだ。このくらいでは動じないのだろう。そんな折、僕はあることに気づいた。千種さんの献立が僕らのものとは違っている。

「千種さんの献立、僕らのとは違うんだね。食欲がない?」

 彼女の前には僕らと共通の品もありつつ、天ぷらや焼き魚はなく、汁物は具沢山の味噌汁で、その分、豆腐や蒸し野菜の量はやや多めに見えた。

「奉習の前なので、お神乳の風味が良くなりそうなメニューにしているんです。油物や臭いのつきそうなものは避けて、発酵食品を入れてみたり」

 そう語る彼女は、どこか楽しそうに見えた。単に節制を強いられているといった風ではなく、ある種のプロフェッショナリズムすら感じた。

「千種さんは、すごいね」

「母のアドバイスなんです。私が相談したら、用意してくれて。お魚と天ぷらは、我慢してまた今度」

 僕は、お神乳を飲むという行為に感じていた後ろめたさについて、それがなんだか急に失礼なことのように感じ始めていた。そして、純粋な好奇心までもが生まれつつあった。

 デザートは梨だった。しゃくしゃくと歯触りの良い、水分を豊富に含んだ果実が、体の中の嫌なものを洗い流す心地がした。千種は意識して水を飲んでいるようだった。それも準備の一環なのだろう。そうするうち、呼び鈴が鳴り、燈子さんが出ていった。

「それじゃあ、わたしはそろそろ先に行って準備をしているので、社でお待ちしています。場所は分かりますか?」

 すっと立ち上がった千種の表情は落ち着いていた。

「うん、初日に一度訪問してるからね。がんばって石段を上るよ」

 千種は握りこぶしを作ってガッツポーズをした。

「それからこれ、お手数なんですけど、内容を読んでいただいて、問題なければ署名して持ってきてください。それじゃあ、行ってきます」

 彼女はどこからか持ってきた書類を僕の前に置いて、去っていった。背を見送ると、僕は改めて書類に目を落とした。それは、奉習参加のガイドラインを兼ねた同意書だった。巫女の体に触れない事、敬意をもって接することなどが、簡易的なイラストと共に箇条書きになっていて、チェックボックスがついていた。

(現代化されている……)

 僕は軽く衝撃を受けた。僕が持っていた伝統的儀礼のイメージと食い違ったからだ。僕は一通り内容を読んだあと、チェックボックスに印をつけ、住所と氏名、電話番号を記載した。そういうしているうちに、燈子さんが戻ってきた。

「あら、もう書類にサインまで済んだのね」

「すごく、きっちりしてるんですね。なんだか、安心しました」

 燈子さんは冷やした緑茶を薄い玻璃のグラスに入れて、僕の前に出してくれた。夏を象徴するような美しい碧だった。そして、彼女は僕の向かいに座った。

「千種のこと、本当に心配してくださってるのね。でも、どうして?」

 僕はいま、見定められようとしているのかもしれない。僕は口に手をあてて考えた。それから燈子さんの瞳を正面から捉えた。美しい瞳だった。僕には共感覚といったものはなかったが、その瞳は藤色に艶めいて見えた。

「和夫さんにはお話しましたが、ひとつには勝手ながら千種さんに妻の面影を感じるためかもしれません。その上で、その純粋さに危うさを感じることがあります。もちろんそれは彼女の魅力でもあると思いますし、ただのおせっかいと言えばそうかもしれません。あとは当然、和夫さんから頼まれている役割も理由のひとつです。ソトの人間である僕から伝統を見て、そこに何らか問題を感じれば、提言させていただくこともあるかもしれません。今の僕にとっては千種さんが正にその伝統に直面してらっしゃいます。だから特に注視している、ということはあります」

 僕はそこまで一気に話すと、緑茶をいただいた。瞼を閉じると、体を流れていく冷たさが気持ちを落ち着けてくれた。

「ただ、あまり義務的にはなりたくない、とも思っています。できれば友人として、千種さんを応援できればいいなと」

 燈子さんはテーブルの上に手を重ねたまま、じっと僕のことを見つめていた。

「結人さん、あなたのこと、どこか他人に思えなかったのだけど、分かったわ」

 僅かに瞼を閉じると、すぐにまた彼女は続けた。

「若い頃の和夫さんに少し似てるのかも。なんだろう、温かさかしら。あと、その語り口は、文乃ふみのちゃんにも似てるのかも」

 和夫さんに似ているというのは些か買い被り過ぎな気がした。文乃さんのことはまだお会いしたことがないから分からないが。

「僕のこと、よく見張っていてくださいね。既に若菜ちゃんにはそう言われましたけど」

 燈子さんが吹き出した。

「なんて?見張ってるって?ふふっ、若菜ちゃんらしいわ」

 それから彼女はさらに言葉を続けた。

「大丈夫よ、本当に悪い虫じゃないのか、ちゃあんと見張ってるし、でも……信用してるわ。そういう人間がいてもいいでしょう?私、人を見る目はあるつもりよ」

 燈子さんがやさしく微笑む。

『人を見る目はあるつもりだったんだけど……』

 頭が軋んだ。ノイズの酷い、古い記憶が呼び覚まされる。

「大丈夫?」

 燈子さんの心配そうな顔が正面にあった。

「大丈夫です、すみません。ご期待に添えるよう、善処します」

「……本当に、文乃ちゃんみたい」

「え?」

 彼女が小声で何か呟いたが、僕はそれを聞き取ることができなかった。

 ただその声音には、懐かしさと……何かもっと複雑な感情が混じっているように聴こえた。

「ううん、なんでもないわ。そろそろ出た方がいいんじゃない?」

 確かに、気づくと奉習の時間が迫っていた。夜だし、石段を上る時間には余裕を見ておいた方がいいだろう。

「はい。ではそろそろ向かいます。ご夕食、ご馳走様でした。本当に美味しかったです」

「ありがとう、またいつでも食べにいらして」

 『お粗末さま』そう言わない燈子さんが僕には有難かった。そう言われると、寂しくなる。

 そうして慌ただしく、僕は燈子さんと千種のお宅を後にした。

 

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