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燈子(前編)

 千種と約束していた夕食会の日、偶然朝にも千種と出会った。トウモロコシは朝採りが良いとのことで朝四時に畑に集合すると、作業服姿の千種がいて、手を振ってくれた。収穫方法を教わり、黙々と作業していると、彼女が時々「困っていることはないか」と様子を見に来てくれた。休憩の際には僕の塩飴と彼女の梅肉飴を交換したりもした。千種は梅が好きなのだと言う。そういうところも、紗季に似ていた。彼女はよく梅味のお菓子を買い込んでいた。

「いい娘だねえ?」

 出し抜けに家主の老婆が僕に語り掛けてきた。

「……え?ええ、そうですね。本当に」

「巫女の家の娘らぁみんな可愛くて気立てがいいだけんども、ちーちゃんが一番よく手伝ってくれるだよ。わしゃあの娘が一番好きだねえ」

 千種の方を見やると、トウモロコシを抱える彼女は様になっていた。皆、彼女を信頼しているのだ。また老婆は『巫女の家の娘ら』、と言った。村の模範となるべしというような見えないプレッシャーもあるのかもしれない。

「どうだい、あんた。あの娘と所帯持って村に骨埋めるってのは?」

「いえ、そんな、僕は歳も離れていますし分不相応ですよ」

「そげな細けえことを気にしてっと、あっとゆう間にわしらみてえになっちまうよ?」

「まだまだご健勝のようにお見受けしますが……ご助言は肝に銘じます」

 

 夕方になり、僕は千種に招待された夕食会のために彼女の家へと向かっていた。以前送って行った時は夜だったから多少道の印象が違ったが、麦畑を目印に記憶を手繰り寄せながら歩いて行く。風に吹かれる麦畑はその日も美しかった。初めて会った時、千種はこの前に佇んでいた。その気持ちが分かる気がした。僕は同じように佇んで深呼吸をしてみる。頭の中が、すっと軽くなった。

 やがて、あの豪奢なファサードが見えてくる。夜も雰囲気があったが、まだ明るいうちに見ても圧巻だった。口笛が吹けたらヒュウと吹きたいところだったが、残念ながら僕は吹けない。風船の空気が漏れるような気の抜けた音しか出せないのだ。それでよく紗季には馬鹿にされた。僕にできるのは指を鳴らすくらいだ。僕は試しに鳴らしてみた。

「……」

 なんとなく、人の気配がした気がした。僕に執事はいないから、指を鳴らしたところで誰かが出てくるはずもないのだが。馬鹿をやってリラックスしたところで呼び鈴を鳴らした。ややあって、玄関から一人の女性が出てくる。

「いらっしゃい。はじめまして、千種の母の燈子とうこです。娘がお世話になってます」

 菖蒲――彼女を見た瞬間に感じたイメージを一言にするなら、それは紫色の妖艶な菖蒲の花だった。千種によく似ていたが、自信に裏打ちされているであろう落ち着きが滲んでおり、しずしずと頭を下げる妙齢の女性を前にして、僕はまた混乱していた。聞き違いだろうか。彼女は『母』と言った。正直、年の離れた姉かと思った。普通に考えれば、早くに千種を出産していたとしてもせいぜい三十代後半だ。だが彼女は僕と同じか下手をすれば年下に見えた。特殊な事情でかなり若くに出産したのか、単に若々しいのか、あるいはまた巫女の血が彼女の若さを保っているのか。僕は失礼にならないよう、なんとか平静を装った。この村は絶えず僕の演技力を試してくる。平静を装う狸たちの戦い――いわば『平成狸合戦』だ。住処を追われる姿は共感を覚える。いや、下手な冗談だ。イマジナリー若菜の冷ややかな視線が刺さった。

「月城結人です。今日はお招きいただき、ありがとうございます。こちらこそ、千種さんのおかげで随分と村にも馴染めてきました。自慢のお母様にお目にかかれて光栄です」

 そんな燈子さんはというと余裕の笑みだ。

「あら、お上手なのね。和夫さんからは控えめで実直な方だと伺ってたけど。どうぞ、中に入って」

 確かに、僕はこんなリップサービスをする方だったろうか。いや、リップサービスではないのだ。僕は営業的なリップサービスは必要に駆られてすることはあっても、決して得意ではない。だがいま僕が発した言葉は全て率直な本心だ。そしてまた、口を開くと確かに彼女からは年齢相応の落ち着きが感じられた。女性の方が男性よりも精神的に成熟していること自体はよくあるが、僕への接し方からしてもやはり年上なんだろうか。いけない、答えのない問いはやめよう。僕は頭を切り替えた。

「結人さん、というのはどんな字を書くの?」

 玄関に向かう短い、道すがら不意に燈子さんが尋ねた。

「結ぶ人、と書きます」

「素敵ね」

 彼女が微笑む。僕の背筋が伸びる。

「私は、火に登るって書く方の燈に、子」

 そう言いながら、絹のような細く美しい指でほろほろと空に文字を描く。

「……名前負けしないようにしないとね」

 それが彼女自身に向けた言葉なのか、僕も巻き込んだ表現なのかは、判然としなかった。それでも、その僅かな言葉の隙間を縫うように垣間見えた、どこか遠くを見つめるような瞳に、僕は心を奪われそうになった。

(不思議な人だ……)


 中に入ると、ラベンダーのような香りと落ち着いた木の香りに混じって食欲を誘う夕餉の香ばしい匂いがした。明るく、ナチュラルで和モダンなテイストは、二人の雰囲気によく合っていた。ダイニングに案内されると、千種が待っていた。

「結人さん、こんばんは」

「千種さんも、こんばんは」

 慣れ親しんだ空間に僕という異邦者がいるせいだろうか、彼女はいくらか緊張して見えた。僕は燈子さんが引いてくれた椅子に腰を下ろした。目の前には豆腐や蒸し野菜の他、澄まし汁、焼いた白身魚に、野菜の天ぷらなど、伝統的な日本を感じさせる品々が既に配膳されていた。

「結人さんは、ご飯は大盛りでいいかしら?」

「はい、ではお言葉に甘えて」

 この歳になるとご飯の大盛りもやや抵抗感が出てくる。食べられないわけではないが、健康面を気にするようになるのだ。ただ最近は体を動かすせいか、食欲だけで言えば体はそれを欲していた。

「トウモロコシご飯ですか?」

 そこには白く輝く白米に混じって、いかにも甘く香ばしそうな黄色い粒が主張していた。

「そうなの、千種の好物なんです」

「今朝、頑張った甲斐があったわけだ」

 千種の方を見ると照れ笑いのような表情を浮かべていた。徐々にリラックスしてきたようだ。ふと、棚の上に飾られた写真に目がいく。燈子さんと千種が仲睦まじい様子で映っていた。

(母子家庭なのだろうか)

 なんとなく、父親の存在を感じなかった。今どき珍しくもないが、少し気になった。

「結人さん、お酒はいかが?」

 奉習前なのであまり飲むのもどうかと思ったが、燈子さんの細められた眼差しに、これはお付き合いした方がいいやつだなと思った。

「それじゃあ、少しだけいただきます」

 そう言うと、彼女はお猪口に冷やした高千代を注いでくれた。なんとなくだが、燈子さんはお酒に強そうだ。彼女のお猪口には僕がお酒を注いだ。やがて燈子さんも席に着いた。

「それでは、お近づきのしるしと、いつも千種を気遣ってくださっているお礼に――」

 それぞれの盃を手にする。

「かんぱい」

 そっと蠟燭に火を灯す、そんな温かで繊細な声だった。それは燈子さんの名前を表しているかのようだった。そして静かに盃を重ねた。盃に湛えられた澄んだ白露は、果実を思わせる穏やかで甘い香りがした。口に含むと、すっきりとした程よい酸味が食欲を刺激し、するすると喉の奥へと流れていった。

「お酒、おいしいですね」

 燈子さんが微笑む。

「和夫さんも飲み相手には飢えてるから、声をかけてあげたらきっと喜ぶわ。そしたら、私もお邪魔しちゃおうかしら。本当はあんまり飲ませちゃいけないんだけどね」

「わかりました。その時には、お声がけします。和夫さんとは仲がいいんですね」

 彼を気遣う燈子さんからは、特別な絆のようなものを感じた。小さな村だし、人望厚そうな彼のことだから、あるいは自然なことなのかもしれないが。

「和夫さんは、私達の親代わりなのよ。私達って言うのは、私と、すみれと、文乃ちゃん。琴音ちゃんと若菜ちゃんのお母さんね」

 孤児だったということだろうか。きっと何か事情があるのだろうが、詮索すべきではない。

「結人さんが来てからの和夫さん、いつもより元気そうだから、そういう意味でも感謝してるの」

「僕の方こそ、とても良くしていただいて、感謝しかありません」

 燈子さんはニコニコと機嫌が良さそうだったので、僕はほっとした。

「ごめんなさい、話させてばっかりね。どうぞ、冷めないうちに召し上がって」

 僕は促されるまま、まず澄まし汁に口をつけた。滋味豊かな、繊細で上品な出汁の味が広がる。三つ葉が良いアクセントになっていた。僕は思わず小さくため息が出た。

「……ほっとします」

 地元の野菜だろうか、天ぷらもよく揚がっていて、アスパラのしゃきしゃきとした食感や、しっとりと甘いナスは絶品だった。茶塩が添えられているのも気が利いている。トウモロコシご飯に手を付け始めたところで、僕はふと思い出した。

「そういえば、おにぎり、ご馳走様でした。すごく美味しかったです」

 僕は自分の語彙の貧弱さを悔やみながらも、そう告げた。

「よかった。なぜか結構人気なのよね」

「握り加減なんでしょうか。食感が軽くて、具とご飯のバランスも絶妙でした。お人柄が出てるんでしょうね。僕が握ってもああはなりません」

「そんなに褒められたら、またご馳走したくなるわね」

 燈子さんが微笑む。彼女と話していると不思議な心地良さがあった。さざ波に揺られる木の葉になったかのような、そんな穏やかな感覚。千種が憧れる気持ちも分かる気がした。そうだ、大事な話をまだしていなかった。

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