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若菜(後編)

 彼女の要望に応えて、桃のストレートジュースと自分にはアイスカフェラテを買ってきた。

「やったー!ありがとう、結人さん」

「どういたしまして」

 素直な感情の表出。仮に演技だとしても、全てが嘘というわけではないだろう。そこには本物の果汁がいくらか含まれているはずだ。それだけでも僕には眩しかった。彼女は僕にないものを持っているタイプの女性なのだと、改めて感じた。

 彼女はストローを吸っていた口をパッと離すと、ため息混じりに端的な感想を口にした。

「ウマー」

 その簡素さはむしろ虚飾がなくて好感が持てた。僕もカフェラテを一口飲んでみた。まだ完全に混ざりきっていないそれは、とろりとした白いミルクの甘さと、粒子を感じるエスプレッソの香ばしい酸味、苦味がそれぞれ互いに主張し合いながら、僕の口の中で出会い、溶け合う。東京にも当然ながらコーヒーの美味しい店は沢山あるが、もっと値が張る。そもそも高いばかりで美味しくないケースも多い。地方都市やこうした辺境の方が、数は少ないがこだわりが感じられる店は多い印象がある。何をもって洗練とするかは難しいところだ。

「うまー」

 彼女の訝しげな視線が刺さる。僕のミラーリングは功を奏さなかったようだ。

「ボクはさ、千種が決めたことなら良いと思うんだよ」

 やがてまた若菜が話し始める。

「そりゃ、プレッシャーもあると思うし、千種は押しに弱いところもあるから琴音が心配するのも分かるよ?でも、大事なことはちゃんと決められると思うんだよね」

 彼女はさらりと言って、ストローをくるくると(もてあそ)ぶ。

 その判断が彼女の千種への信頼に基づくのか、ある種の無関心によるものか、僕には判断しかねた。

「琴音はさ、千種のことになると、ちょっと冷静でいられなくなることがあるんだよ」

「それは、なぜ?」

 確かに宴会の場では少し保護的な雰囲気があったが、冷静さを欠くというほどではなかった。

「うーん、それは正直ボクにもよく分かんない」

 一瞬、若菜の口の端に滲んだ笑みには、自嘲的な雰囲気があった。

「でも、琴音の中には、千種にはこうあって欲しいって、何かそういうのがあるんだと思う」

 それから若菜は、ずずずと音を立ててジュースを飲み切った。

「しらんけどー」

 そう言って彼女は、そこに絵でも描かれているかのように、じっと空を仰ぎ見ていた。そうして彼女を見つめるうち、彼女もまた巫女の血筋であることを思い出した。僕は彼女についても、もっと知るべきだ。もちろん、義務感だけではない。彼女は僕のくたびれた好奇心をくすぐるには十分すぎるほど刺激的だった。今回は好奇心を言い訳に義務感を抑えたが、今後は逆に義務的な側面を言い訳にして好奇心を抑えなければならないこともあるだろう。大人というのは御しがたいものだ。

「そういえばさっき、何か謝られてるみたいだったけど」

 彼女は僕の方を二秒ほど見つめた後、今度こそ自嘲的に笑った。

「あー……、ね」

 その横顔はどこか寂しげだった。

「ボクってさ、恋バナとかよく分かんないんだよね」

 十八というとそういう話題には興味津々な年頃に思えるが、個人差はあるだろうし、村の現状を考えると恋愛を意識する機会自体が乏しく、『分からない』となるのも不思議はないような気がした。

「芸能人で誰がカッコイイとか、カワイイみたいなのもピンとこなくて、あ、カワイイ女の子は好きだよ?」

 理想が高い、ストライクゾーンが狭い、他に夢中なものがある、あるいは……。

「おっぱい大きい女の子とか好きだし。でもそれで女の子と付き合いたいとか、そういうことしたいとか、そういうわけでもないんだなこれが」

 アセクシュアル・アロマンティック傾向。

「別にみんなが恋バナとかエッチな話とかする分には、全然聞いてて楽しいんだけどさ」

 若菜の瞳が道行く人々の流れを映す。

「やっぱりキョーカン?できないからさ……みんな勝手に気を遣っちゃうんだよね」

 その瞳が徐々に色を失っていくような気がした。彼女の今の状態を既存の言葉で類型化して説明することは簡単だ。それで彼女の孤独感が紛れるなら、あるいはそれでも良いのかもしれない。しかし聡い彼女に対して、それはあまり意味がないような気もした。性に関するそのような捉え方は固定的なものではないし、彼女が悩んでいるとすればそれは友達との関係性に纏わることだ。下手をすれば孤立感を深めさせる結果になるかもしれない。

(手強いな)

 この村の多感な十代の少女たちの悩みは常に僕に内省を促した。三十代にもなると、もはや周囲の人間でそんな素直な悩みを吐露するような人間はいなくなる。都市部であれば、もしかすると十代であっても既存の概念に染められて、もっと斜に構えてしまうかもしれない。いや、SNS全盛の今となっては、もはやその差もなくなりつつあるのか。その意味では、彼女たちが新鮮な感性を保ち続けていられるのは、周りの大人たちの影響かもしれなかった。

「なにか言わないの?まだ分からないだけダヨー、とか、今はそういうの全然フツー、そのままでイイヨー、とか」

 僕は残っていたカフェラテをずっ、と飲み切った。

「僕はね、若菜ちゃん。元々そういう性に纏わる議論はすごく大事だと思ってたんだ」

 脳裏にイメージが降りてくる。ガラスのレールの上に、そっとビー玉が乗せられ、ゆっくりと転がり始める。そんなイメージだ。

「でも最近じゃ議論が盛んになる一方で政治的な文脈に絡めとられて、本来こうやってカフェラテでも飲みながら落ち着いて話すべき身近なことなのに、なんだか厳めしく胡散くさいもののようになってることに、僕はたぶんちょっと苛立ってる」

 高低差の激しいレールが連続し、ガラスが甲高い音を立て続ける。レールを外れ、アスファルトに落ちたビー玉がひび割れる。

「若菜ちゃんみたいな在り方が否定されるべきじゃないのはもちろんだけど、一方で当事者が悩んでるのに自然なこととしてただ無批判に放置されるのも違う気がしてる」

 僕はなるべく語気を和らげながら、不器用な笑みを作ってみる。

「一番大事なのは若菜ちゃんの気持ちだからさ。君を取り巻いてる環境や、目指したい方向を確かめながら、ゆっくり向き合っていくしかないんだよ。そうやって一番自分に似合う色を見つければいい。それは君だけの"GIFT"だ。他人を変えることはできないけど、見てくれる人はちゃんと見てくれてると思うから」

 気障だったろうか。彼女は僕のことを見つめていた。意思の強そうなカーブを描くまつ毛に彩られた美しい瞳からは、相変わらず感情を読み取ることが難しかった。

「結人さんってさ」

「うん」

「ちょっとお母さんに似てるかも。リクツっぽいところとか」

 大人びた雰囲気につい騙されてしまうが彼女は十八なのだ。確かにもう幾らか噛み砕いた話し方ができたかもしれない。

「でも……ありがと」

 ややはにかんだような笑みを浮かべ、若菜は言った。理屈の部分は正直伝わらなくてもいい。僕はあなたの味方だよ。それが少しでも伝われば僕としては良かった。陳腐化した概念を今は後景化して、彼女だけの感情を大事にして欲しい。

 

「千種と琴音のことはさ、なるようになるよ。二人とも、もう子どもじゃないんだから」

 別れ際、若菜はそう言った。確かにそうかもしれない。一度はこれ以上できることはないと結論づけかけたのだ。彼女の言うように過干渉になる前に手を引くべきかもしれない。

「……そうだね」

 ありがとう、そう言いかけようとして、その前に若菜が口を開いた。

「結人さんってさ」

「うん?」

「笑うの下手だよね」

「……知ってる」

 それは僕の昔からの悩みでもある。中学や高校の時はたまに馬鹿にされた。社会人になると指摘する人もいなくなるので忘れていたが、僕の笑顔は出来の悪いお土産の人形みたいなものなのだ。だからこそ、歯を見せて屈託なく笑う若菜は眩しかった。しかし若菜はニヤニヤとしていた。

「いいと思うよ。またね、結人さん!」

 何が『いい』のか全く分からなかったが、若菜はそのまま走り去って行った。


 帰る道すがら、若菜は茜色の空を仰いだ。

 ヒグラシの声が空に染みるように響く。

 瞳が、ゆっくりとした雲の流れを映す。

 唇が(ほど)ける。

「ボク、冷たいなぁ……」

 足元の小石をローファーで蹴飛ばすと、とぷんという音とともに畦道の脇に落ちていった。

「……」

 小さな溜め息がひとつ、空に吸い込まれていく。

「しょーがないなぁー」

 

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