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千種Ⅱ(後編)

「こんにちは、千種さん」

 さっきまで彼女のことを考えていたことがなんだか気恥ずかしかったが、悟られないように平静を装った。

「こんにちは、結人さん。……お邪魔じゃ、なかったですか?」

「全然、千種さんならいつでも大歓迎だよ」

 少し、軽薄だったろうか。しかし彼女は特に気を悪くした様子もなく、『失礼します』と言って日傘を傍に立てかけると、僕の左に腰を下ろした。

「ここ、いいですよね。わたしもよく来るんです。気持ちが落ち着くから」

 そう言って池を眺める彼女の横顔は、その日は儚げに映った。どうにも元気がない。そんな憂いを含んだ表情に加え、髪を一つに束ねているせいもあってか、以前よりもいくらか大人びて見えた。

「今日は僕が訊いていいかな。何か、元気がない?」

 彼女はこちらを見ると、寂しげに微笑んだ。そしてしばし考えたあと、口を開いた。

「……聞いて、くれますか?」

「僕でよければ」

 彼女の視線と指先が草の肌を撫でる。

「琴音ちゃんと、喧嘩してしまったんです」

 意外だった。つい先日の宴会で仲のよさそうな二人の姿を見ていただけに、些か衝撃があった。そもそも千種が誰かと喧嘩をするイメージがあまり湧かなかった。

「わたし、酷いこと、言ってしまって……」

 それこそ上手く想像できなかった。だが深い信頼関係があるが故に衝突するということは、思春期であれば確かにあるのかもしれない。大人になると、そうなる前についつい距離をとってしまいがちだ。

「わたしが奉習を始めたこと、ご存知ですか?」

 そのことについては和夫さんから共有を受けていた。交換したSNSの連絡先に宛てて、ダイレクトメッセージが来ていた。彼女は女医の志保さんと相談した結果、やってみることに決めたのだと。

「うん、和夫さんから聞いてるよ」

 千種は己の左手の甲を右手でそっと撫でた。その手を見つめながら、彼女は続ける。

「琴音ちゃん、わたしが無理してるんじゃないかって……心配してくれたんです」

 僕は黙って彼女の言葉に耳を傾けた。

「それで、でも、わたしはもっと他の方法で誰かを幸せにできるのに、なんで?って。……琴音ちゃんには分かってもらえなくて」

 以前、千種は残り二人の血筋の娘のうち一人は、伝統を嫌っているのかもしれないと言っていた。それは恐らく遠野さんのことなのだろう。

「琴音ちゃんはわたしのこと、買い被ってるんです。わたしに出来ることなんて……」

 和夫さんの言っていた、千種の自信の無さとはこのことかと、僕は改めてその問題に直面していた。僕は彼女のことをほとんど何も知らない。彼女の自己評価の妥当性など分からない。でも十代なんてもっと根拠のない自信で溢れていても良い気がした。

(いけない……)

 だが一方で僕は思い出していた。年長者から若い世代への『もっと自信家であれ、前のめりであれ』というプレッシャーの煩わしさを。考えなしの励ましは負の再生産になる。まずは話を全て訊こう。

「酷いことを言ってしまったって、そう言っていたけど、それは?」

 彼女の手が強張る。

「『琴音ちゃんには、わからないんだよ』って。わたし、言うつもりじゃなかったのに、気づいたら……零れてしまっていて」

 俯いた彼女の目から落ちた雫が、スカートを濡らしていた。涙を拭ってあげたかったが、残念ながら僕と彼女の間の距離はまだ遠かった。彼女は自ら手の甲で涙を払うようにした。

「ご、ごめんなさい、わたし、自分が悪いのに」

 気丈に笑みを作ろうとする彼女を見ていられなかった。しかし今単純に彼女に寄り添ったとしても、彼女は寄り添われるべき己を信じられていない。僕は一歩引いて二人の関係性を眺める必要があった。

「遠野さんも、千種さんも、お互いをすごく大事に想ってるんだね」

 彼女は赤くした目でぼんやりとした表情で僕を見つめた。

「お互いを尊敬してる。そういう風に感じる」

 僕は右手の親指で左手の人差し指の付け根を撫でた。

「でも善意はエゴの隣人だから、相手のことを想っているうちに、いつしか自分の考えを押し付けてしまうことがある。思春期には、特にね」

 僕は笑みを作ろうしてみた。上手くいったかはわからない。

「千種さんは、どうして遠野さんには分からない、って思ったの?」

 千種は俯き、強張る手にもう片方の手を重ねた。

「琴音ちゃんは、なんでもできるから……お勉強も、泳ぐのだってすごく速いし、やさしくて、かっこいいんです」

 彼女のすがるような言葉の中に、だんだんと柔らかさが戻り始める。そこにある感情は、憧れだろうか。

「千種さんは、遠野さんみたいになりたい?」

 彼女は顔を上げて池の方を見つめた。

「なりたくても、なれないです」

「でもじゃあ、なりたいんだね?勉強ができて、泳ぎも速くて、かっこいい自分に」

 彼女の眉がぴくりと動いた気がした。

「そう……なのかな。そうじゃ、ないかもしれません」

「どんな風に?」

 誘導的だろうか?僕はあくまで彼女自身で気づいて欲しかった。そこに気づくべき何かがあるのであれば。

「わたし、たぶん琴音ちゃんみたいに、自信を持ちたいんです。好きなことに集中して、何かがしたい」

「千種さんにとっての、自分に自信が持てるような好きなことって、なんだろう」

 唇が、きゅっと結ばれるのが分かった。

「まだ、分かりません」

「それを見つけたくて、まずは奉習を始めてみた。尊敬するお母さんに近づくために。この間の帰り道での話から、僕にはそう見えたけど、違ったかな」

 彼女は僕の言葉を反芻しているようだった。

「……はい」

「実際に始めてみて、どう?まぁその、僕に話せることと、そうでないことはあると思うんだけど……」

 千種は顔を赤くして目を泳がせたが、やがて目を細め、小さく微笑みながら答えてくれた。

「まだ恥ずかしさはあるんですけど……でも二回目の奉習のとき、わたしがお勤めを終えて出ていくと、参加されていた、よく知っているお爺さんが泣いてたんです」

 奉習では一般の村民からも参加者が募られるのだろうか。千種の話を聞きながら、未だに謎に包まれたその実態に僕は考えを巡らせていた。

「そのお爺さん、冬に奥さんを亡くされたばかりで、ずっと気落ちされてたんです。でもお神乳を飲んでいただいて、そしたら、奥様のこと思い出されたみたいで……『ありがてぇ、ありがてぇ』って何度も言ってくださって」

 お神乳が持つ神秘的な何らかの効能、あるいは想起される母性のようなもの、郷愁、何かが彼の中の記憶を呼び覚ましたのだろうか。

「そんなことも、あるんだなって。なんだか不思議だったんですけど、帰り際のお爺さんの明るい表情を見ていたら、わたしまで嬉しくなってしまって」

 彼女の慈しむような表情が、彼女の日傘の落とした夏の影の下で、静かに蕾を開こうとしていた。

「いい、表情をしているね」

 僕が素直な感想を口にすると、彼女は意外そうに僕の方を見た。

「そんな顔、してましたか?」

「うん。母性的……と言うと今の時代だと微妙なニュアンスになるのかもしれないけど、やさしい、温かい表情だったよ」

 千種はそっと、自分の頬に触れていた。

「お母さんも、こんな気持ちだったのかな」

 彼女は伝統にやりがいを見出しつつあるのかもしれない。和夫さんの話から、巫女の地位は約束されているようだから、経済的な意味で搾取されるということは無さそうな気がした。ただそこも含め、その他の面でも何らかの搾取が行われていないか、そこは僕の方でも検めさせてもらおうと思った。

(かつての僕の方がよほど経済的に搾取されていた可能性もあるな)

 実際この後、僕は和夫さんに巫女のだいたいの年俸を訊いて、膝から崩れ落ちることになる。そんなことなど露知らず、この時の僕はつい自嘲的に笑ってしまいそうになるのを堪えながら、千種の方を見た。今は彼女の話だ。

「仕事やその他様々な人の行いに対する社会的な評価は、個人ではどうしようもないところがある。しばしばそこにつけ込んで、やりがいの搾取なんてことが起きたりする」

 僕の話に、千種は真剣な表情で耳を傾けてくれた。

「でも少なくともこの村では、千種さんのやっていることはとても意義のあることだ。尊敬するお母さんの為されていたことでもある」

 僕は言葉を切りながら、彼女に伝えるべきことを伝えようと苦心した。

「そこにやりがいを感じられるとすれば、それも一つの才能だと思う。きっとお神乳には、その人の()()()()()も溶けだしている。千種さんの話を聞いていると、そんな風に感じるよ。もちろん、遠野さんが言うみたいに他にも色んな可能性はあるのかもしれないけど、今目の前にあるものを過小評価する必要もない。一つの選択肢として、考えていけばいいと思うよ。ましてその行いに正当な評価が下される環境があるのなら、尚のこと」

(そういうことは、なかなかないんだ)

 彼女は僅かに口を開き、何かを言おうとしたが、思い直して止めたように見えた。

「ごめんね、いつも話が長くて。誰かと話せるのが久々で、きっと調子に乗ってるんだ」

 彼女はコマドリのように焦った表情をした。ここは笑うところだったのだが。

「そんなことないです!いつも……結人さんは、わたしにたくさん、言葉をかけてくれて、すごく、嬉しいんです」

 これはオジサンキラーになりそうだな。膝を抱えながらそう言葉にする彼女に対して、僕はそんな下らないことを考えていた。

「まだ、この前のお礼もできてないのに……」

 そういえばそんな話もあった。忘れてくれていいのに、と僕は思った。いつまでも覚えていられると、なんだか背中が痒くなる。

「いいんだ、だって――」

 これは僕の役目でもある……そう言いかけて、彼女がやってくる前に考えていたことを思い出した。義務的なニュアンスを出すのは、彼女の警戒心を生んでしまうかもしれない、と。

「僕はもう千種さんのこと、友達だと思ってるから」

 彼女が目を丸くするものだから、僕もつい気恥しくなってしまった。

「歳はまぁ、ちょっと離れてるけどね」

 そう言って僕が取り繕うように笑うと、彼女もまた笑ってくれた。

 

「わたし、がんばって琴音ちゃんと話してみます」

 芯のある声だった。

「あまり気負わずにね」

「はい」

 いつもの笑顔が僕をほっとさせた。

「あ……」

 僕と目が合うと千種は俯き、顔を赤くした。この調子で彼女は毎日顔を赤らめているのではないだろうか。杞憂なのは分かっているが僕は彼女の血圧が心配になった。学生時代にもサークルにそんな娘がいたなと、これまたどうでもいい記憶が掘り起こされた。僕の脳は活性化してきている。

 彼女は一度、小さく唇を噛みしめた。何かを決意したように、そっと僕の方を向く。

「今度の火曜日の夜、空いてたりしますか……?」


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