白木(後編)
僕は無性に喉が渇き、早くも予め用意されていた分の茶を飲み干してしまった。和夫さんがそれを見て、急須から新たに茶を注いでくれる。僕は彼に礼を述べ、話の続きを促すように視線を送った。
「千種が言うておったように、お神乳には子を授けるような効能があると言われております」
彼は自分の方のグラスにも茶を足しながら話した。液体がグラスを満たし、溶けて小さくなった氷がころころと音を立てた。
「具体的に言えば、精力増進や催淫効果といった、いわば精力剤のような性質と思っていただければ良いでしょう。結人さんはまだそういったものに世話になるようなお歳ではないでしょうが」
実際それはその通りではあった。コンビニや薬局で目にするような仰々しい見た目の漢字が印字された、いかにもといったものは飲んだことがなかった。せいぜいエナジードリンクか、運転時の眠気覚まし用のドリンクを飲んだことがある程度だ。僕は複雑な表情をしていたのだろう。和夫さんは気を遣ってか、視線を再び盤面に落とした。気づかぬうちに盤面は中盤に差し掛かっていた。玉が動き出す。
▲6八玉――
「お神乳については、その生乳、ないし乳酒に加工したものが伝統的に祭祀の折などに振舞われます」
乳酒というのは日本では気候的な問題なのか、あまり馴染みはない。確かそれこそ奈良の飛鳥の方に珍しく製造している所があった気がするが、それ以外では聞かない。
「霞様に献上するものは先ほど記したように『御神乳』、村民に奉仕するものは『お』を平仮名で表記して『お神乳』というように区別しております」
△4二銀――
「そしてお神乳の奉仕には一般的な直会、つまり神前に供えたものを神と共に食することによって神と村民の霊を一体とするという意味と……もうひとつ、その優れた強壮作用によって子孫繁栄や長寿を祈願するという意味があるのです」
▲7八金――
和夫さんはそこまでを一息に話し終えると、小さく息を吐き、茶を飲んだ。その話し方にはいくらか事務的なニュアンスがあった。一方的に話させ過ぎてしまったかもしれない。僕は少し質問をしてみることにした。
「先天的なホルモンの異常、というようなことなのでしょうか?……すみません、『異常』というのは語弊があるかもしれませんが」
和夫さんは何度か頷いた。
「おっしゃる通り、『異常』かどうかというのは難しい問題じゃが、少なくとも村ではそのようには捉えておらん。そもそもお神乳は、その生成メカニズムや成分からして母乳とは根本的に異なるのです」
僕は盤面から視線を上げた。
「母乳では……ない?」
正直、お神乳の効能については話半分に聞いていた。しかし話が詳細になるにつれ、僕はそれを単なる前時代的な蛮習として片づけられない何かを感じ取り始めていた。
「お神乳を口にした起一の反応を覚えておられるかな?」
△8四歩――
「ええ、覚えています」
確かに、起一さんは恍惚とした表情を浮かべていた。
「千種さんへの気遣いはあったにせよ、日常の中で何かを口にして、あそこまで真に迫った感動ができるケースは稀だと思います」
まして、起一さんはあまりオーバーなリアクションをするタイプには見えなかった。
▲8八銀――
「お神乳については解明されておらんことも多い。現代科学では説明できず、ただなぜか気が惑う。まぁ難しい話はさておき、母乳というのはあくまで赤子のためのものであって、大人が飲んでうまいような代物ではない。儂の限られた経験上の話じゃし、個人差はあるかもしれんがね。別物なのは間違いない」
彼は不敵な笑みを浮かべていた。彼には様々な笑顔のバリエーションがある。政治家というものには、そういうスキルが必要なのかもしれない。僕はやや混乱しかけた思考を鎮めるため、次の一手を考えながら、庭に目をやった。月がもうひとつ出ているのではないかと期待したが、当然ながらそんなことはあり得なかった。
△8五歩――
「『奉習』や、『媛』、『妍』といったものについても、教えていただけますか?」
奉習については巧二さんも口にしていたが、巫女になるための修行のようなものであるということだったはずだ。しかしその実態については闇の中である。和夫さんはここにきて初めて、鼻の下に拳をあて、慎重に悩むような仕草をした。
「そうじゃの……奉習というのは、祭祀での本格的なお勤めに向けた、一言で『慣らし』のようなものじゃな。今日話しておったように、その具体的な内容について今は志保さんと巫女との間で話して決めることになっておる。ちなみに彼女は村の診療所の女医さんじゃ。年の頃は結人さんに近かったような気がするから、何かあった時には良い相談相手にもなるやもしれん」
はぐらかされたような感があるが、確かに不用意な質問だったかもしれない。
▲7七銀――
そんな僕の意識を逸らすかのように、白木さんの一手が繰り出される。彼の戦略は成功している。僕は実は負けず嫌いなのだ。どれだけ不利な前提や力の差があったとしても、それは変わらない。
「媛と妍について、これは巫女の階級じゃ。伝統的にはもう少し細かくあるんじゃが、まず第一に媛は基本的に我が村の社の神職の中では最高位じゃ」
世間一般で言う巫女と言うと、現代ではアルバイトのイメージが強い。常勤……というのが適切な表現かは分からないが、その場合でも早期にリタイヤするケースが多いと聞いたことがある。しかし最高位ともなれば、事情は変わってくるのかもしれない。
「珍しいですね……そしてここは――」
△2四歩――
「良い手じゃ」
▲同歩――
「妍については言わば見習いじゃな。媛になる前の前段としての位置づけの他に、副業としてお勤めをするような場合の階級としても設定されておる。待遇には明確に差があるが、採用の基準について、正直このあたりは曖昧じゃ。そもそも血筋の者しかなれんからの」
そのあたりの事情は他の仕事と変わらないんだな、となんだか神秘性が薄れたような気がして些か残念な気持ちになった。
ふと、和夫さんが腰を上げた。
「茶のお代わりを注いでくるから、待っていてくだされ」
「いえ、そんなわけには――」
僕は立ち上がりかけたが、かといって家の中の勝手が分からないし、歩き回るわけにもいかない。和夫さんの穏やかな笑みに制されて腰を下ろすが、僕はそんな自分に嘆息した。こういう時、営業職の人間ならうまく機先を制して気の利いた立ち回りができるのかもしれないが、僕はそういったことは不得手だった。せめて自分にできることをしよう、僕はそう思いなおした。そろそろ僕の利用価値についての話をすべき頃合いだ。
戻ってきた和夫さんに改めて礼を述べ、僕は口火を切った。
「僕の利用価値についてのお話なんですが……」
彼はまるでその話題が来ることを予期していたかのように、頷いた。
「結人さんは既に儂が期待しておった役目を果たし始めておる」
▲3六歩――
鋭い一手が繰り出される。自然、僕の眉間にはしわが寄っていた。いけない、重要な話をしているのだ。
「それは……どういうことでしょうか?」
「あなたにお願いしたかったことは、一言でオブザーバーのような役割です」
△5二金――
「村のソトの人間としての視点から、この村の、儂の、あの娘らの行いを見て、気になることがあったら意見して欲しいのです」
▲3五歩――
盤上ではどんどんと和夫さんの有利が広がりつつあった。
「気づかれましたかな?この村には若い男衆がかなり少ない。村の機能の維持に最低限必要な以外はおらんのです」
そのことは確かに気になっていた。
「出稼ぎに出られているんですか?」
「それもある。御覧の通り我が村には産業らしい産業がほとんどない。巫女の伝統を秘匿し、彼女らを守るために敢えて目立たんようにしているということもあるが、ふつうの産業はないんじゃよ」
含みのある言い方だと思った。村の財源については、恐らく何らかの秘密がある。だが、それに正面から踏み込むには僕はあまりに脆弱だ。
△4三金――
「『それも』とおっしゃいましたが、他にも理由があるんですか?」
▲5七銀――
僕は彼のその一手に対し、気を落ち着けるために息を吐いた。
「若い男が多いと、巫女との間にトラブルが起きやすい。昔はそれを懸念して敢えて追い出していたような側面もあった。巫女は老人たちのものじゃった……そうこうしているうちに村からはどんどん人が去っていった」
和夫さんの顔つきが変わったような気がした。その背後に、背負われた闇が見えた。彼が一度瞼を閉じる。そして再びゆっくりと目を開くと、その怜悧な表情を僕に向けた。
「じゃから、あなたには若い世代の男性としての視座と役割も期待しておるんじゃよ」
その後も展開は進み、盤面はいよいよ詰みの局面となった。せめて最後まで粘り強く抗うのが礼儀というものだろう。
▲2二歩成――
「僕に……何ができるのでしょうか」
△同金――
「逆に問おう、結人さん、あなたはこの村でそれを見つけようとしているように見受けられるが、違いますかな?」
▲2四飛――
「……おっしゃる通りです」
△3一玉――
僕は盤上に視線を落としたまま、和夫さんの顔を見れずにいた。すべてを見透かされているような、そんな気がしたのだ。彼が茶を飲む。そしてグラスを置くその些細な音が、不思議とやさしかった。
「結人さん、儂はあなたに、村全体のこともそうじゃが、特にあの娘らを見守ってやって欲しいと、そう望んでおります。儂は時に、村の都合や利益を優先してしまうやもしれませんから」
和夫さんの言葉は穏やかだったが、そこには隠しようのない重みがあった。この村の未来が、彼女たちの行く末が、自分の目に委ねられる——そんな責任を、自分は果たせるのだろうか。僕はおずおずと顔を上げた。
「見守ると言っても、具体的にどうすれば……?」
彼は微笑む。
「それに正しく答えられる者は、恐らくこの世界のどこにもおらん。その意味では、それを考えるのもまた、お前さんの役目じゃよ」
それはそうだ。返す言葉もない。
「もちろん、儂も一緒に考える。じゃが――」
僕は伏せかけた顔を再び上げる。
「さっきも言うたが、あなたは既にそれをしてくださった」
和夫さんがこちらにやや身を乗り出した。
「あなたは千種を案じ、適切な距離感を保ちながら、あの娘を励ましてくださった。儂はそこにあなたの想いを感じた。あなたが想像力の源泉だとおっしゃられた、想いを」
彼は体を元の位置まで戻すと、僕への餞別かのように次なる一手を打った。それが最後だった。
▲3四飛成――
「……参りました」
僕は自分でも意外なほど悔しかった。もっと清々しい気持ちになるかと思っていたが、現実は違った。しかし、僕はその悔しさがどこか嬉しくもあった。そんな感情が自分の中にも残っていたのだと、そう思えた。そういう意味では晴れやかさもあった。人間の心理というのは複雑なものだ。
「あなたは千種のことを案じておられたようじゃが、あなたもまた、もっとご自分に自信を持たれた方が良い」
和夫さんは父親のような表情をしていた。僕は郷愁を覚えた。
「この村のために、少しだけ、手を貸してくだされ」




