燈子Ⅳ
その日は文乃ちゃんのお家に招待された。少し前までうるさいくらいだった蝉の声が止むと、秋の訪れが感じられて、どこか感傷的になってしまう自分がいた。晴れ渡った空に揺蕩うひつじ雲は、今の私たちの平穏を象徴しているようだ。
文乃ちゃんのお家に着いて呼び鈴を鳴らすと、そう間をおかずに彼女は出て来てくれた。
「いらっしゃい」
文乃ちゃんは表情が明るくなった。以前から社交的で表面的には明るかったが、今の文乃ちゃんには飾らない朗らかさがある。中に入ると、古い紙とインクに木の匂いが混じった、いつもの落ち着いた空間が私を迎える。
「紅茶で良い?」
「おまかせで」
光の陰影のコントラストの美しいダイニングで文乃ちゃんのお家特有の知性の香りを堪能していると、その中にラベンダーと柑橘の香りが混ざり込む。
「ラベンダーのアールグレイ、燈子好きだったわよね?」
「ありがとう」
今となっては私以上にすみれが気に入ってくれているラベンダー・アールグレイの香りは、私の気持ちを整えてくれる。文乃ちゃんもそれを知っているのだ。
ふとテーブルの上の花瓶に花が生けられているのが目についた。文乃ちゃんの庭の花ではない。ははん、これは結人さんからのプレゼントなのではないかと私は思った。
「文乃ちゃん、この花、どうしたの?」
私はニヤつきを隠さずに尋ねてみた。しかし、私はそれを後悔することになる。
「あ……それね?以前も同じ花を結人さんが贈ってくれたんだけど、その時は彼、花の意味を知らなかったみたいで……それでわたし、ついがっかりした顔をしちゃったの」
仕事柄、モチーフとすることも多い花の意味には詳しいつもりだ。
「そしたらね、結人さん、その時のことを覚えていたみたいで……改めて、贈らせて欲しい……って、それで……」
そこから先は文乃ちゃんも私も、互いに顔を赤くして俯いていた。完敗だ。
文乃ちゃんが席についたのを見て、ここは私から話を切り出すことにした。
「結人さんとは、その後どう?」
文乃ちゃんは初めて付き合った恋人について尋ねられた十代の女の子みたいに頬を染め、少し俯いていた。
「基本的には、順調よ?」
文乃ちゃんは少し言葉を選んで、そう言った。
「文乃ちゃんにそんな表情させるなんて、結人さんは罪な人ね」
文乃ちゃんは今、青春を取り戻しているのかもしれない。
「色んなことが新鮮で、戸惑うことも多いけど、でも……幸せなんだと思う」
内省的な文乃ちゃんらしい言い方。そんな文乃ちゃんの背中を押すために、私は頼まれていたものをテーブルに広げた。
「文乃ちゃんが私にランジェリーをオーダーするのなんて、初めてだものね。私、ワクワクしてすごく張り切っちゃった」
はにかんだような文乃ちゃんの表情は、文乃ちゃんの言うデミロマンティックな私ですらドキドキするほど瑞々しかった。
「文乃ちゃんの好みをベースに私のエッセンスをひとつまみ、ふたつまみ、してみたんだけど、どうかしら?」
文乃ちゃんは実用的でシンプルなデザインを好む。でも今回は私に依頼をくれた意図を汲んで、シンプルかつ少し攻めたデザインを心がけた。文乃ちゃんがサンプルを手に取ると、その瞳に煌めきが灯る。上手くいったみたいだ。
「すごく素敵……イメージ通りだわ。さすがね」
私は思わず、ふふんと鼻息を荒くした。
「文乃ちゃんのことは分かってるつもりだから、任せて」
目の前でユーザーの反応を直接見るのは一番の楽しみだ。
「実際に少し合わせてみて欲しいんだけど、いい?」
「うん」
文乃ちゃんは部屋のブラインドを下ろすと、私に背を向けて白いブラウスと白いブラを順に取り払っていった。
「失礼します」
私は背中から文乃ちゃんの形の良いふっくらとしたバストにサンプルを合わせて微調整していく。
「やっぱり、すごく綺麗。寄る年波も跳ね除けちゃいそう」
「いえいえ、燈子さんほどでは」
「そんなそんな、ご謙遜を」
私たちがこんな風に他愛なく戯れられるようになったのも、文乃ちゃんやみんなのおかげなのだ。
調整を終え、服を着る文乃ちゃんに、私は気になっていた疑問をぶつけてみた。多分それは数少ない気のおけない友人である私の役目だと思った。
「さっき、『基本的には順調』って言っていたけど、何か気掛かりなことがあるの?」
文乃ちゃんはどこかほっとしたような表情で、テーブルにつきながら話し始めた。
「わたしたち、普通の恋愛ってして来なかったでしょう?だから、例えば出かける時なんかも気づくといつも結人さんに引っ張ってもらってて……」
いけない、ニヤつきそうになるのを私はなんとか堪えた。文乃ちゃんは今真剣な話をしようとしているのだ。
「夜も……ね?わたし、気持ちが昂ってくると、なんていうか、その……幼児退行したみたいになっちゃうことがあるの。結人さんは、可愛いって、そう言ってくれるんだけど……」
ここまでだけなら、とんだ惚気話だ。聞いている私の方まで恥ずかしくなってくる。
「一言で言えば、わたし今、結人さんに依存しそうになってると思うの。もしかしたら、もうしてるのかも」
文乃ちゃんの瞳が揺れている。
「でもそれって……結人さんが今まで苦しんできたパターンそのものなんじゃないかって」
多分、聡い文乃ちゃんのことだ、答えは既に彼女の中にある。私は話を聞いて、背中を押してあげるだけで良い。
「結人さんには、話してみたの?」
大切な本の表紙を撫でるように、文乃ちゃんの視線がやさしく空を撫でる。
「話したわ。貴女がそんな風に思い悩んでいること自体が、僕にとっては救いだって……今までたくさんの人の情動を受け止めてきた分、甘えたってバチは当たらないって」
鳥の囀りが聴こえる。
「結人さんは、文乃ちゃんが甘えられないくらい、弱い人?」
文乃ちゃんは穏やかに微笑む。
「結人さんは弱さを抱えている、でもその弱さは彼の強さと一体のものだし、人間の根源的なものだと思う。矛盾を矛盾のまま受け止められる強さが彼にはある。……そういうところは、ちーちゃんに少し似てるかも」
千種の話題になって私は少し驚いたけど、結人さんの人となりへの理解が深まった気がした。文乃ちゃんはさらに続けた。文乃ちゃんは好きなものについて話す時、饒舌になる。
「そして彼はそうした矛盾や問題に対して、ありがちな自己犠牲や、身勝手で操作的な解決をよしとしない。彼は対話を大切にする。それは、たぶん、わたしと一緒に歩いてくれる上で、なくてはならない資質」
文乃ちゃんの目が細められる。
「それにね、ある種の強さは弱さの奥にあるものなんだって、彼と触れ合っていると感じるの。柔らかい草を皆は踏みつけていく。でも彼はそれに対してただ幹を固くしたり、棘を生やすのではなく、しなやかにあろうとする」
彼女の瑞々しいイメージが、私の中にも流れ込んできた。
「いずれはきっと、踏みつけようとすれば跳ね除けられて、誰もがその強さに気づくようになるのよ」
私は少し茶々を入れたくなった。
「じゃあ、文乃ちゃんは結人さんのしなやかさな強さに、メロメロなのね?」
文乃ちゃんがいじらしい表情で頬を染める。
「なんだか含みのある言い方に感じるけど……でもそうね、わたしもう、抗えないのかも。彼と触れ合った後、彼にやさしく抱かれながら、今わたしの中に彼の切なさが息をしてるんだって思うと、すごく温かくて……満たされるの。それは彼がわたしとの未来を想いながらくれた、特別なものだから」
まったくもう。私はとんだ道化ではないか。
「覚悟はしてたけど、想像以上にアツアツね。全部わかってるじゃない」
私は大袈裟に手でぱたぱたと扇いで見せたが、それは必ずしも大袈裟とは言えないくらい、文乃ちゃんの火に当てられて熱っていた。
「分かってたけどね。聡明な文乃ちゃんの中にはもう答えがあって、それを裏打ちしたいだけなんだって」
文乃ちゃんはどこか自嘲的な笑みを浮かべた。
「そんなことないわ。研究者はあくまで研究者にすぎない。分野や研究手法にもよるけれど、研究対象はあくまで研究対象であって、究極的には他人事だし、そうでなくてはならない。どれだけリサーチを重ねて、当事者性に配慮していても、実際には当事者にならないと分からないことばかりよ。良し悪しではあるのは分かっているけど、こういう時、研究者という職業の傲慢さを思い知るわ」
文乃ちゃんは紅茶にミルクを注いで、その溶け合う様を見つめていた。
「それで、そんな慎重な文乃ちゃんは、私という観測者を介して、今後の二人の未来をどう評価するの?」
私は敢えて意地悪な水の向け方をした。僅かな間、瞼を閉じた後、開いた文乃ちゃんのその瞳の色は濃かった。
「どうなるかは分からない。でも、失敗も、痛みも、ありのままの自分で、結人さんと乗り越えていきたい。その気持ちを、大事にしたい。もし間違ったら、叱ってくれる人も、わたしにはいる。幸いなことに」
「情熱は何物にも代え難い資産だと思うわ。……そうよ、私も、すみれも、いる。若菜ちゃんだってもう十分に強いわ」
「実際、若菜には叱られちゃったしね」
文乃ちゃんは少しバツの悪そうな顔をした。
「丸裸でぶつかっていけばいいのよ。あの日の文乃ちゃんみたいに。無駄なことなんて、ひとつもなかった。今ならそう思えるわ。それも全部、あの日の文乃ちゃんの決意のおかげだと、そう思ってる」
無責任に聞こえただろうか。私は恐る恐る文乃ちゃんの顔を伺った。
「ありがとう……燈子とすみれは最近どうなの?」
私以上に不安げな文乃ちゃんの表情に、私は彼女が気にしているもうひとつを察した。
「私とすみれは相変わらずよ。私は求められるうちは巫女を続けるつもりだし、それはたぶん、すみれも同じ」
文乃ちゃんは巫女の任を降りた。誰もそれを咎めなかった。少なくとも表面上はみんな、ただ静かに受け入れた。
「安心して後のことは任せて。それに何かあっても、私とすみれは互いに支え合っていける」
「そう、よね」
そんな顔をしないで欲しい。文乃ちゃんは、もっと我儘になってもいいのに。そこは結人さんの手腕に期待しよう。私はそう思って、話題を切り替えた。
「結人さんとはデートとか行かないの?」
文乃ちゃんの顔に色が差す。以前はこんな表情、若菜ちゃんの話題でもないと、表に出さなかったのに。きっと結人さんから良い影響を受けてるのだと、私は本当に嬉しくなった。
「……今度ね、鮫を観に行くことにしたの」
「サメ?」
「わたしね、鮫が好きなのよ」
深い海を悠然と泳ぐホホジロザメのイメージが私の脳裏をよぎり、ぞくりとした。
「初耳」
「でしょ?」
なんだか私たちは不思議な会話をしている。
「でしょ?ってなによ」
私は思わず吹き出してしまった。
「わたしもね、気づかなかったのよ。この間、結人さんと水族館に行ったときにね、クラゲとかチンアナゴなんかの愛嬌のある生き物を和気藹々と観てたの。でもいつの間にか鮫の水槽の前に張り付いてたわたしを見て結人さんが、『鮫、好きなんですか?』って。それで、あ、わたし、鮫が好きなのかも知れないなって。そしたら大洗の方に鮫を沢山飼育してる水族館があるから、行こうって話になって」
文乃ちゃんにはずっとこんな風に笑っていて欲しいと思った。せっかくだし、ここは最後にもう一押しさせてもらおう。私は新作のカタログをテーブルに広げた。
「そんな文乃ちゃんに……これね、秋の新作のカタログなんだけど、このハーネスブラのセットアップなんか文乃ちゃんに似合うと思うの。どう?」
文乃ちゃんはうろん気な目でそれを眺めた。
「燈子……その、素敵だとは思うのよ?」
どうにも言葉を選んでいる風だ。
「わたしがあまり詳しくなくて申し訳ないのだけれど、これに布をアタッチメントするってこと?」
「アタッチメント?」
「ここに、こういう風に……」
文乃ちゃんがティースプーンの柄の部分で私にイメージを伝える。
「なるほど……そういうのも悪くないわね!気分で変えられるし、パートナーに外してもらう楽しみもありそうだわ」
「……じゃあ、これはこういうものなのね?」
「そうよ?」
あまり文乃ちゃんには馴染みのないデザインだったみたいだ。
「すみれにも、こういうのよくプレゼントするの?」
「もちろん」
「すみれはなんて?」
なぜそんな心配そうな顔をするのだろう。
「いつも素敵ねって、褒めてくれるけど」
「そう……」
文乃ちゃんは遠く海の向こうのサハラ砂漠を見つめるような顔をしていた。確かにオリエンタルなテイストのデザインだから、イメージが伝わったのかもしれない。
「どう?良かったら私から二人へのプレゼントにしたいんだけど――」
正直、ランジェリーについての好みは、文乃ちゃんと少しだけズレていることは分かってる。だからこれは私にとっての挑戦でもあるのだ。
「……燈子」
その声には緊張感があった。
「なに?」
「……結人さん、喜ぶと思う?」
文乃ちゃんは耳まで赤くして私に尋ねた。良い流れだ。そうよ、新たな扉を開ける時よ、文乃ちゃん!
「絶対に喜ぶわよ!きっといつも以上に燃えると思うわ」
私は思わず前のめりになって断言した。
「……」
「?」
さっきからどうにも文乃ちゃんらしくない。恋というのはよほど人を変えてしまうらしい。私がすみれを想うのとはまた何かが違うのかも知れない。
「へ……じゃあ、ご好意に甘えようかしら」
最初に何と言おうとしたのかは分からないが、何にせよ前向きな姿勢は嬉しい。
「いいと思う!色は何が良いかしら。黒もいいけど、ネイビー、ラベンダーなんかも似合いそうよね」
「燈子のセンスに任せるわ」
たまに若菜ちゃんに対してするような顔で文乃ちゃんが私を見つめる。私は仕事絡みのことになると周りが見えなくなるところがある。気をつけよう。
「そう?じゃあ、楽しみにしててね」
いまの私に出来るのは、こうやって大切な人を想いながら、日常に小さな歓びを織り添えることだけ。時には、上手く伝わらないこともある。でも私は自分の仕事に情熱を持っている。だから、自分の声に従って続けていく。それだけなのだ。
私の視線の先には文乃ちゃんの染まった頬がある。
かつて、この頬が笑うことすら忘れていたことを、私はよく知っている。
私は何もできなかった。すみれと一緒に、ただ、文乃ちゃんが薄闇の奥に融けていくのを見ていることしかできなかった。
結人さんはあの雨の夜の後、私に言った。文乃ちゃんの口から、三十年前の出来事を聞いたと。
そして私やすみれの為に出来ることがあるなら、いつでも話して欲しいと。
違和感があった。
彼は、文乃ちゃんの怒りに呼応して霞様が顕現したのだと、そう聴いたらしい。
確かに、あの時の文乃ちゃんは普通じゃなかった。何かが降りてきていたとしても、不思議はない。
だからきっと、それは文乃ちゃんにとっての紛いのない真実なのだろうと思う。
あの頃、私達は――文乃ちゃんのことが怖かった。だから、何もしてあげられなかった。
無力感というなら、すみれのことも、そうだ。
私達は互いに支え合っている。だから、きっと彼女は大丈夫——私はそう信じている。
でも、彼女の身に絡みつき、のしかかるものを、本当は全部取り払ってあげたかった。
これ以上、文乃ちゃんやすみれの顔に翳りが差すことがあってはならない。
そのためなら、この先また何かの犠牲が求められ、誰かが咎を負わなければならないとしたら——
それは私でなくてはならない。絶対に。




