若菜XIV
昼過ぎ、鏡渕池のほとりのベンチに腰掛け、僕はぼんやりと文乃さんとの時間を振り返っていた。結局僕たちは、あの後も朝まで何度も睦み合った。行為の最中、彼女は何度も僕の名前を呼んでくれた。僕の匂いにして欲しいと、僕のカタチにして欲しいと乞うた。やさしい僕の身勝手なところを、自分だけに見せて欲しいと。
僕はそんな彼女のどこか自己破壊的なニュアンスに対して、言葉の通りにしていいのか迷った。だからせめて彼女の髪や肩を絶えず撫で、心地よさそうな場所に唇をつけながら、出来るだけゆっくりと動いた。
そうして文乃さんに求められるままに、僕らは互いの熱を交換した。彼女が僕を求めるように、僕も彼女を求めていた。彼女にもそれが分かった。だからそこには際限というものがなかった。
我ながら陽の高いうちから、なんて破廉恥な回想をしているのだろうと思った。それでも容易には払えないほど、その記憶は強烈に僕に刻まれていた。
これまで、僕の女性関係は決して多いとは言えなかったが、あんなにも強く求められたことはなかった。誰かから強く求められることがこんなにも満たされた気持ちにさせるのかと、僕はその魂が痺れるような余韻に浸っていた。
ある種の渇きは、同じような渇きを抱えた人間同士でしか満たすことができない。そう感じた。
少し遠くの水辺で魚が跳ねた。その音でようやく、すぐ傍に若菜が立っていることに気づいた。彼女は池の方を眺めていたが、彼女らしからぬたおやかな仕草で僕の隣に腰を下ろした。
「ねぇ、結人さん」
「……なんだい?」
僕も若菜も、同じように池を見つめる。
「人生相談、いいかな?」
「僕で良ければ」
「ボクね、失恋したんだ」
それは文字通り、胸を抉られる想いだった。厄神の依代となった若菜に貫かれたあの痛みが甦った。
「びっくりしちゃった。こんな気持ちになるんだね。胸に、穴が空いたみたい。こんな気持ちになるから、人を好きになんてならなきゃ良かったって……みんながそう思う気持ち、今なら分かるよ」
横を見やると、俯いた表情の若菜の頬を涙が伝っていた。僕は、その涙を払うことができなかった。
「だから、結人さんはつらかったんだね」
僕は彼女が何を言わんとしているのか、分からなかった。
「だってそうでしょ?大切だった人に、嫌いになったわけじゃないのに、別れを告げなきゃいけなかったんだよね?想い出だって、きっとたくさんあって……こんな気持ちに、ううん、きっともっと、ずっとつらい気持ちにさせるって分かってて――」
(……⁉)
息をするのを、僕はしばし忘れた。それは、彼女に話していないはずの僕の過去だ。いや……ちがう……どうして忘れていたんだろう?あのアパートで、僕は確かにそれを彼女に話した。でも彼女はそれを憶えていなかったはずではなかったのか……?わからない……わからない……でも――
「わかんない……わかんないよ……これ以上つらい気持ちがあるなんて、ボクにはぜんっぜん想像できない……」
涙の河はなおも止めどなく流れ、彼女の形の良い顎から手の甲へと滴り落ちていた。
「でも、ボクは、好きになって良かったって、思う。こんな気持ちがあるって、知れて良かったよ」
震える声で、若菜はもう顔を上げて前を見ていた。若菜、どうして、君はそんなにも強いんだ。
「結人さん、ボク、また誰かを好きになれるかなぁ?」
「若菜ちゃんくらい魅力的なら、引く手数多だよ……いや、違うな……そうじゃないよね。でも、君が望むなら、きっと」
僕にはそんな言葉を口にするのが、やっとだった。悔しさに、つい拳を握り込み、手の平に爪が食い込んだ。どこかでその痛みに救われようとしている自分が、僕は、憎かった。
「……」
若菜が小さく何かを呟いたような気がした。
「え?」
若菜がベンチから跳ねるように立ち上がり、池まで少しの距離を駆けていくと、いつもの笑顔で振り返って言った。
「なんでも!……バーカって、言ったの!」
池の水面がきらきらと光を反射していた。そして若菜はそのまま少しの間、池の方をぼんやりと眺めていた。
「うっ……うぅ……」
ふと、若菜がしゃがみこんで、堰を切ったように泣き出した。今の僕に彼女を抱きしめることは出来ない。そうして逡巡する間も与えず、ずっと様子を見守っていたのだろう、千種と琴音が若菜に駆け寄り、抱きしめた。
「若菜ちゃん……」
琴音が若菜と僕の間に立ち塞がり、毅然とした眼差しで僕を見つめた。そうだ、琴音。憎め。君は僕を蔑んでくれ。そうするべきだ。なのに――
(どうしてそんな顔をするんだ)
琴音は最初、僕を責めるように睨んでいたが、やがて驚いたような表情になり、憐れむような、泣き出しそうな表情になった。今ここを立ち去るべきなのは僕の方だろう、そう思ってベンチから腰をあげようとして、僕のスニーカーに雫が落ちた。そうか、僕はまた泣いていたのか。情けない。涙は見せまいとしていたのに。涙をこらえようとすると、耳の奥から地鳴りのような音がして、次から次へと涙が溢れた。僕は少しでも速くと、足速に背を向けてその場を去ろうとした。
「結人さん!」
若菜の声。それでも今振り返ってこれ以上、みっともない姿を晒すわけにはいかなかった。
「ありがとう!」
――やめてくれ。
「ダイスキでした!」
僕は急いで物陰に駆け込むと、みっともなくしゃがみこんで、声を殺して泣いた。もうどうしようもなかった。溢れる感情を止めることが出来なかった。僕はこれからもずっとこの弱さと付き合っていくしかない。それだけは分かった。それでも、僕は、自分がこんな風に泣けることを、この村に来たばかりの頃は想像も出来なかった。そんな自分にしてくれたこの村に、若菜に、琴音に、千種に、志保、燈子さんや、すみれさん、和夫さん、そして文乃さんに、心から感謝した。ヌァルーもいた。本当に、もうどうしようもない。どうしようもない人生だ。それでも僕は歩んでいくしかない。許されようと許されまいと、僕はいつだって惨めに泥臭く最善を求めて、何度も人を傷つけ傷つきながら想像力不足を呪いながら、いつかその定めを終えるまで、しゃにむに生きていくしかないのだ。
――路傍の石みたいな希望で、〝ポケットをふくらませて〟
挫けそうになった時は、彼女たちの眩しさを思い出そう。




