霞Ⅴ
夜、夢の中でヌァルーに会った。真っ白な何もない空間に、同じく白い天蓋付きのベッドだけがあって、彼女はベッドに腰を下ろしていた。
「珍しい……よね?こんな、なんでもない時にあなたと交信するなんて」
「なんでもない?よく言うよ。あんな激しい情動、記録的だよ。わたしとしては大満足だけどね」
僕は中間的な笑みを浮かべた。恥ずべきことでも、疑うようなことでもない。それはきっとその通りなのだ。
「ちょうどいい。僕もひとつ訊きたいことがあったんだ」
「答えられることであれば」
僕は一度瞼を閉じ、そして開いた。夢の中で瞼を閉じるというのは、なんだか奇妙な感じだった。
「文乃……さんが言っていたことについてだ。彼女が怒りの感情に塗りつぶされた時、ヌァルーの力によってすべてはキレイになったと」
血のように紅い双眸が僕を見つめている。
「その時、思ったんだ。それはあなたの好むものではなかったのではないかと」
何かを見定めるかのような間があった。
「良い問いだ、月城結人」
やはり、何かあるのだろうか。
「君の言う通り、あの時はかなり際どかった。今際の際の文乃の母親の、彼女を想う気持ちがなければ、危なかった。あの時の文乃の情動は、一言で劇薬だった。文乃の怒り……殺意と言ってもいい、それは確かに奴の好む情動だ。でも、同時にそれは身に迫る搾取に抗い、大切に想う皆を守りたいという生への強烈な意思でもあった。本当ならわたしと奴の争いはもっと拮抗しただろうけど、勢いはこちらに分があった。紙一重の差だったんだよ。だからこそ、封印も不十分だった。結果として、三十年ほどで再度復活してしまったというわけ……結人たちには申し訳ないことにね」
僕は辺りを蠢く白く艶やかな触手の動きで、なんとなく目の前の神性の心とも言うべきものを感じ取ることができた。少なくとも僕には、そんな風に感じられた。そしてヌァルーは本当に申し訳なく思っているようだった。とても神とは思えない、人間らしい感情だ。
「いや、いいんだ。おかげで今の僕たちがある。感謝こそすれ、恨んだりなんかしない。……ありがとう」
「君は成長したね。できたらこれからもここにいてよ」
神からのリクエストなんて随分畏れ多い。
「むしろヌァルーはソトの世界に興味はないの?神の行動原理なんて、僕には到底分からないけど。それとも、見えないところで八面六臂の活躍をしているの?」
ヌァルーはいつもの眠たげな眼をより一層細めた。
「わたしは君らの言うところの『陰キャ』なんだよ。もっと広い世界で何かしたいとは思わない。適材適所。わたしにはこの村がちょうどいい。この村で君らがキャッキャウフフして、そこから染み出るジュースをちゅーちゅー吸って愉しむのが性に合ってるんだ。アブラムシみたいなものだね」
僕は失笑してしまった。陰キャの神なんてものもいるのか、と。いや、古来神は人間の現身として想像されることもあっただろう。神話には詳しくないが、そういうこともあるのかもしれない。
「あなたは僕らの想像力を超えた存在だ。僕は僕らに都合よくヌァルーを解釈しているに過ぎない。でも僕にとってあなたは『共生』の象徴だ。せいぜい見放されないよう、精進するよ」
「吞まれちゃダメだよ、結人。奴はいつだって君たちの脆弱性に目をつけている。時には自分の心に素直に耳を傾けて、生きるんだ。それによって救われるのは、君だけじゃないかもしれない。文乃がそうだったように。いまや君だって象徴なんだ」
「僕が……?」
「そうさ、物語は常に観測者の存在によって完成する。結人にとってのわたしがそうであるように、結人の軌跡も、観測する誰かの手によって、何かの象徴となる」
「僕のごときが一体なんの象徴になるっていうんだ」
ヌァルーを纏う空気が変わる。荘厳な、何ものをも寄せ付けない、そんな雰囲気。
「そうだね、いうなれば、境界線上で傷つき続ける脆弱な人間の象徴、かな」
「いずれにも染まらない、中途半端な存在」
僕はそう、ヌァルーの言葉を継いだ。そしてさらにこう続けた。
「でも、それは好意的に受け取られることではないにせよ、普遍的な人間の性質なんじゃないのか?」
「君がそう思うなら、君にとっての人間性というのはそういうものなんだろうね」
人間性……。
「そして君はそこに価値を見出している。悩むこと、優柔不断であること、半端者」
「それらの行き過ぎた否定は、対話の根を枯らすからね。そしてそんな『人間性』を搾取する存在と、僕らは闘ってきた」
「そう。君が人間性だと思うものを蔑み、無価値だと扇動しながら、一方でそれを甘そうに啜るミミズみたいな存在と、ね」
そんなシステムはいくらでもある。きっと何かバグがあるんだ。バグというものは存在することしか証明できない。ないということは、証明しようがない。それが、品質保証の基本だ。社会というシステムがアップデートを繰り返す限り、バグは無限に生まれ続ける。エンバグというやつだ。そして僕らはバグを見つけ、報告し、修正し続けることしかできない。
「それにしても、何にも染まらないグレーな存在とはね……つまり鼠色だ。やっぱり僕は、『鼠』なんだな」
「そう?結人にセックスも人死にも出ない小説が書けるの?」
面白い神様だ。でも言われてみれば確かに――
「それは無理だね。どちらも書かなければならない。じゃないとグレーにならない。そんな小説は、漂白された真っ白な小説だ。それは慰めにはなるだろう。でも僕の求めるものじゃない」
「だから君は、生き残れたのかもね」
世界が啓く音がした。
「『鼠』は自分が鼠であることを受け入れられなかったのかもしれない。だから、白さを求めたのかも。ふふ……評論家に怒られそうだ。でもそうすると、結人は白鼠なのかな。赤い眼をした、アルビノの白鼠。ちゅーちゅー」
「まるで神の遣いみたいだな」
「正しく」
その時、ヌァルーは確かに笑っていた。はっきりと、満面の笑みだった。可愛いじゃないか。僕は不敬にもそう思った。僕に子どもができたら、毎日そんな風に笑っていて欲しいと思うほどに。




