文乃Ⅵ
「わたし、人を殺したの」
僕はそれを聞いても、特に動揺しなかった。なぜかは分からなかったが、そこにはそれなりの必然性があるのだろうと、そう感じられたからかもしれない。
「あの当時、巫女をとりまく環境は最悪だったわ。村の内外の権力者による性的な搾取。更には、村内の格差や伝統に対する若い世代からの反発が臨界点を迎えていて、厄神を信奉する教団が勃興し始めていたの。彼らによれば、村の本来の神は現在の霞様ではなく、厄神、朧様なのだと。朧様こそが千年前に巫女をお神乳の出る体質に作り変え、村民の喉を潤し、幼子を死から救った救世主。故に巫女は神聖な巫女などではなく贄であり、朧様が村民のために与えてくださった神なる家畜、神畜なのだと。結局彼ら彼女らも巫女にとってはクソッタレの権力者連中と同じ穴の狢だった。指導者は確か、元巫女の血筋の女性だったかしら。結局彼女も利用されていたんだと思うけれど」
僕は残酷なまでに艶やかな彼女の髪を撫でながら、彼女の話の続きを待った。
「教団への入信者には、村の権力闘争に負けた者や、教団を利用して巫女の利権を独占しようとしたソトの権力者もいた。ソトの権力者の中には当然医師もいて、当時まだ認可前だったピルを持ち込んだりして、色々と歯止めが利かなくなってた上に、既に彼らへの接待で流行していたアナルセックスが原因で、HIVも蔓延していた。すごい勢いで巫女達は体調を崩していったわ。燈子とすみれの母親もそう。気づいたときにはボロボロで、余命いくばくもなかった。そんな中、わたしの母が、わたしと、燈子と、すみれ三人の面倒を見てくれてた。でもあの日……」
呼吸が浅くなり始めた文乃さんを、僕はその髪を撫でながら、そっと抱きしめた。それしか出来なかった。
「ありがとう……」
そう言って文乃さんは残り火のように微笑んだ。
「あの日、すべてが壊れた。まだ綺麗なカラダのわたしたち三人を、当時の村長が引き取るといって突然家にやってきた。当然、母は抵抗したわ。もみ合いになって、気づいたときには、母は血塗れになっていた。脅しのために持っていた包丁を誤って自分に刺してしまった。いいえ、もはや脅しなんかじゃなかったのかもね。そこで、わたしは……弾けたの」
どんどんと冷たくなる彼女の手を、僕は強く握りしめた。
「怒りと悲しみで目の前が真っ赤になって、そんな時に霞様の声が聞こえたの。わたしは若菜ほどはっきりとは言葉を聞き取れなかったけど、味方してくれようとしているのは分かった。だから感情をぶちまけたの。『みんなしんじゃえ』って。わたしたちに害をなす者は、一人残らず殺してよって……そう願ってしまったの」
僕はかける言葉がみつからず、ただ彼女の体をしっかりと抱えることだけに神経を注いだ。
「そうしたら、その通りになった。どこからともなく現れた大小の触手が、村長さんや、いじわるなオジサンたちを、ナマスのように切り刻んでいった。それで、とってもキレイになったわ」
文乃さんが震え始める。凍てつく冬の底で、独り孤独に足を抱えるようにして。
「でも、それからずっと、わたしからは血の臭いが消えなかった。洗っても洗っても、消えないの。だからそれを洗い流したくて、忘れたくて、わたし、色んな男の人にわたしをあげたわ。血の臭いが消えるくらい、塗り込めて、汚してもらおうとした。それはかつて夢見ていた優しい交わいなんかじゃない。ただの性欲処理だった。自分を性欲処理の道具にすることで自分を罰していたのかもね。みんなわたしを慰めるような顔をしながら、わたしを貪ったわ。その時、志保さんみたいな人がいれば、そんな私を止めてくれたかもしれない。でもその時は、私を憐れむ人はたくさんいても、止めてくれる人はいなかった。……いいえ、燈子とすみれ、和夫さんは止めてくれたっけ。でもあの三人も自分のことで精一杯だったから……」
すっと、文乃さんの震えが止まったことに、僕はかえって不安になった。
「最初のうちはね、してる間は何も感じなかった。それで終わった後は、すごく惨めな気持ちになって……よく吐いたわ。でもそれで良いはずだった。そうあるべきだった。でも慣れてくるとね、段々と気持ちよくなってきたの。頭の中がふわっとして、そうしていると何も考えなくて済んだ。カラダが快楽に溺れていく一方で、自分がどんどん透明になっていくのを感じた」
僕は、今度は自分が震えそうになるのを歯を噛みしめながらなんとか堪えた。
「それでね、わたし、巫女になることにしたの。和夫さんは止めたけど、強引に巫女の伝統を廃絶しようとして、無理が来ているのは幼い私にも分かった。この村は、あの日を生き残った人たちですら、まだ巫女を求めているんだって。なら、私が責任をとらなきゃって。新しい、なるべくみんなが傷つかない巫女の伝統を創って、次に託さなきゃって。だからね、自分が守るその未来のカタチが欲しかったの。それが、若菜を産んだ理由。あの頃のわたし達にとって、好きな人との子どもを作るなんて考えは頭になかった。それがなにか不幸なことだとすら思わなかった。そんなことより、とにかく子どもが……若菜が欲しかった。だから、あの娘が生まれてきてくれた時……本当に嬉しかった……それまでモノクロだったわたしの世界に、初めて、色が差したような気がしたわ」
いつしかその目一杯に溜っていた涙が溢れ、彼女の少女のような頬に二筋の川をつくっていた。
「そんな大事な若菜を、わたしは傷つけてしまった……本当に、母親失格ね……」
僕はその涙を己にしみ込ませるようにして、彼女の頭を抱いた。
「こんな時に、不謹慎だと思うかもしれません。嘘だと、思うかもしれません。もしかしたら残酷なことかもしれません。でも言います。ここではない世界で、僕は、若菜さんにこう言ってもらったんです。『あなたは誰かに抱きしめてもらうべきだ』と。若菜さんは、とても強く成長されています。僕や、きっと貴女が思うよりもずっと。そしてそれは絶対に、貴女のおかげです。だから、今度は僕があなたに言います。貴女は、誰かに強く抱きしめてもらうべきです。そして貴女を抱きしめられるのが僕であればいいなと、そう思っています」
文乃さんは僕の胸に爪を立てながら、子どものように泣きじゃくった。
「わかな……わかなぁ……」
彼女が落ち着くまでの間、僕はかつて妻にそうしたように、髪や背中を撫で続けた。
「結人さん……あの、本当にごめんなさい」
「謝るのは、なしです」
「いいえ、きちんと謝らないと、わたしがその先に進めないから」
文乃さんは、いつものように真っ直ぐに澄んだ、それでいてどこかあどけなさも感じさせる瞳で僕を見つめながら、続く言葉を紡いだ。
「若菜や、あなたの気持ちを裏切るようなことをして、本当にごめんなさい。許して欲しいなんて言えない。でも、だから、正直な気持ちを伝えるわね。……あなたが好き。狂おしいほどに。そんな資格ないんだってことは、分かってる。でもこんな気持ち、初めてなの。私は今日初めて、男の人とちゃんと繋がったと思う。いいえ、それ以上のもっと深いなにか……ごめんなさい、支離滅裂よね、こんな言い方しかできないなんて……」
再び俯こうとする文乃さんの頬に手を添えると、彼女は再び僕の方を見てくれた。
「僕があなたを赦さないなんてこと、ありません。そもそも、赦しを乞われるようなことは、何もされていません。それはきっと若菜さんも同じに思っています。もちろん、傷つきはしました。でも、それは貴女だって同じはずです。そして、文乃さんはこうして僕にまた会ってくれました。それで十分です」
どういう表情をしていいのか分からないのだろう、口元をもごもごと動かす彼女の新鮮な表情に、僕は不謹慎ながら、可愛いと思ってしまった。そして、そんな彼女の驚いた顔を見たくなった。もしかすると軽蔑されるかもしれない。でもそれでも構わない。
「もうひとつ、不謹慎なお願いをしてもいいでしょうか」
彼女は僕の言葉を待つ。
「僕が、未来のカタチをつくるのを、手伝ってくれませんか?」
しばしの沈黙。そして彼女はハッとした表情になり、やがてその頬を伝う瑞々しい光の雫が、雲間から指す夕日に照らされてきらきらと光った。
「……わたしで、いいの?」
「文乃さんがいいんです。文乃さん以外、考えられません」
文乃さんが笑ってくれる。
「……よろこんで」




