文乃Ⅴ
髪を下した文乃さんの無防備な姿は、僕に魔法をかけた。心を攪拌し、裸にした。伝統的な比喩になぞらえ、髪を纏めた普段の凛とした彼女を百合だとするなら、目の前の彼女は芍薬だった。
抗うことなどできなかった。そして僕にとっては数年ぶりの激しく身を焦がすような営みの後、彼女の髪を撫でながら素朴な感想が口をついて出た。
「本当に染み出すものなんですね……白露……とでも言えばいいでしょうか」
今更ながら、僕は感慨のようなものに耽っていた。事実としては理解していても、直にそれを口にし、嚥下して初めて理解した。それが愛しい人から生じたものであることは、僕に不思議な感動を与えていた。その味わいが持つ、魂を攫うかの如き官能性には相変わらず危うさを覚えた。噴き上がるような情欲と相乗し、僕は夢中になった。それでも僕を繋ぎ止めていたものがあるとすれば、それは彼女への想いに外ならない。僕は女を求めているわけじゃない。彼女だけを求めている。敬愛する、文乃さんを。
「気持ち悪く、ないかしら?」
文乃さんは伏し目がちにそう僕に尋ねた。
「すごく、艶かしかったです。文乃さんの味がしました。甘く、上品で、情熱的で、蕩けるような……」
文乃さんは頬を染めながら、片方の手で僕の頬をつねった。
「夢中だったものね……そうね、母乳と違ってお神乳は大人のためのものだから……夢中になったとしてもそれは、そういう風にできているだけなのだけど……」
「すみません、文乃さんの反応が可愛くて、つい自制が利かなくなってしまって……痛くなかったですか?」
文乃さんは今度は両手で僕の頬をつねった。
「生意気……」
そして淡く微笑んだ。
「不思議ね。わたしも、あなたに求められる感覚は特別だった。抑えが利かなくなってたのは……わたしも同じ。好きなヒトに触れられるのって、こんなにも素敵だったんだなって」
文乃さんは僕に身を寄せると鎖骨にキスをした。そして、僕の胸に載った架空の砂を集めるように、指で何度かなぞった。僕は多分、そんな彼女の言葉や仕草につい油断してしまったのだと思う。気がかりだったことが零れた。
「文乃さんは今でも……妖の巫女、なんですよね」
彼女が僕を見上げたその表情は、ひどく心細かった。幼子を抱き上げていた手を不意に離したら、こんな表情をするだろうか。残酷な想像。
「知ってたの……?」
僕の胸に触れる彼女の指先が冷たい。
「自分なりに調べた上での結論なので、誰かから聞いたわけではないですが」
「……そう」
どこか遠くを見るような、どこにも焦点の合っていない、虚ろな瞳。
「じゃあ、全部知ってるのね。今でもわたしが、村のみんなにお神乳を奉仕して……時々抑えられなくなると、何人もの男の人に、慰めてもらってることも」
その声には、先ほどまであったはずの親密さはなかった。灰のような感情の骸があるばかりだ。僕がそうさせてしまった。
どこまで知っているのか?まずはそういう問いが来るものと思っていた僕は、前触れなく首に手をかけられたような心地がした。彼女にとっては、耐え難かったのかも知れない。そんな風に少しずつ慎重に確かめていった結果、そこにもう足場がなかったというような事態が。飛び降りるタイミングは、自分で決めたかったのかもしれない。
「……想像は、していました」
さっきまで集めていた砂を強く握りつぶすように、文乃さんの手がきつく握りしめられる。
「こんな気持ちになるなんて……思いもしなかった……」
彼女の呼吸が浅い。
「全部……自分で納得して……求めてやってきたことなのに……そう思ってたのに……こんな気持ちになるなんて分かってたら……わたし――」
いけない。彼女はひび割れ、僅かな力でいまにも粉々に砕け散ってしまいそうだった。そうなってしまったらもう、元には戻らない。
「文乃さん」
僕は震える彼女をできるだけ強く抱きしめた。壊れそうな彼女が繋ぎ止めるため、強く……それはなんだか、逆説的だ。
「文乃さん、大丈夫です、そんなところも全て含めて、僕はあなたが好きなんです」
ふっと、強張った文乃さんのカラダが弛緩した。
「こんな、月並みな言い方しかできなくて、ごめんなさい。でも、それしか今の僕には持ち合わせの言葉がないんです。あなたを、愛しています」
文乃さんは僕の肩に胸に顔を埋めながら、ときどきしゃくりあげるように震えた。そして胸を伝う涙の生温かさが、彼女が声も出せずに泣いていることを僕に伝えた。
「文乃さん、僕は貴女を尊敬しています。そのことは、たとえ貴女がどんな過去を抱えていようと、少しも変わりません。貴女のことを、これからゆっくり、話していってください」
そのままの姿勢でどれだけ時間が経っただろうか。やがて彼女の呼吸は規則的になり、泣き疲れるようにして眠っていることに気づいた。この村の歴史、そしてそれを背負ってきた文乃さんのことを受け止めるには、僕は頼りないかもしれない。それでも、僕の残りの人生を賭けるだけの価値は十分すぎるほどにあると、その時の僕はあまりにも無邪気に、ヒロイズムに酔っていた。
翌朝、目覚めると既にベッドに文乃さんはいなかった。抜け殻すらなかった。
ダイニングへと降りていくと、キッチンでコーヒーを淹れる文乃さんの姿が目に入ったが、僕はその背中のよそよそしさに、嫌な予感がした。
「文乃さん」
声をかけるが反応がない。確かに僕の声は通らない。でもいまは静かな朝で、そんなことは今まで一度もなかった。
「文乃さん、おはようございます」
「あら、おはよう、結人さん。お寝坊さんね」
さも何でもないという風に、文乃さんはこちらを見ずに返事をした。僕の知らない、彼女だった。文乃さんがハンドミルで豆を挽き始め、ゴリゴリという音がその時は妙に耳障りに感じた。僕は席につき、しばらく言葉をかけるタイミングを見計らっていたが、そんなものはいつまで経ってもやってこなかった。
「あの……」
せめて、怒っていて欲しかった。
「昨夜はすみません」
「なんのこと?」
どこか遠くで、赤い風船が子どもの手を離れ、空の彼方へと飛んでいった。子どもは「あ」と一声あげると、ただ茫然と、去っていく赤い憧憬を見上げている。
「踏み込み過ぎてしまいました」
「ごめんなさい、何を言ってるのか分からないわ」
カチンという、電気ポットの無機質な音に僕の体が強張る。
「昨夜はあなたもわたしも、すぐに寝たじゃない。随分と酔っていたようだけど、何か夢でも見たのかしら」
美しい、しかし少し吹き込む息の強さを誤れば割れてしまいそうな、ビードロのような声。彼女は昨夜の情事をなかったことにしようとしている。
僕が彼女のトラウマに触れてしまった、いや、新たにトラウマを生んでしまったから……?
「文乃さん、僕が勇み足であなたを傷つけてしまったのなら謝ります。でも――」
いつの間にか傍まで来ていた文乃さんは、コーヒーの入ったカップを僕の目の前に置くと、目を合わせないまま話し続けた。
「そうね、確かに何かはあった。だからこれでもう、あなたは若菜に近づけない」
言葉を失った。
「それを飲んだら、帰って。……ごめんなさい」
脳が鼓膜を拒絶した。遠くのセミの声だけが、妙にはっきりと頭に響いた。息が苦しい。僕はそのままコーヒーには口をつけず、水槽から飛び出す酸欠の金魚のように、小鳥遊邸を後にした。
それからのことは、よく覚えていない。こうなってしまっては、恐らく今回もダメだろうと思った。やがて時が来て、しかるべき結末を迎えた時に、すべてはリセットされる。それだけだ。でも、そうなったとして、もはや僕に何か出来るとは思えなかった。
唯々ぼんやりと過ごすうち夜になり、朝になり、僕はもうここにはいられないと、バス停へと向かった。その日は、豪雨だった。ちょうどいいと思った。晴れてるより、よっぽど気が楽だった。もう傘も差さずに濡れていこうかと思ったが、バス停までの道のりを考えるとさすがにそれも億劫になって、レインコートに身を包み、アパートを発った。鍵は部屋の前の植木鉢の下に入れた。確か鉢は文乃さんに分けてもらったものだ。気づけば色んなところに、彼女の匂いが染みついていた。鍵の場所は後で白木さんに連絡しておけばいいだろう。
濡れた山道を歩く湿った音が、空気も読まずに一昨夜の情事を思い出させた。僕は思わずしゃがみこんで、そんな場違いな記憶を引きずりだしてくる忌まわしい脳を揺さぶるように、何度も繰り返し頭を殴打した。目の前がぐらぐらと揺れ始めた頃、僕はその場で嘔吐したが、唾液と胃液の他は何も出てこなかった。それは今の空っぽの僕を象徴していた。
(くだらない、さっさと歩けよ)
僕は己をなじりながら、再びバス停へと歩を進めた。
しばらくしてバス停に着いたが、バスはまだ来ていなかった。僕はベンチに腰掛けて、勢いを緩めることなく降り続く雨をただ眺めた。しかしやがて、なけなしの理性が僕に当たり前の可能性を気づかせた。こんなに土砂降りでは、バスが走るわけもない、と。それでも僕は聞き分けのない子供のように、バスの待機所へと向かった。詰所の前まで行くと、タバコを吹かす運転手の田中さんがいた。
「おう、にいちゃん、どうしたい、ヒデェ顔色だぞ?」
「バス……」
その一言だけが、泡のように口から出た。
「バスぅ?見りゃあ分かんだろ、こんな土砂降りじゃ危なっかしくて無理だよ!運休!」
「……ですよね」
そんなことは子どもでも分かるはずだった。
「おい、本当に大丈夫か?ちょっと、中で休んでいくかい?」
「お気遣い、ありがとうございます。大丈夫です、帰ります」
帰る。どこへ?
「山道はスベっから、気ぃつけろよ!」
僕は軽く会釈をして、そのままいつものバス停へと戻った。
雨はザアザアと尚も激しさを増している。雨の中、再びベンチに腰を下ろすと、泥のような徒労感に襲われて僕は横になった。
(もう疲れた……繰り返すことも……なにもかも)
そもそも僕はなぜ惨めに生き続けているんだろうか。ここへだって、死に場所を求めに来たようなものだったのかもしれない。それに、そういえば決めていたんだった。今回ダメだったら、僕はもう舞台を降りようと。責任は果たしたい。果たさなければならないはずだ……でも、できるイメージが湧かなかった。何もわからない。今はもう、何も考えたくない。
(……わかってるさ……)
文乃さんは、これまでのことが全て、若菜を守るためのお芝居であるかのように振舞った。それが彼女の本心でないことくらい、さすがに僕にだって分かる。僕らは確かに一度、通じ合った。なのに、僕は彼女にあんなことを言わせてしまった。
(『ごめんなさい』)
彼女の最後の言葉が甦る。僕はあの瞬間、自分の感情で一杯になって、逃げ出してしまった。あの後、彼女は独りで泣いたかもしれない。それでもう、すべては台無しだ。取り返しがつかない。何も元には戻らない。彼女のすべてを受け止める覚悟でいたつもりが、この様だ。手を伸ばして、一度は確かに届いたのに。彼女が現役の妖の巫女だろうが、そんなことはどうでもいいじゃないか。彼女から話すのを待つべきだったんじゃないのか?僕は性急すぎた。たぶんそれは、僕が早く楽になりたかっただけだ。気になる事を詳らかにして、すっきりして、綺麗な状態で始めようとしていた。無意識に。それがどんなに彼女を傷つけるか、その程度の想像力もない。いつもそうだ。浮かれていたんだ。身勝手だ。塵だ。
(このままでいいのか……?)
そしてまた僕は己の感情に流されて、このまま逃げるのか?あの時、あんなことを言うべきじゃなかった。あの時、立ち去るべきじゃなかった。自分を押し止め、嘘をつかないでくれと言って彼女を抱きしめるべきだったかもしれない。そんな風に悔い、自分を呪いながら逃げ出すのか?何が最善かなんて分からないし、後悔し出したら際限がない。でも、今からでももう一度彼女に会いに行くべきなんじゃないのか?もしかしたら、まだ今なら間に合うかもしれない。謝罪し、改めて気持ちを伝え、何度でも手を伸ばすべきだ。自分が擦り切れて消えてしまうまで、何度でも。そんなのは自分に都合の良いだけの傲慢な考えかもしれない。でももういい。傲慢だっていい。嫌だ。文乃さんにもう会えないなんて。絶対に。
流したくもないしみったれた涙が溢れてきて、僕は目を抉り出したい衝動に駆られたが、そんなことをしても涙は止まらないことに思い至って、妙に冷静になった。ふと、気配がした。何かの動物だろうか。僕はなんとか体を起こして周囲を見回す。
「……」
そこには、豪雨の中の移動には心許ない傘一本で佇む文乃さんの姿があった。
「文乃さん!?……そんなところにいたら、風邪をひきます!」
彼女は口を動かして何かを呟いているが、雨の音があまりにも激しいせいで、何ひとつ聞き取ることができない。
「文乃さん!聞こえません!とにかく一度こっちに――」
「叱られたの!」
文乃さんに駆け寄ろうとした僕は、意味も分からず立ち止まった。
「若菜に……叱られたの!」
「若菜ちゃんに……?」
「お母さんは、卑怯だって……全部、見透かされてたわ。あの娘、どうしてこういう時ばかり、勘が良いのかしら……」
俯き加減で話す文乃さんは、乱れた髪が顔にかかり、その表情は見えなかった。
「最初は、あなたを若菜から遠ざけようとしたって嘘をついたわ。でも、すぐにバレた。わたしの気持ち、あの娘には、もう分かってたのよ」
文乃さんの傘を雨が無遠慮に叩く音が、耳に刺さる。
「あなたへの気持ちから逃げるために、自分を言い訳に使うなんて、最低だって。あの娘、泣いてた。本当に最低よ、娘を泣かせて、あなたのことも、傷つけて……こんなわたし……消えちゃえばいいのに……」
文乃さんが顔を上げる。ふと、あの日のイメージが重なる。初めて彼女に出会った庭先。
文乃さんは傘を投げ捨てて、僕の方に飛び込んでくる。僕は彼女がどこかに飛んでいかないように、しっかりと抱きとめた。
「帰りましょう、文乃さん」
何も考えずに飛び出して来たのだろう、雨の日には不向きなパンプスは泥々に汚れ、僕はそんな彼女を負ぶって小鳥遊邸まで歩いた。村に来てからの日々で、僕の体は以前に比べ健壮になっていた。それはきっと、今日のためだと思った。そして彼女の重みは僕に生の実感を与え、普段以上の力を与えてくれた。
家に着くと、文乃さんは電気も点けず、すぐさま濡れた服を脱ぎ捨てた。そうして下着だけの姿になると、今度は有無を言わさず僕の服も乱暴に脱がしにかかる。僕はそんな彼女を止めようかとも思った。でもむしろ傷つけてしまいそうで、為されるがままにした。僕も下着姿になったところで、文乃さんのひやりとした手の平が、同じく冷えた僕の胸にぺたりと張りついた。
「ごめんね、冷えちゃったわね。すぐにお風呂、湧かすから……」
そうして顔を上げた文乃さんの潤んだ瞳は、哀しい色と淫靡な色とで濁っていた。それでも、僕にはそれが美しいと思えた。互いの息が当たる距離。僕が彼女の名前を呼ぶと、彼女の眼差しがすべてを物語っていた。
「結人さん……わたし……」
僕はその言葉の続きを待たずに、彼女の唇を塞いだ。そのまま文乃さんを壁に押し付けると、僕たちは互いを啄み合った。文乃さんが唇を僕の鎖骨に押し当て、吐息に濡らしながら、震える指を天へと伸ばす。僕はその手をそっと包むように握ると、彼女を抱え、二階の寝室を目指す。彼女は小柄で華奢だったが、同時にしっとりとして、肉感的で、魅惑的だった。そんな風に感じるのは彼女の知性への冒涜のように感じることもあった。でも、僕はありのままの彼女を受け入れたい。対象化も、理想化もしない。僕は彼女を敬い、そして渇望している。そんな自分を同時に受け入れながら、もう間違わないために階段を上る。僕の腰は些か悲鳴を上げていたが、そんなことはどうでもよかった。少しでも不安を与えないように余裕を演じたが、恐らく彼女にはバレていたと思う。今更、彼女を相手に気にすべき体裁は、僕には無い。
雷鳴が轟く中、彼女の寝室には、ふたりの裸の感情だけが満ちていた。ドアの隙間から漏れ出すくらい、じっとりと溢れていた。僕たちはそれまでのすれ違いや空白を埋めるように、激しく求め合った。雷と雨の音が彼女を大胆にするのか、大きな声を上げ、互いの名前を何度も繰り返し叫んだ。彼女の想いの強さに、僕は潰されるのではないかと思った。彼女の動くリズムや、僕を噛み、締め付けるその強さから、そう感じた。でもそれは、彼女も同じだったかもしれない。僕の想いの強さに、潰れそうになっていたかもしれない。彼女が握りしめるシーツや、苦悶するかのような表情、涙や、徐々に濁りを帯びる声から、それを感じた。彼女の瞳は僕を求め続けていた。だから僕も、遠慮なんて一切しなかった。
どれだけの時間が経っただろうか。雨脚は弱まり、雨音はさらさらと、泣いた子供を慰めるように優しくなった。去り際を逸した大きな雨粒が、時折ポツポツと窓ガラスを叩く。
「あの時……」
僕が口を開くと、腕の中で文乃さんがもぞりと身動きした。
「初めて貴女を見たとき、雨の匂いがしました」
彼女の湿った温かな息が、僕の胸をくすぐる。
「何かの小説で、『雨降りを眺める子どものよう』という表現が、確かあったような気がするんですが……その時に感じたのは、雨に濡れた少女のような、そんな印象でした。あなたは軽やかに笑っていたのに、どうしてそんな風に感じたのか、ずっと不思議でした」
それは万象が眠りについたかのような沈黙だった。野兎も、鯨も、神も、すべてが。眠りというものは、醒めなければ死と変わらないかもしれない。彼女がゆっくりと、その艶やかな唇を開く。世界が目覚めようとしている。
「……それはたぶん、三十年前のわたしが、今もわたしの中に生きてるから、なのかもね」
「……」
「何があったか、訊かないの?」
「あなたが話したいと思ったときに、話してください。僕はいつまでも、待っています」
文乃さんの指が、一昨夜と同じように、僕の胸に載った架空の砂を集めるように、何度もなぞった。
「……あの日ね、わたし、人を殺したの」




