図書館Ⅸ ~レクイエム~
久々の、いや、生まれて初めての穏やかな時間だった。
喫茶スペースに置かれたコアカミゴケの様子を伺うのが少女のルーティーンとなった。
そして僕は、そんな彼女の姿を眺めるのが、ルーティーンになった。
彼女は時々、霧吹きで水をかけてやっていた。僕がそんな様子を眺めていると――
「なに」
と、どこか気恥ずかしそうに彼女は僕を睨んだ。
「なんでも」
それだけのやりとり。そんな些細な日常が、僕にとってはとても温かかった。
しばらく経った頃、気づくと彼女は僕のスペースの傍まで来て、立っていた。
「どうかしたの?」
記憶している限り、そんなことは初めてだった。オーディオシステムを使う時は、勝手に入ってきて、勝手に使っていた。つまり、彼女の方から僕に会いに来るのは初めてだということだ。
彼女は後ろ手に隠していたものを、さも宝物でも見せるかのように僕の方へと差し出した。
「あ」
ひとつ、いや、ふたつ?
小さな子器が生まれていた。
僕は彼女に駆け寄り、二人で挟むようにしてそれを眺めた。
「なんか、よく見ると、ちょっとグロテスクだね……ごめんね」
僕は彼女にそんな風に謝った。花というには、やはり強引だったかもしれないな、と。
でも、彼女は小さくかぶりを振って、こう言った。
「ううん。すごく、かわいい。今まで見てきたものの中で、一番」
その紅い子器を、愛おしそうに、宝石でも見るかのように見つめる彼女の姿に、僕はまた涙が出そうになった。いけない、最近の僕は涙脆くてダメだ。
雪と闇に閉ざされた世界の中にあって、そこに差した赤い色は、僕の心を震わせた。これはなんだろう。希望……その象徴のように見えた。
僕は、期待してしまった。彼女は、月に帰らないでいてくれるだろうか。ずっとここにいてくれないだろうか。そんな風に、身勝手に考えてしまった。
「もっともっと、増えるかなぁ?」
「そうだね、もっと、増えるといいね」
「また、泣いてるの?」
僕は、泣き虫だった。初めて、知った。
「ごめん」
彼女は、コアカミゴケと一緒に、ぴったりと僕に身を寄せてくれた。何も言わず。ただ、そうしていてくれた。
その後、僕はなんとなく三階のピアノの前に足を運んだ。ピアノが弾きたくなったのだ。
以前見つけたスコアを広げる。時々、紙に書いた鍵盤の上で運指だけは練習していた。音を出して練習するのは、彼女を起こしてしまいそうだったし、恥ずかしかった。
恐る恐る、指をのせる。そこまで難しい曲ではなかった。
練習に集中していると、いつしか少女が隣に立っていた。
「隣、いい?」
僕はひとつ、頷いた。
「どうぞ」
彼女が隣に座る。彼女の体温を感じた。
「そんなに引っつかれると、弾けないよ」
少女がいくらか、距離を離す。自分で言っておいてなんだが、寂しくなった。
でもそんな気持ちも乗せて、僕は音を奏でた。
"A Distant Promise"
抒情的で、簡素な曲。シンプル故に一音外せば大きく破綻する、そういう曲だ。
それは、僕たちの関係性のようだった。隣で彼女がそれを聴いている。涙を流したりはしなかった。ただ――
「もう一回、弾いて?」
そうリクエストをくれた。そしてその後も二度、三度と繰り返されるリクエストに応えた。
やがて彼女がうつらうつらとし始めた。寄りかかる彼女の重みを感じながら、彼女が眠るまで僕は曲を弾いた。
彼女が体勢を崩して椅子から転げ落ちそうになったのを支えると、僕は彼女を抱え、近くのソファーまで運んだ。毛布をかけ、僕は自分の居場所に戻った。
安らかだった。
でも、意識がほとんど闇の淵に落ちようとしていたその時、足音が近づいてくるような気がした。一歩、一歩、僕に覚悟を求めるかのように。
そうして、耳元で微かに声がした。
「取り分をもらっていくよ」
そうして、ブレーカーが落とされた。ハンドルごと、捩じ切るようにして。




