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結人Ⅻ

 僕はその日のうちに、SNSで文乃さんに連絡し、話したいことがある旨を伝えた。明後日の夕方なら、という文乃さんの返事を得た僕は、翌日街で彼女へのプレゼントを買うことにした。ワインを見ようとショッピングモールを歩くうち、ふと以前見かけたフラワーショップが目についた。

(……いまなら……)

 花を贈る、というと気障なイメージがある。しかし僕は女性に花を贈るのが好きだった。きっかけは確か、学生時代の送別会か何かだったろうか。花を準備することになって、先輩に送ったのがきっかけだったような気がする。注文したものを受け取りに行った際、実際にアレンジされた花束を間近で見た時、僕はその鮮烈な美しさに感動した。遠目や画面越しで見るものとは全く印象が違った。そして、それを受け取った先輩の嬉しそうな表情も印象的だった。花には力があった。店頭で花を眺めていると、若い男性の店員が声をかけてくれた。文乃さんはガーデニングが趣味だったから、記憶の限りで庭に咲いていなさそうな花と、僕自身が好きな花、文乃さんに似合いそうな花を考えながら、予算を伝え、花束を作ってもらうことにした。完成を待つ間にワインを物色し、食事に合いそうな白のナチュラルワインを選んだ。ラベルのデザインも可愛い。明日は彼女の仕事の後に合う予定になっていたから、軽めの方がいいだろう。準備は出来た。

 

 当日、約束の時間に文乃さんの家を訪れる。呼び鈴を鳴らしてから彼女が出てくるまで、珍しく時間がかかった。

「ごめんなさい、帰るのが遅くなっちゃってバタバタしてたの……どうぞ、入って」

「僕の方こそ、時間をつくって頂いて、ありがとうございます」

 中に入ると、いつもの落ち着いた香りが迎え入れてくれた。文乃さんから、ふわりと石鹼のような香りがした。急かしてしまったろうか。僕は申し訳ない気持ちになった。

「今日は、若菜さんは?」

「あの子、今日は燈子……ちーちゃんのお家にお泊りなの」

 奥に向かい背を向けたままそう答える文乃さんの表情は窺い知れなかったが、僕は少し緊張した。いや、かなり緊張した。

 ダイニングに入ると、文乃さんが冷蔵庫からせかせかと料理を運び出していた。

「有り合わせのものでごめんなさい、こんなはずじゃなかったんだけど」

「文乃さんと一緒なら、僕は何でも大丈夫です」

 文乃さんは虚を突かれたように僕の顔を見て顔を赤らめていた。いつもの余裕はどうしたというのだ。僕は場の空気を変えるために、まずプレゼントを渡すことにした。

「ささやかですが、日頃の僕からの感謝の気持ちです」

 僕は紙袋から用意した花束を取り出すと、文乃さんに捧げた。文乃さんの目が見開かれ、時が止まったように身動き一つしなくなった。僕は彼女が息をしているのか心配になった。そして、ゆっくりと吸い寄せられるように僕に近づくと、両手で花を受け取ってくれた。 

「わたし、個人的にお花をもらったのなんて、初めて」

 文乃さんは、俯き加減で目を細め、間近で花に顔を埋めるようにしていた。

「気障……だったでしょうか」

 彼女は小さくかぶりを振ると、零れるような笑みを浮かべた。 

「ううん……すごく嬉しい」

 僕はその笑顔に、胸の奥を締め付けられるような気がした。僕は、この人が好きだ。それが、改めて分かった。 

「ちょっと、待っててね」

 文乃さんはそう言うと、奥から花瓶を取り出してきた。花の包装を解き、キッチンで花瓶に合うようにハサミで長さを整えると、水を注ぎ早速テーブルの上に飾ってくれた。

「さすが、手慣れてますね」

「ガーデニングが趣味だからね……お花、好きだから」

 花を見つめる文乃さんの横顔も、花に負けず劣らず美しかった。そして僕は、そんな気障で下手な感想を持った自分に思わず頭を抱えそうになった。僕はもうダメだ。

「好きなお花ばかりで驚いたわ。デルフィニウムに、カサブランカ、トルコ桔梗……わたしの好みなんて話したことあったかしら?」

「いえ、デルフィニウムとカサブランカは文乃さんのイメージで選びました。あと、トルコ桔梗は僕が個人的に好きだったので」

 文乃さんの顔が紅潮する。そしてすぐに目を伏せた。

「結人さんは……トルコ桔梗の花言葉って……知ってるの?」

 まずい、そこまでは考えていなかった。トルコ桔梗はグラデーションがかった色味や、ふわりと可憐な花弁の形が純粋に好きなだけなのだ。何か下心を感じさせるような意味でなければいいのだが。

「いえ……すみません、そこまでは、不勉強で」

 すると文乃さんは、ほっとしたような、落胆したような表情を浮かべた。

「そう、それならそれでいいの」

 後で調べておくとして、流れを変えよう。

「それからこれも、舌の肥えた文乃さんのお口に合うかは分かりませんが」

 用意していたもう一つのプレゼント、白のナチュラルワインを差し出した。

「こんなにたくさん、なんだか悪いわ。可愛いラベル……」

「いいんです、本当はこんなくらいじゃ、全然足りない。文乃さんがこれまで僕にかけてくれた、言葉に比べれば」

 文乃さんは微笑みながら僕の方をみて、それから急にふっと不安げな表情を浮かべた。

「どうか、されましたか?」

「う、ううん、なんでもないの。ご飯にしましょう?ワイン、少し冷やすわね」

 何か落ち度があったろうか。でもそれなら、今の文乃さんならきっと言ってくれそうなものだが……ともかく僕はしばし様子を伺うことにした。

「うーん、よく考えると炭水化物がないわね。わたしは別にいいんだけど、結人さんはお腹がすくわよね……」 

 僕はふと、思いついたことがあった。

「文乃さん、冷蔵庫、見ても良いですか?」

「?……いいけど」

「失礼します」

 僕は文乃さんの家の冷蔵庫の中を物色した。

(バターはあるな、あとは……あった、パルメジャーノ・レジャーノのブロック。さすがは文乃さんだ)

「よかったら、僕が簡単にパスタでも作りましょうか?」

「そんな、お願いしていいの?」

 文乃さんの表情には、戸惑いの中にも期待の色があった。彼女が僕に期待をしてくれている。

「はい、文乃さんの優秀な調理器具たちを使いこなせるか、自信はないですが」

「それじゃあ、お言葉に甘えようかしら」

 僕は笑顔で返事をした。胴の長めの鍋にパスタ用の湯を沸かし始め、その間に他の準備をする。求めていたクレソンはなかったが、ルッコラがあったのでそれで代用することにした。食べやすいサイズに切り、バターも適量に切る。

(フライパンは……)

 そこには様々な素材とサイズのフライパンが並んでいた。僕は憧れのアルミパンを拝借することにした。アルミパンの上にバターを乗せ、沸騰し始めた鍋に塩を入れてかき混ぜると、リングイネを投入した。僕はキッチンタイマーを使う習慣がなかったから、部屋の壁かけ時計に目をやると、テーブルの上に肘をのせ、組んだ手に頭を乗せながらこちらを眺めている文乃さんと目が合った。機嫌が良さそうだ。さっきの表情はなんだったのだろう。

 ぐつぐつと煮える鍋のパスタをかき混ぜながら、アルミパンに火を入れる。バターを焦がさないように弱火でじっくりと待つ。そしてほんのりと色づき始め、()()()()()になったところで、間髪を入れずにパスタのゆで汁を投入する。僕が普段使っているような鉄のフライパンと違い、アルミパンは色が分かりやすくていい。そこにルッコラを投入し、仕上げに削っておいたチーズを混ぜ、お皿に盛りつけた後で、さらにスライスしたチーズを飾る。完成だ。

「これ、なぁに?」

「ブーロ・エ・パルミジャーノです」

「食べてみてもいい?」

「もちろん、どうぞ」

 子どものような表情を浮かべる文乃さんに、僕は思わず頬を緩めてしまった。

「いただきます」

 文乃さんは手を合わせると、パスタをフォークで器用に巻き取り、半透明の小麦の麺が艶やかな唇の中に吸い込まれていった。そして彼女は口に手を添えながら、こちらを見る。

「おいしい……初めて食べるわ」

「よかった、きっと食材がいいからですね」

 ブーロ・エ・パルミジャーノはシンプルが故に、ソースの火加減と素材の影響が大きい。

「お店とかでも、見ないわよね?」

「そうですね、火加減が繊細だからなんでしょうか……妻には、シンプル過ぎて人気がないからだろうって馬鹿にされましたけど」

 文乃さんは小さく微笑んだ。そこには些かの緊張感があった。

「でも、わたしこれ好きよ。今度作り方教えてくれる?」

「お安い御用です」

 ふと、頭の奥が軋んだ。どこかで、同じようなシチュエーションがあったような気がした。そして、その後、何か良くないことがあった気がする。

「大丈夫?顔色、悪いわよ?」

(結人、大丈夫だよ)

 どこからか、声が聞こえた気がした。静かで、落ち着いた声だ。僕はその記憶を追い払うように頭を振った。

「なんでもないです、ちょっと、眩暈がしただけです」

 僕はそう言って、炭酸水を呷った。喉から頭に抜ける刺激が、僕の気持ちを切り替えてくれた。

「そう?結人さん、すぐに無理するから……心配よ」

「そう、でしょうか?」

 僕は純粋に意外だった。

「そうよ、無理っていうか、我慢っていうか……もっと、色んなことに素直になっていいのにって、思うことがあるわ」

 僕は己を顧みる。

「確かに、感情は抑えがちなところがあるかもしれません。昔、恩師にもよく言われました」

「その先生は、結人さんのこと、よく見てくださったのね」

 そうだ、多くはないが、僕にもそういう人がいた。でも、文乃さんはどうだろう。燈子さんや、すみれさん、白木さんがそうなのだろうか。

 そこからは、僕らは色んな話をした。それこそ燈子さんやすみれさんの話、文乃さんの仕事先の権柄ずくな教授の話、文乃さんの口からは淀みなく言葉が溢れた。でも、それにはどこか焦りのようなものが見えた。やがて、僕がお手洗いに立ち、入れ替わりに文乃さんも席を外した。肝心の話が出来ていない、そう思っている時、いつの間にか背後に立っていた文乃さんの声に僕の心臓が跳ねる。アルコールのせいで、ぼんやりしていたのかもしれない。

「結人さん……」

 振り返ると、文乃さんは神妙な顔で僕の方を見ていた。

「もしかして、村を出ようって……考えてる?」

 文乃さんが椅子の背に添えた手を握り締めていた。

「いえ……今のところは、まだ……いつかは、考えなければいけないと思っていますけど」 

 途端に、文乃さんを覆っていた緊迫した空気が解ける。

「そ、そうなのね、わたし、てっきり……急にプレゼントなんてくれるから」

 なるほど。

「不安にさせてしまったなら、ごめんなさい。大丈夫です、僕はまだ、文乃さんに何もお返しできてませんから」

「そんなこと、ないわ」

 そう言うと、文乃さんはどこからともなく紙袋を取り出して、僕に差し出した。

「これね?以前言っていたシャツ……サイズが合うといいんだけど」

 今度は僕が驚く番だった。

「いいんですか?」

 文乃さんは、はにかむように笑いながら頷いた。

「開けても?」

「ぜひ、見てみて」 

 こういう時、アメリカなどでは包装を勢いよく破った方が興奮が伝わってコンテキストに合っている、という話を聞いたことがあるが、ここは日本だ。僕はゆっくりと封を開けると、中から淡いグレーの綿のポロシャツが姿を現した。

「良い、色ですね」

「気に入ってくれた?」

「とても」

「よかった……少し、着てみてくれない?サイズが合ってるか不安で。わたし、向こうの方を向いてるから」

「わかりました」

 文乃さんが背を向ける。僕も同様に彼女に背を向けると、来ていた古いポロシャツを脱ぐ。脱いだシャツに引きずられる形で、黒のインナーも脱げてしまった。裏返ったインナーを元に戻していると、ふと背中にひんやりとした何かが触れた。点だった感触はやがて面になり、さらりとした感触が加わる。

「背中……意外と広いのね」

 文乃さんがいつの間にか距離を詰めていた。彼女は気配を消すのが上手い。あるいは僕が間抜けなだけかもしれないが。今はそんなことはどうでもいい。

「村に来てからは、素振りが習慣になっているので……」

 つと、文乃さんの指が僕の肩甲骨のあたりを撫でる。いけない、このままではまた彼女のペースだ。

「文乃さん!」

「そのまま」

 僕は振り返ろうとして、しかし指令を出された犬も同然に止められた。柔らかな感触を背に感じる。これは……唇だろうか。それからゆっくりと彼女が距離をとるのが分かった。僕は振り返る。そこには、再びあの日見た花が咲き誇っていた。

「文乃さん……僕は今日、あなたに――」

 文乃さんの人差し指が僕の唇を制する。彼女の熱を帯びた瞳が僕を捉える。

「もう、充分……充分すぎるくらい、伝わってる。ずるいわよ……こんなの」

 彼女の手が、僕の背に回る。

「でも、わたし、欲張りだから……やっぱりあなたの、結人さんの言葉が欲しい」

 文乃さんの匂いが濃い。むせかえるほどだった。僕はもう、立ち止まらない。

「文乃さん……僕は、あなたが好きです」

「もっと」

 呼吸が浅くなる。

「あなたと過ごす日々が、僕にはもうかけがえのないものです」

「……もっと」

「あなたの優しい笑顔も、寂しそうな表情も、少し怒った顔も、知的なまなざしも、艶めかしい唇も、あなたのすべてが愛おしくてたまらない」

 文乃さんの美しい瞳が蕩けて虹色に輝いていた。

「もう何を犠牲にしても、あなたを求めずにはいられない」

 僕は文乃さんの肩に手を添える。

「僕の傍にいてください」

 そして僕らは、どちらからともなく、唇を重ねた。時計の音と、冷蔵庫のモーター音だけが、世界の静寂を僕らに伝えていた。どれだけ時間が経っただろう、やがて僕らは名残惜しむように唇を離した。

「文乃さん、ありがとう」

 文乃さんは僕の気持ちを受け入れてくれた、それだけで僕はもう充分満足なはずだった。

「結人さん、ダメよ」

 マッチが擦られる。

「また……我慢してる」

 ぼうと火がともる。「火気厳禁」と書かれた看板は、錆びつき傾いで、もう今にも倒れそうだ。

「そんなことは――」

「今日、若菜は燈子の家にお泊りなの……言ってなかったかしら?」

 そうだ、僕は羽虫だ。羽虫の姿をした獣であり、獣の皮をかぶった、それは他ならぬ僕自身だ。

「そうでしたね」

「あなたは……どうするの?」

 僕は再び文乃さんを抱き寄せると、先ほどよりも激しく彼女を求めた。彼女が僕を求めてくれるのであれば、僕はもう立ち止まらない。そんな僕たちを月だけが見ていた。

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