結人Ⅺ
志保に文乃さんとのことを相談した日からしばらくは、再び穏やかな日々が続いた。
文乃さんも僕も表面上は何事もなかったかのように振舞っていたが、そこには見えない糸のような緊張感があった。若菜は敏感にそれを察知しているのか、些か居心地が悪そうにしていて申し訳なかった。ポーカーフェイスの若菜も文乃さんのこととなると話が違うらしかった。
そうして七月になったある日の夕暮れ時、蝉の声と夜の虫の音がグラデーションを成す中、僕は鏡渕池のほとりの丘の上でこれからのことを考えていた。
(『そんなの……わたしだって同じだわ』)
あの夜の文乃さんの言葉と表情が頭から離れなかった。僕は無意識に手元にあった草を指先で弄んでいた。
(次は、僕から動くべきだ)
僕はこれまで、文乃さんからたくさんの言葉をもらった。それは今や、僕の心の奥の棚に鍵を閉めてしまってある。つまり、宝物だ。もしこの後、僕が文乃さんと別れる運命だったとしても、それは変わらないだろう。だからこそ、僕はもう受け身ではいられない。彼女が僕を求めてくれるのであれば、最後のトリガーは僕が引くべきだ。そうなれば、文乃さんは若菜に罪悪感を抱くことになるだろう。でも、だからせめて形だけでも、それは僕の導いた帰結にするべきだと思った。
その時、スマートフォンが非難がましく震えた。着信――誰から?ディスプレイを見ると、それは母からのものだった。今までこんなことがあったろうか?覚えていないだけかもしれないが、僕は急なことに動揺した。しかし、意を決して通話のボタンに触れた。
「……もしもし?」
「あ、もしもし?聞こえてる?」
随分久しぶりに聞く声だ。母の関西弁に、僕の中のスイッチが切り替わる。
「ああ、……うん」
「あんた、生きてんの?」
「まぁ、一応は」
生きているよ。
「せやったらええけど……ちゃんと食べてんの?」
「一応は」
野菜中心の至って健康的な食生活だ。朝摘みのトウモロコシは最高だ。
「一応ばっかりやん……今どこにおるん?」
質問攻めだったが無理もない。こちらからは全くと言っていいほど連絡していないのだから。
「なんて言うたらええかな……まぁ……限界集落やな」
「限界集落!?またえらいとこおんねんな」
母はいちいちリアクションが大きい。関西人というのは概してそういうものだ。
「まぁでも思ったより、声が元気そうでよかったわ」
僕は虚を突かれた。そうか……それはきっと、実際にそうなんだろう。
「そうかもしれへんな」
僕は素直にそう答えた。
「ちょっとは元気になってきたんやな」
僕は空を見上げる。茜色の空の下をトンボが飛んでる。雲が流れている。それは僕と世界を、過去と現在を繋いでいる。そんな気がした。
「そう、なんやと思うわ」
「そうかぁ」
てっきりまた今後について責め立てられるのではないかと身構えていたが、杞憂だったようだ。もちろん、そうなったとしても僕に言い訳はできない。
「元気にしてるんやったらええわ」
「そっちこそ、ちゃんと食べてるんか?」
母は父がこの世を去った後しばらくは、すぐにでも後を追いそうな勢いだった。それが徐々に落ち着いてきた矢先に、今度は僕の妻が世界を去った。
「えー?なんやろなぁ、じゃこと~、豆腐と~、ズッキーニと~……もう節約生活やで」
相変わらず、母は自分を大事にしない。僕が子どもの頃も、母は常に僕のことを最優先にした。食に関してはそれが顕著で、僕としては美味しいものをシェアしたかったのだが、母は自分はいいからと断るのだった。そういうのは、子どもの側としては寂しかったりもする。そしてそういう姿勢は外にも向く。知人に贈った菓子を、子どもにバレないように食べたと報告され、ひどく立腹していた。そんなの相手の勝手じゃないか。
「たまには肉とか食べや」
「まぁ、あんたが帰ってきた時にでもな」
帰る……。
「落ち着いたら、また連絡するわ」
「そうしてそうして」と母が言うので、「ほなな」と返して電話を切った。
ヒグラシの声が余韻を引く中、僕は自分の他愛の無さに嘆息した。どれだけ格好をつけてヒーローを気取っていても、傷心を言い訳に親に心配をかけている子どもに過ぎないのだ。母は昔に比べて少し変わったように思う。皮肉なことだが、父の死が母の成長を促したのかもしれない。僕も前に進まなければならない。気づくと辺りはほとんど真っ暗になろうとしていた。
「……」
僕はポケットに忍ばせていた小さな巾着からプラチナ製の指輪を取り出し、それを指で撫でた。二人でオーダーしたマリッジリング。紗季の方のはゴールド素材だった。彼女の死後、僕はそれを預かる勇気がなかった。だから今ここにあるのは、僕の分だけ。
「いいんだよな……もう……前に進んでも……」
妻との日々がフラッシュバックする。彼女の笑顔が好きだった。指輪の輪郭がぼやけ、世界が歪む。ふと、淡い光を放つ何かが、僕の手の平に誘われるように飛んできた。最初僕はそれが、涙が反射した星の光かなにかに見えた。それは、蛍だった。顔を上げると、いつの間にか池の水面から丘にかけて無数の光が舞っていた。その蛍は僕の指輪でしばらくのあいだ羽を休めた後、やがてまたどこかに飛んで行ってしまった。
蛍の行き先を目で追い、空を見上げると、そこには本当の星空があった。考えてみれば、僕はこの村に来てから、最初のうちはその星空の美しさに心を奪われながらも、いつしか下ばかりみるようになっていた気がする。上を見上げれば、こんなにも素晴らしく、美しい世界が広がっていたのにも関わらず。
「文乃さん……」
星の瞬きに重なるように、彼女の少し寂しそうな顔が浮かんだ。年齢不詳の美魔女を紹介したら、母はどんな反応をするだろうか。楽しみだ。
行かなくてはならない。僕の、僕らの、未来を結ぶために。




