村
カタン、カタンと、金属製のステップを一歩踏み出すごとに、重力を感じた。
そっと地に足を下ろすと、毛筆と真新しい画仙紙のイメージが降りてくる。
隷書と同じだ。余計な力を抜き、柔らかく載せるだけ。
見知らぬ大地が、僕のくたびれたスニーカーの靴底をジャリリとなじる。
悪くない、と思った。うまく運べば、粗い方が滲みは美しく広がる。上級者向けだ。
不愛想なブザー音とともにバスの扉が閉まる。木漏れ日が差す。
厳しいエンジン音を響かせながらバスは大きくUターンすると、待機所へと走り去って行った。つまりここが終着駅だ。
バスが去った途端、僕と世界を隔てる物が無くなる。無防備な僕に、日差しはじりじりと容赦なく照りつけ、蝉しぐれもひと際に激しく降り注いだ。ミンミンゼミの昔から変わらぬ鳴き声が耳に染みる。
熱されたバス停のベンチに腰を下ろし、小さく息を吐く。空調の効かないバスに乗ること二時間、既に蒸し暑さでじんわりと汗をかいていたが、やはり外に出るともう一段階、暑さのギアが上がる。
南東向きのバス停のベンチは、ちょうど陽の角度的に屋根の庇が意味を成していない。僕は眩しさに目を細めた。
まだ午前九時半だというのに、恐らく気温はもう二十五度を超えているだろう。この辺りの気候は比較的冷涼だから、これでも昨今としてはかなりマシな方だ。でも明日からはいよいよ八月になる。暑さは激しさを増すはずだ。
「……少し、日陰を探すか」
一人旅が長くなると、ついつい独り言が多くなる。そうでないと、話し方を忘れてしまいそうで不安なのだ。
そして本当にそうなる前に、僕はそろそろ今後の身の振り方を決めなければならないのかもしれなかった。
他人事のように聞こえるかもしれない。それこそが今の僕の問題でもある。
僕が今見ているのは一体誰の人生なのだろう。時折、そんな風に感じた。そこに不安はない。あるのはやるせなさだけだ。僕は僕の人生の傍観者然としている。
この場所なら、あるいは何かきっかけが掴めるかもしれない――そのような淡い予感とも期待ともつかないものに衝かれてここまできた。
なるべく非日常的な空間に最後にしばらく身を置いて、頭の中の澱を掻き出し、前なり後ろになり踏み出す力を僕は欲していた。後ろに退いた時、そこにまだ足場があるのかは分からないが。
バス停の傍には大きなケヤキの木が生ていた。その影を入り口として、ザッザッと刻むように音を立てて舗装されていない山道を下っていく。カエデやブナの若木が混じり始め、やや鬱蒼とした雰囲気に包まれる。
こうした木々の名前は、旅をするうち、いつの間にか憶えていた。地元民に教えられたり、うんざりするほど目にしたり。時には道端の岩に腰を下ろし、スマートフォンで調べたりもした。日常を形作る小さなものごとに、丁寧に接することができた。それは僕がずっと望んでいたことだった。でもいつの間にか、僕の知的好奇心は草木に水を与える為のものではなく、何かと争うために燃える黒い油のようになり果て、枯渇し、失われていった。新しい何かを知る歓びを分かち合う存在と共に。
いま僕が心静かにカエデやブナを眼差すことが出来るのは、それしかすることがないからだとも言えた。
「……」
日陰に入ると、いくらか暑さは紛れた。
程なくして道は二手に分かれ、ちょうどその分岐の位置に、古びた木造二階建ての雑貨屋のようなものが見えてきた。
軒先には風鈴が吊るされ、風に揺られて不規則に涼し気な音を奏でている。音の余韻が夏のあらゆる事物を静かに、鮮やかに彩る。ガラスの引き戸の前には褪せた朱色の暖簾が掛けられていて、味わいがあった。窓枠に並べられた雑多な商品群は色褪せ、それぞれが着実に時を刻んできたことが見て取れる。店の歴史を如実に語っている。僕は思わず頬を緩めた。
戸の前に立つと、そこがいよいよ非日常の入り口という感じがした。僕は一度目を閉じ、深く息を吸い込む。耳に木霊する風鈴の音に、なぜか平衡感覚を失いそうになる。そして吸った息を吐くと、意を決して戸に手をかけた。
「ごめんください」
カラカラと侘びし気な音を立てる引戸をくぐると、僕はほどほどの声で息を吹き込むように店内に呼び掛けてみた。あまり大きな声を出して、このどこか神秘的な空間を台無しにしたくはなかった。
駄菓子に煙草、レトロな什器や棚が雑然と並び、奥には小さなカウンターが見える。そこで客が店の主と茶でも飲んでいそうな、そんな雰囲気があった。
壁の上の方には村の昔の風景だろうか、セピア色の写真が飾られていた。これまでの旅でも、小さな村落ではこうした雑貨屋はよく見かけた。だがこの店はなんというか、理想的だった。
静謐な空間で何かの音がした。チャリチャリ、サリサリと。透き通る、色とりどりの煌めきが揺れている。ビーズのカーテンだった。どこからか流れ込む風に微かに揺れ、郷愁を誘う音を立てていた。
最近はあまり見かけなくなったが、確かにこういうものがあった。恐らく奥の従業員スペースとの仕切りに使われているのだろう。
僕はその小さな文化財の隙間からこっそり奥の様子を伺おうとしてカーテンに近づいた。
突如としてビーズが波のように騒めく。眩く光を反射するカーテンをかき分けて、何かが浮上しようとしている。シャラシャラと。
僕は思わず後ずさり、危うく背中から転びそうになった。
「とっ……とと」
それはぬっと現れたかと思うと、いかにも闊達そうな眼を見開き、こちらをじっと見ていた。白いブラウスに赤いサテンの紐タイ……制服だろうか。軽やかなボブカットが良く似合っている。寝そべった状態からむくりと身を起こしたのだろう。やや乱れた髪が、あどけなさと艶やかさの不思議なグラデーションを成し、十七八と思しき少女を可憐に演出していた。
「人だ……」
他に何に見えるというのだろう。彼女は人好きのする笑顔を浮かべると、髪をさっと整えてから、こちらに身を乗り出した。
「おにぃさん、旅の人?」
『おにぃさん』、分かってるじゃないか。僕はおにぃさんだ。『旅の人』というのもいい。ロマンを感じる。実際にはそんな良いものではないが……。
「まぁ、そうなるね」
「どこから来たの?」
少女は好奇心を隠さなかった。
「……どこだろう。この二年くらい、ずっとフラフラしてきたから……なんとも」
僕が自嘲的にそう口にすると、彼女は仰々しく腕を組み、顎に手を当てるような仕草をして小首を傾げて見せた。
「ふむ……ワケアリさんだ」
芝居がかった所作がチャーミングだ。少女がすたんと軽快な動きで立ち上がると、仄かに甘い香りが風に乗って流れてくる。
「もし良かったら、どこか宿を教えてくれないかな?」
「ざんねん!」
彼女は大袈裟に手を交差させて、バツを作ってみせる。
「この村にお宿はございません。民宿もずいぶん前にやってたおじいちゃんが亡くなって、それっきり」
少女は両手の人差し指をチャンバラでもするように打ち合わせていた。それから手を後ろに組みながら、どこか遠くを見るようにして言った。
「この村は、あんまりソトの人、歓迎してないんだよ」
その横顔は、大人びた雰囲気と少女特有の儚さがアンバランスに混ざり合い、妙に印象に残った。少女が振り向き、その瞳が僕を捉える。
「でも、よく見つけたね。この村、地図にもほとんど載ってないのに」
僕はその瞳の力強さに、思わず目を逸らしそうになった。今の僕には、些か眩し過ぎる。
「地域の小さな図書館で古い地図を見ていて、たまたまね。素敵な名前だと思ったんだ。『霞巫峰村』……神秘的な響きだよね」
少女は真剣な表情で、しばしじっと僕のことを見つめていたかと思うと、またぱっと先ほどの笑顔に戻った。
「そっか……でもじゃあ、もしかするとおにぃさんは、この村に呼ばれたのかもね」
風鈴が長く尾を引く運命的な音を立てた。僕はその言葉の詩的な雰囲気に、違和感を覚えた。ごく普通の十七八の少女が、そんな表現をするだろうか?
しかし、いつまでも『おにぃさん』というのは気恥しい。この村に滞在できるかはまだ分からないが、また会うこともあるかもしれない。
「結人。結ぶに、人と書く。月城結人だ」
少女は一瞬きょとんとしたが、すぐにまたニヤリと笑った。
「若菜。小鳥遊若菜だよ。またね、結人さん!」
若菜と名乗ったその少女は弾むように駆けて行こうとして、ふと冷凍ストッカーの前で立ち止まるとガサガサと音を立てながら物色を始め、爽やかな青いソーダバーを手に取った。
「トキさぁぁーん!アイスいただいてきまーす!」
二階に向かって若菜が大きな声で呼びかけた。
「はぁいー!」
ちゃんと店主がいたのだ。若菜はこちらにソーダバーをひらひらとアピールすると、すぐにバス停の方に駆けて行った。元気の良いことだ。
村に宿がないというのは残念だったが、彼女との出会いは僕を幸先の良い気持ちにさせてくれた。座敷童の類なのかもしれない。そしてなんだか、愚にもつかないボーイ・ミーツ・ガールの冒頭みたいだと思った。ボーイと言うには僕は些か歳を食っているのが玉に瑕だ。




