第97話 臨界突破アクセラレート
ドゥデは彼方に飛んで行った防護服と人間を追わなけらばならない。あのふたりは健全なものに見えたのだ。ヴァルターの不能になったそれではなく、防護服として健在であるものなのだ。ユウメ・エクテレウとイムグリーネ・ヴィルヘルム。飛んで行ったのはその二人に間違いない。そして、もし帝国の領土に入ってしまえばドゥデは追うことができない。三英五騎士が自らの領土に侵入することをあの機械仕掛けの女帝が許すとは思えないからだ。だから、追わなければならない。蒸気の壁を越えてしまう前に。
「いや、あの一手は彼らにとっての……義務、か? いや、いや……」
ドゥデは高鳴る魂を鎮めるかのように噴射していた蒸気の圧力を弱め、ゆっくりと降下を始める。誰かが盤上の駒を動かし、相手の思惑に勘づいてそのまま手を降ろすように、ドゥデは着地した。
「侮るなよドゥデ・ロッカー、焦るなよドゥデ・ロッカー。……それでいて、叛骨を忘れるなドゥデ・ロッカー……」
彼は神経質に辺りを見回した。猫を探すネズミのように、上位者に媚びる奴隷が機嫌を窺うように。だが、人が変わったように、その目は細められ、そして禿げた頭を撫でつける。彼は本来の役職を思い出したのだ。
彼は白シャツの第八ボタンを外し、そして第四ボタンまでを五秒かけて外した。空を飛んだ防護服は既に見えなくなっている。今頃、帝国の土地を破壊しているのだろう。だが、彼は見向きもせずにズボンのベルトに手をかけた。バックルを外し、ベルトループに擦り付けながら黒革のそれを引き抜いた。
「馬鹿馬鹿しい……この世の中は……」
彼は裁判官だった。法廷に立つものに、和解と法の言葉を授けるものだった。
ズボンに手を掛け、潔く脱ぎ捨てながら彼は誰にも告げぬ告解を続けた。
「法は不完全だ。それでいい。完全であってはならない。曖昧でなくてはならない。機械的に選別を下してはならない。曖昧でなくてはならない。人を裁くのが、人でなくてどうするというのか。死の刑を処するのが、この私で無くてどうするというのか。人情が無くてはならない。間違えなくてはならない。そこに人への優しさが無くて、どうするというのか」
彼は白シャツをはだけたまま、その下、汗の色に染まった肌着を躍らせたまま、下をすべて脱ぎ捨てた。
「だが、それに漬け込む人の愚かさよ。君たちのための優しさを、その罪を清算すべき人間への優しさを理解しないとは、なんと愚かしいことだろうか」
彼の大腿四頭筋は常人のそれではなかった。それだけでなく、彼の手にかけられて脱ぎ捨てられる白シャツとその肌着の下は、僧帽筋、三角筋、大胸筋、その全てにおいて媚びへつらうような人間が持つ筋肉量ではなかった。それぞれが独立した山脈のようであり、三枚揃を着ていた彼と比べれものにはならない。未だ飾られたその青いネクタイでさえただのおもちゃのように見える。
「法が全てでは無い。一部の感情を文字に変えただけなのだよ。それを分からぬ……愚鈍共めが……法さえ守れば何をしてもいいと勘違いをしている論理の遺伝子を持たぬ失敗作共め……人類に義務を課さなければならないのだ。この私が、死を処するものとして」
彼の部位に屹立していないものは無かった。
「義務を課さなければならない。家事から逃げ、職場で無駄に残業し、税金を食い荒らし、他人に残業を強要するかつての上司のように。人を減らせば業務が増える、蟻でも分かるそれが分からぬ、足し算引き算を領収書とともに捨ててしまった上官のように。有休をとろうと思えば、はっきりとものを言わず予定を見てため息をつく言語を司さどる脳みそを朝一番に排泄してしまったかつての指導者のように。学が無く、その自覚も無く、脳が縮小した傍から無能と嘲る国民に。国が金に首輪をつけなければ、直ぐにモノの価値に負けるという事実を認めぬ愚鈍めらに。私は義務を課す。これらを裁き、死の罪に処すために」
彼の筋肉は、私怨でできていた。
「最後の告解だ」
彼は一点に視線を向けた。神に祈るように両手を握り、矛先であろう小指側の平を視線と共に向ける。
「私はありとあらゆるものを死刑にした。目についたガキ、勝手に動くソファ、過去。インセインな現実を。この感情を狂気と思うか。いや、正しくそうなのだ。狂気を理解するには狂気とならなくてはならない。あの法廷で一番高い場所は、ある意味絞首台なのだ。その絞首台に留まり続けるために、私の足の五指を支えてもらうために。結果論を突きつけるこの世から過程を探し出すために。さて、私は死刑を続けるぞ――」
彼は手の中で溜め込んだ蒸気が、決壊寸前のダムのように蓋を開けようとしていることを自覚した。
「判決を下す! 感じたぞ視線をッ! 被告に反省の余地なし! 死刑だッ!」
一線の蒸気の束が走る。その線は細く、絹の糸のようだったが力強く真っ直ぐに飛んだ。街に降りた霧のように濃ゆく蔓延した蒸気の雲を貫きある一点に向かって飛び続けた。蒸気線に飛ばされた漂う霧が道を開け、彼が狙ったものの輪郭を露にする。
それは、防護服だった。背骨を折るように捻じ曲がった防護服。刑罰を受けたかのように無残に転がる頭には、何か光るものがあった。ヴァルターはそれを、カメラと呼んでいる。
未だに地中に潜り続けるヴァルターが何かアクションを起こす前に、その蒸気線は膨張した。周囲の蒸気を取り込み、何倍もの体積となって世界に放たれ、防護服に余らずモルタルの地面を深く抉る。かつて水だったものの温度は、既に鉄の融点を超えていた。
「長々と、喋ってくれてありがとう」
しかし、彼女は未だ死なない。それはくぐもった声だった。そして、ドゥデの足元から。少々の空気を内包したマスクが彼女の声を濁らせる。しかし、澄み切った決意はマスクでは捕えきれない。真っ直ぐと、焼け腐った腕がドゥデの足を掴んでいる。
「どれだけあんたが強かろうと、もうおしまい」
皇女が着ていた防護服とヴァルターが呼んだ精巧なマネキンを打ち上げたのはこの後の作戦のための時間稼ぎと、視線誘導のためだった。ドゥデは、知らない。この地上の深海である、汚染地域の恐ろしさを。ユウメが起こした爆発によって破壊されたプレデター達の無惨な姿を。
ユウメの手の平が握られる。彼の脛は鉛筆のように細くなり、圧縮された血液が大腿部を遡り、周辺筋肉ごと血管が破裂する。そして、痛みを自覚する前に一気にモルタルの地面へ引き摺り込まれた。
「なっッ!? これはッ! 痛みィ!」
山のような筋肉を持った大腿四頭筋は完全に地の下に埋まり、彼は開ききったというのにさらに開かれようとするコンパスの気持ち思い知る。
彼は両の手を地面につき、腹から震える唸りを出しながら脱出を試みるが、刺さった右足は一ミリたりとも引き抜けない。大地が、押しあっているのだ。大地を揺らす地下のプレートが如く。彼の右足を挟み込み、押しあっている。
ユウメは既に手を離していた。彼を掴む役割は、ハサミのように大地を挟んで動く空間が担っている。
そして、ドゥデの目にはユウメの空間の壁が見えている。その先に、物量を増したアリのような、バッタのような金属光沢のある生物達が豪雨のような羽音を響かせながらこちらを睨む様子も。
そして、空間の壁が消える。
溜まっていた怒りが溢れ、弱っこい肉を屠らんと、地面に捕まった獲物に走り始める。ドゥデは右足がバキバキと粉砕される痛みに耐えながらも、解決策をねっていた。
あの物量に蒸気で挑むか。耐えるか。
否。彼は、一瞬の躊躇も無く、右足を付け根から死罪とした。蒸気で焼き切れば、出血は無い。しかし、頭が爆発するような痛みの信号に襲われる。
ドゥデは慟哭しながら、蒸気を吹き上げた。肉体が飛び上がり、蟻では到底昇れない高度まで上昇する。しかし、ガキアリモドキは、自らの身体を橋にしてどこまでもドゥデを追いかける。
「この……! 人権も無い畜生共めが……」
彼は両手に貯めた蒸気を振るい、急激な膨張によって蟻たちを吹き飛ばすが、運悪く数匹の蟻が体に付着するのを許してしまう。手の平大の蟻が彼の体に食いつき、蝕んだ。
ユウメは、彼が原生生物と格闘している隙に、トドメの一撃を用意していた。
籠と爆弾である。
ユウメが用意した爆弾は、今までのただの空気を圧縮したものとは様相が違っていた。六つの圧縮爆弾で、ひとつの『種』を囲み、その圧縮爆弾の壁を、更に外壁空間が囲んでいる。その『種』はヴァルターから渡された、今では対して価値の無い物質。彼はそれをプルトニウムと呼んだ。
爆発を受止め、内部で乱反射させるための籠が、白色と共にドゥデを囲んだ。
タイミングなど見計らない。辞世の句など詠ませない。走馬灯など走らせない。
彼女には、時間が無い。
ヴァルター、空間で護られたイムグリーネ、ユウメが地下に隠れ、何重にも象牙色を発色した空間で自らを囲み、そして、爆弾を籠に閉じ込める。
「死ね」
ドゥデはそれを見ることも許されない。ただ、地下から浮いて出て、籠に侵入した瞬間に、それは点火された。
『種』を囲む圧縮爆弾が開放され、外壁空間によって圧力の反射は全て『種』の方へと向けられる。
そして、その爆縮と呼ばれる技術によって、プルトニウムは核分裂を加速させ、やがて、臨界量を超えた。
爆発である。
ユウメ達は、厳重に護られた空間の中で舌を噛み潰してしまうような振動に襲われた。外がどうなっているかは分からない。爆発の規模がどうなっているかも分からない。ただ、その威力は、ユウメの籠でも閉じ込めきれずに、さらに保護の空間まで破って振動を与えている。それだけの情報で、十分だった。
「これで死んでくれなかったらどうする?」
「変な奴だし、喋りかけられたくないからヴァルターが戦ってよ」
「気が進まんね」
ヴァルターは揺れる空間の中で、ポケットから二錠の薬を出した。小さなコップも出し、少しの水を入れると、それをユウメに渡す。
「痛み止めだ。腹に穴が空いた馬でも走り回れるやつ」
彼女は一瞬の躊躇のうち、それを受け取って飲み下した。
「……ありがとう」
ヴァルターは残った財源を確認しながら次にどうするかを考え、不安と共に息を吐いた。
振動が終わる。
 




