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第95話 踏み越えた

 深部を包む暗雲に光が刺した。夜の雲から月が顔を出すように、自然の光が暗闇を撫でている。


 追っ手は無かった。

 防護服の傷が三倍に増えたヴァルターは肋骨が二、三本折れたらしい。わたしも異常だらけの身体で、特に胸部が惨い。中身がどうなっているかは、考えてもしょうがない。


 リンクズモドキの群体は塚と表現するより草むらと表現する方がしっくりくる大きさに変わりつつある。虫はちらほらと見えるが、それでも中心地よりは大人しい絵面だ。


 光が多く占める空間に近づいている。緩やかになった斜面に沿って展開した保護空間の斜角も緩やかになる。進む度に、世界が優しくなっていく。


 歩き、歩き、歩き、遂に暗闇は輪郭を帯び、その輪郭を越えるとぱっと視界が開けた。蟻が作り上げた疎林が見え、曇った陰鬱な空模様が隣人としてでは無く、天気として、ずっと遠くにあることが何よりも安心させた。


 二日と三時間。深部踏破である。だが、祝福はしない。まだその時ではない。


〈さて、汚染地域(リヒトン・リージョン)脱出まで、休憩も計算して……二日もかからんだろ。耐えられるか?〉


「イムの目が覚めるまで、死なないから」


 死なない。死なない。死なない。それだけを考える時間は百秒の八割を占めている。考えなくても動く心臓が、考えなければ止まるぞと警告を出し続けていた。


〈あぁ、じゃあ眠り姫をうっかり起こさないようにしないとな〉


 索敵用の空間は背後に広く展開していた。ストーカーが深部の外まで追ってこないとは限らない。


 深部は奴が支配している。龍の子機の縄張りぎりぎりまで索敵したのにも関わらず引っ掛からなかったのは、奴が龍の縄張りを生息域にしていたからだろう。わたしと似たような魔術を使えるのだから、可能だ。そして、人間並みの知能とどこまでも伸びる手があれば安定した食料供給も出来るようになるだろう。これを文明と呼ぶのだろうか。


 だが、疑問が生まれた。深部で驚異的な生物はあのストーカーだけだった。虫も恐れるべきだが、それ以上に奴は致命的だ。加速する進化の中で、同じ知能を持つ生命は生まれなかったのだろうか。それとも、アリスとしてどこかにいたのだろうか。ヴァルターに聞いてみると、ひとつの答えが返ってきた。


〈……それは外の世界でも同じことだ。人間と獣人。知性の高い生物は争い合う運命にある。自分と違うものと争い合い、殺し合う。生物が死に、魔力因子が増加して進化は加速する。また形が違うものが増え、殺し合う。魔力因子が増えるほど闘争心は上昇し、戦争は激化、そして、負けた方は世界に置いて行かれる。生物はそうやって走り続けてきた。深部も変わらんさ。自分と形が違うものを排除して繁栄する。奴もそうしたんだろう〉


 ストーカーは人間と同じだと言う。いや、全ての生物は同じなのだろう。人間も、先頭を走り続け、遅れたものを排除する。いつか、世界に置いて行かれ、排除されるまで。人間とアァ レウェは、赤の女王とアリスなのだ。


 深部を脱出して十二時間。旅路は順調に最後の休憩に入ろうとしていた。この休憩の後に、二十四時間をかけて一気にキルゾーンを超える。


 最初とは違い、魔力の消費を気にせずに保護空間を展開して進行していたため、あの匂いを出す虫を潰して全身に塗る必要は無い。気持ち悪い思いをしなくて良かったというよりも、痛みを伴う関節を曲げる動きをしなくていいのが助かった。


 汚染地域(リヒトン・リージョン)に雨の予兆は無い。気象予報士がいたとしても、そいつはカチカチと顎を鳴らすだけで何も教えてくれない。ヴァルターが先に休憩を取るとしばらくして雨が降り始めた。わたしが後に休憩を取ることになっていたのは幸運だったかもしれない。雨が溜まらないように保護空間をひし形に変え、ぽつぽつと落ちる雫を空間で上書きして消滅させ、時間をつぶした。


〈雨か……面倒だな〉


 いつの間にか起きていたヴァルターが言う。それで、わたしは三時間が経過していたことに気づいた。

 雨は深部で降り注いだ豪雨ほどではないが、傘を欲するほどの強さではある。視界も悪くなる上に無駄に気を払う。嫌いだ。


〈お前が起きた時に止んでいればいいんだがな。さぁ、交代だ〉


「うん」


 わたしはゆっくりと腰を倒した。この数日で、凄く歳をとったみたいだ。年寄りは年寄りらしく、穏やかに眠ろう。


 夢の中では幾何学模様が回転していた。浮かぶ意味の無い文字の羅列が恐怖を覚えるほど大きくなり、痛みを感じるほど小さくなる。繰り返しなのかどうか思考する力も残っていない夢の中で、時計の針で出来た砂とさざなみがひとりの男を形作った。


〈起きろ! ユウメ! 起きろッ!〉


 今までの人生で一度も聞いたことが無い切羽詰まったヴァルターの声に、脳が急速に覚醒する。反射行動の様に体を起こし、状況が頭に入ってくる。


〈防護服を脱げ!〉


 言葉の意味を理解する前に、イムの上に黒いシートがあることに疑問を抱いた。それはヴァルターも身に着けている。雨が降っていた。まだ、止まない雨がひし形の空間を滑り、降り続いている。いや……ひし形の中にも、降っている。廃屋の雨漏りの様に。


〈お前の腕に雫が落ちたんだ! 早く、はやく防護服を脱げ!〉


 急速に冷却された頭に痛みという信号は全てはじき出された。わたしは跳ねるように立ち上がり、頭と胴の接合部を外す。ヴァルターはその間に胴を繋ぐチャックの様な接合部を外してくれた。わたしは脱いだ後も空間を展開して出来るだけ外気との暴露を避けた。


「おかしい! 空間が消えたわけじゃないのに……!」


 脱ぎ捨てた防護服から声が聞こえる。


〈浸透したんだ! 責任者が危惧していたように空間は光の粒子を通す、それほど小さく進化した微生物がスポンジに水が浸透するように空間を通った! このままだと三人とも死ぬぞ、空間の密度を高めろ!〉


 空間すら浸透する雫が防護服に落ちたという意味を完全に理解する前に、行動を起こす。ひし形の空間に魔力をつぎ込み空間に空間を重ね合わせ、密度を高めると、だんだんと白みを帯び、防護服の明かりが象牙色の壁を照らす暗闇となった。


〈大丈夫だ……熱に耐性があるのなら、逆に冷却が効くかもしれない。左腕を凍らせる〉


 その声には遠く、ノイズに交じり、ヴァルターにも隠し切れない迷いがあった。わたしは覚悟を決める。


「それが難しい話なのは、わたしも分かるよ……生物は環境にかち合った個体が生き残り、それが適応と言われる……そして、微生物にはそのチャンスが多い。ヴァルターが教えてくれたこと。これは、どうしようもない。あいつらはそれでも適応して体に登る。それに心臓に近い位置まで凍結したら今のわたしには耐えられない。左腕を落とす」


 宣言と共に左腕全体を肩から空間で上書きする。


 ぐぅ……うぅ……あぁぁぁ……


 薄っすらと思い出していた全身の激痛を塗り潰す、度が違う痛みが左肩からわたしを構成する全てに広がった。頭が赤い明滅に塗りつぶされ、自分が何をしているのか、どこにいるのかもわからなくなる。


 気付けば、黒いシートを脱いだヴァルターが袖を捲ったわたしの右腕の血管に注射器を打っていた。


〈鎮痛剤だ……安心しろ〉


 注射を打ち終わり、彼が右腕を支えていた手を放すと、水に濡れた紙のようにべらべらと皮膚が剥がれた。全身の細胞が破壊され、皮が弱り、血が滲み出している。


 痛み止めは直ぐに効き始め、左腕があった場所からの痛み以外は落ち着きを見せてきた。だが、出血が続いたために低下した体温が、わたしの身体を震わせた。


〈よし……呼吸は出来るな?〉


「どう、にか……」


〈空間の側面にガラスを埋め込みたい。この空間は消費が激しいだろう。雨が止んだら元に戻してすぐに進もう。このままじゃまずい〉


 『まずい』というのは十中八九わたしの命の事だろう。だが、わたしはここに止まることが危険に感じられた。あと少しというところで、ここまで悲惨な足止めが起こるのは偶然には感じられなかったのだ。


「ストーカーが、何か仕組んでるんじゃ……なんで、こんなことが……」


 ヴァルターがガラスをひし形空間の角に押し付け、わたしがそれを取り込む。濡れて歪んだ外が見えた。


〈俺たちの知らない事実があるかもしれないが、これは説明できることだ。雨に含まれた微生物は上昇気流と雲の流れに乗って汚染地域(リヒトン・リージョン)内の全てにアクセスできる。深部で降った豪雨で大量繁殖した微生物が変異し、それが更に繁殖した。そして、風に乗ってここに来た〉


「はは……全くの偶然ってわけ」


〈それが最も納得できる理由だ。進化は偶然で起き、生息域に一致したものが生き残って繁殖する〉


 偶然。偶然。偶然。不条理。


 運命。


 この偶然が、わたしを苦しめてきた。常に。常に。わたしの周囲で不可視に浮かぶこの偶然という粒子が、またわたしを苦しめようとしたのか。

 ならば、納得するわけにはいかない。これを消し飛ばして幸福を手に入れることがわたしの意志だ。


 全身の痛みが消滅し熱に満ちた。左腕の代わりに展開した空間が、本物の左腕のように動き、神経を感じる。全身が自由に動く空間になったようだった。わたしは立ち上がり、イムにかかった黒いシートを外す。濡れていないこと、雫がない事を確認し、抱きかかえた。


〈どうした〉


「進もう」


〈……なに?〉


「空間の上部を大きく、密度も高めて、下方の密度を下げて視界を確保する」


 ヴァルターは困惑していた。


〈お前……左腕を無くしたばかりだぞ……なぜ動ける〉


「『その場に居続けるには進み続けなければならない』進化の法則でしょ?」


 彼はどこか呆れたように立ち上がった。


〈その根拠のない妙な人外感……お前の親父にそっくりだぜ……〉


 わたしの足は止まらない。誰にも止めることなどできない。雫をわたしの頭に落とさなかったのは失敗だった。あれが、最後のチャンスだっただろうに。

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