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第94話 アリスだ!

〈確かに、道理に合わない。数十年前から奇跡的に残っていた? 不自然だ〉


 あの濁流の雨も、それ以上の災害も、この深部では何度も起こったはずだ。加えて、クジラモドキやアァ レウェ程大きい生物の死骸や痕跡は全く見られない。数十年もあれば何十、何百種も産まれているはずだが、死骸と痕跡は灰色の骨塚とすり鉢状の大地のどこにも見当たらない。微生物の分解の力が強いのだろうが、ではなぜ、そんな世界で人の防護服だけが綺麗に残っているのか。


〈作戦時に死んだという情報が間違っている? いや、そうじゃないな。だとしたら技構で大事になっているはずだ。やはりあれは昔からあった。問題は、どうやって雨風を凌いだのかだ〉


「気になることが増えた。雨風を凌げる場所にあったのなら、なぜ中身が無いの? 中身の、死体はどこにいったの?」


 投擲された防護服の顔部を見た時、バイザーが無かったことは確認できた。中身までは、あの一瞬では黒い何かが詰まっていることしか分からなかった。だが、近くでみたヴァルターなら分かるかも知れない。


〈いや、中身が無いとは限らない。俺が見えたのはバイザーが外れた下にある底の無い黒だ。それ以外は俺たちと同じ防護服……いや、そこまで状態がよく保存されているのに、バイザーだけ壊れているというのは、ひっかかるな〉


「そういえば、その防護服の人がどうやって死んだかはわかるの」


〈いや、死んだかどうかは分かっていなかった。行方不明になったんだ。二人の英雄が脱ぎ捨てた防護服を回収しようとして、いつの間にか消えていたらしい〉


 アァ レウェの捕獲に王国の二人の英雄が関わっているのは焚書庫で知っていた。だが、病死、と公表されていた二人の死因に汚染が関わっているのは知らなかった。隠蔽された事実を知ってしまったわけだが、今はどうでもいい。


「じゃあ、やっぱりそうじゃない? バイザーは壊された。中身を知るために。アァ レウェの種族が外骨格の一番弱い所から調べたってことでしょ」


〈それが正しいなら。あいつらはこのイカれた世界のどこかで解剖学の講義を開いていることになる。人間に次ぐ文明は初めてだな〉


「防護服を保管してることにも説明がつく。どこかにあいつらの巣があるんだ。だから、あいつは去ったんじゃない。去ったように見せかけただけ。まだ、いる」


 奴らは手玉に取っていただけだ。虫を消しかけ追い払ったと思い込み、いい気になっている矮小な人間を滑稽に見ていたのか。それとも、まだ怯えているのか。遊んでいるだけか……


 分からないが、企みと不透明な存在がそこにいる。もう、不確かでも確信していた。一か八かで龍の子機をけしかけてもいいが、一体だけとは限らない。文明相手に命を賭けても分が悪いだろう。


「最後まで付き合ってやる」


 奴らはわたし達を、生物学者が見る猿のように見ているだろう。数十年に一度も現れない被検体をただで見過ごすとは思えない。必ず仕掛けてくる。


 だが、だからこそ、そこがチャンスだ。


 クジラモドキの回遊予定時刻まで残り三十分。


 わたし達は休憩を兼ねて、クジラモドキが残した回遊痕の数十メートル手前で待機していた。


 クジラモドキの回遊を見届け、帝都への経路を修正後、残り約十二キロメートルを走破し、深部を脱出する。


 会話は無く、奇妙な緊張があった。あと三時間もせずに、最も死の可能性が高いとされていた深部との命運に決着がつく。身体を動かさずとも、汚染に侵されようとも、その事実に脳はアドレナリンの海へと沈み、高揚感の中で確かに息づいていた。


 地面が振動を始める。


 空間と防護服を貫通する地鳴りが聞こえ、それは際限なく大きくなる。固定された空間の外で、世界が震えていた。豪雨の影響を全く見せないほど成長した、人間を超える大きさのリンクズモドキの塚が崩れ、住処にしていた虫たちが翅を広げ、統一感無く逃げ出した。


 地鳴りが突然、野太い悲鳴のように連続性を持ち、そして、クジラモドキが現われた。横たわった尖塔が回転しながら、目も合わせずに通過する。六角形に近い体に、数えきれない腕が生えている。その腕の先にある口が、掴んだものを全て餌としながら回転に身を任せ、消えていく。


 そこまで時間のズレは無い。わたしは視界の端に映るパラメータのひとつを確認した。偶然にも、ズレを修正する形に深部を歩いたようだ。これなら、このまま真っ直ぐ進んでも問題は無いだろう。


 十メートル、二十メートル……クジラモドキの長い体は終わらない。


 四十メートル、五十メートル……


 空間の前方が真っ赤に染まった。前方のみ視界が完全に潰され、クジラモドキが見えなくなる。直ぐに空間で上書きし、血液を消滅させる。視界を確保した先には、変わり果てたクジラモドキの姿があった。


 息を呑む音が聞こえる。


 クジラモドキの身体には回転をものともせずに喰らい付く大量の虫に覆われていた。外骨格が削られ、肉が露出した体は、最もひどい所で半分以上削られた場所も見えた。虫に食われ穴だらけになったクジラモドキの身体が、体液を撒き散らせながらも進み続けているのだ。


 地鳴りは絶えず響く。世界の全ては臓物を散らす螺旋だった。虫に食われずに残った触手の口部が、自らの肉を掴み喰いながら灰色の歯を見せて笑っていた。凄まじい速度で通過するクジラモドキは、視界の全てへの形容を過去にする。


 回転の遠心力に耐えきれなかった虫が翅を広げて飛び、再び喰らい付く。視界確保のため、空間の上書きで飛び散った体液を片付けたのはこれで七回目だった。クジラモドキの外殻は完全に剥され、灯りによって赫赫と輝く体内が露出している。虫というアリスに追い超され、その場にとどまれなかった赤の女王の血液が時代遅れの赤のカーペットを敷いていた。


 わたしは索敵用の空間が消えたことに気づく。


「後ろ! 速い。地上を走ってこっちに向かってきてる」


 地鳴りにかき消されないようにささくれだった喉を引き裂いて叫んだ声は無事に届いたようで、ヴァルターは灯りを背後に向けた。まだそのナニカは見えない。


〈ストーカーが仕掛けたな。圧縮空間を使え〉


 クジラモドキを背負っている以上、退路は無い。


「そらに撃つ?」


〈いや、あいつはやろうと思えば俺たちをいつでも殺せる。確実に息の根を止めれる時まで狙うな〉


「了解」


 花弁の先を地面に這わせ、ひとつの蕾を中心に飾る。


 ――特異点


爛漫(カメリア)


 起爆の音は地鳴りにかき消された。クジラモドキが通過したように灰色の大地が抉れ、リンクズモドキが弾けるように飛んでいく。しかし、暗闇は晴れない。そして、当たったかどうかも分からない。空間を展開しても妨害されなかったことから、吹き飛ばされたのは分かるが。


〈クジラモドキが走り終わるまでまだかかりそうだな。龍の子機に反応されない範囲で索敵できるか〉


「分かった」


 上空、地上、理解できる世界の全てに数百の空間を展開した。子機の縄張りには触れていない、ほんとうにギリギリまで狙った。が、全て問題なく展開できた。何も引っ掛からない。


「何も、いない」


〈厄介だな……〉


 まだ終わらない。同じく中心地から這い上がってきたナニカが空間を消滅させる。規則正しく並んだ埃のように展開した空間消え、暗闇の中で相対的にその姿を浮かばせた。複数体確認できる。そして、奴らは、人の形に似ていた。


「また来た。もう一回撃つ」


〈……了解〉


 少しの思案を見せた返事の後に、二度目の暴威は振るわれた。目視だけでは何も変わらない。一度目も二度目も死ぬほど強い風が吹いただけだ。だが、二度目の索敵では違う結果が返ってくる。


「吹き飛んでない。まだ生きてる。適応したんだ」


 消滅した空間によって相対的に浮かび上がったその生物は、錨を降ろすように地面に腕を突き刺している。そして再び、接近が始まる。


〈あと何発撃てる〉


 背後のクジラモドキはまだ走り続けている。


「予算を考えたら十。ここで死んでもいいなら十二」


〈空間で俺たちを運べないか〉


「予算を考えたら五十メートルくらい。ここで死んでもいいなら五十とちょっと」


〈分かった。圧縮空間を二発使うぞ。一発で俺たちを上に飛ばし、二発目でクジラモドキを飛び越える〉


 わたしは耳を疑った。


「それなら動かした方が安全じゃない? 空間の固定を止めて圧縮空間の威力で飛んでも衝撃は中に伝わるよ」


 わたし達は人を殺す速度で移動する面に叩きつけられることになる。ズグロの時に使ったのは、健全なわたしなら耐えられると確信したらだ。わたしは今健全ではないし、圧力に曝されるのはわたしだけじゃない。それも、二回も。耐えられるかは賭けだ。


〈たった五十メートル空間を動かしただけじゃクジラモドキを飛び越えて終わりだ。そしてほぼ魔力が尽きた状態じゃ汚染地域(リヒトン・リージョン)を抜けるのは厳しい。大盤振る舞いするにはまだ早いってことだよ〉


「クソ……じゃあわたしは角度がずれないように計算しながら、クジラモドキにぶつからないようにしないといけないうえに、龍の子機にも見つからないように調整しないといけないわけ?」


〈あぁ、まかせたぞ特務の期待の星。俺からは柔らかいクッションをプレゼントしてやる〉


 ヴァルターはポケットからとんでもなく大きいクッションを取り出した。クッションと言うより、ベッドだ。


 わたしは空間の柱と梁を作った。柱の中を爆発の威力で飛び上がり、天井に到着したら二度目の爆発によって梁へと直角に方向転換し、そのまま吹き飛ぶ。問題が無ければその勢いで深部から脱出できてもおかしくない。


 わたし達を保護していた空間をひし形から四角形に戻し、床下に圧縮爆弾を一つ設置する。クッションを上昇方向、そして帝国方向と対面する面に寄らせ、直角に曲がった形で設置する。そこに三人で寝そべれば、覚悟完了だ。


 中心部からこちらに向かってくるナニカの姿はクッションに隠れて見えないが、どうせろくでもない姿なので見なくて構わない。


「じゃあ、行くよ!」


 三……二……一……カウントダウンがゼロを数えると同時に圧縮空間が爆発する。解放した空間は柱と保護空間に密閉されているため、正確に上方向へ暴威を向ける。一瞬で上昇する床面がクッションを挟んでわたし達の身体を殴打した。肺が潰れ、空気が漏れる。体の中でぐちゃりと妙な音が聞こえた。どこか壊れたみたいだ。全身が等しく痛いのでどこが壊れたか分からない。


 突然重力が百倍になったかのような衝撃が連続性を持って襲ってくる。これは汚染による倦怠、虚脱感や痛みとは比べ物にならないほどキツイ。意識が床面に張り付けられて、クッションに吸い込まれていきそうだ。こんな時に、イムが起きるかもしれないと淡い期待を抱く能天気な意志は嫌になるが、その意志がわたしを現世に強く結びつけた。


 保護空間が天井に衝突すると共に、わたし達の身体は上に向かう力を持て余し、天井に叩きつけられて殺されるだろう。慣性の法則というやつだ。人間の知覚できるほどの瞬間ではないだろうから、浮力を予感すると同時に深部中心方向へ配置した圧縮空間を解放させる。


 二度目の衝撃は一度の我慢で終わらなかった。三人並んで寝転んでいたため、ヴァルターがクッションにぶつかり、わたしがヴァルターにぶつかり、イムがわたしにぶつかり、三人に圧力と言う一本の杭が刺し通され磔にされて身動きが取れなくなる。


 ヴァルターの抑えきれなかったであろう苦痛の声が無線を通じて聞こえ、わたしの方は遂に意識が途切れた。圧力が身体全体を押し続け、その力に負けた脳みそがぶつぶつと千切れているのか、意識が連続性を保てていなかった。


 これに耐えれば一気に進むことが出来る。もっと安全に動く方法があったんじゃないかと思案を巡らせ、後悔と共に、しかし狙い通り、順調に飛んでいた。このまま、威力が風の抵抗に分散されだんだんと落下を始める。その予定だった。


 起こるはずの無い、三度目の衝撃が起こった。ほぼ直角に、落下する方向への暴力である。不明のものに衝突したのでは無い。だとしたら保護空間は消滅しないはずだ。そう。防御魔術を持つナニカに蠅のように叩き落された。


 わたしは、近傍全ての空間が消滅し、訳も分からず落下する中ただイムを抱き締めた。空の上で状況を考える間も無く、着地、クッションはあっという間にリンクズモドキの山を踏み潰す。


 第四の衝撃である。安定した床面から生み出される衝撃とはまた別種の暴力がわたしを殺す。真っ赤に染まった視界は、眼球が破裂したのかと思わせた。そんな状態でもイムに覆いかぶさることが出来たのは、脳の動きと言うよりは、脊髄が起こした反射だった。


 明滅と共に視界が安定してくると、ごぼっ……ごぼっ……という、聞いたことが無い音と共に視界がまた赤に染まる。思い出したように開始された呼吸と共に窒息するほどの血液を吐き出したのだ。まさか、肺かどこかが破裂したのか。もう、これ以上どうしろっていうんだ。


〈やばい……ぞ、クソ。俺の身体は……世界一の名医を求めている〉


 それはわたしもだ。


「はっ……ご……」


 喋ろうとしても息の代わりに血液が出るばかりだ。わたしは喉の一部を空間で上書きし穴を開けて血を逃がした。長く続いた出血によって、うっすらと体が冷える。


「何が起こったか……分からない」


〈空間はどうなった……〉


「全部、全部消えた……!」


 音に惹かれた虫たちがクッションを食い破って集まり始める。突いた手から登り、わたしの死角へと這い回る。イムの頭に登る虫を空間で上書きして消滅させる。だが、今度は徒党を組んで集まり始める。埒が明かない。しかし、もう一度保護空間を張りなおそうとすると、それは防御魔術によって搔き消された。


〈遂に……正体見せやがったな……クソ野郎が〉


 防御魔術を使う何かが近くにいる。わたしはイムに覆いかぶさっているから、イムしか見えない。仰向けのヴァルターには、一体何が見えているのだろう。


 わたしの身体はナニカに包まれ、ゆっくりと浮き上がった。夜を写した窓みたいに大きく、透明性のある漆黒の指がわたしとイムの胴を挟んでいる。徐々に徐々に浮き上がり、リンクズモドキとクッション、虫を身に纏ったヴァルターが小さくなっていく。


 ナニカは人間の手首に当たる部分を回したのか、わたしの顔を自分を視認させるように向けた。


 ヴァルターが照明を、疑似太陽を打ち上げ、その全貌があらわになった。


 宙だ。学園で見た宙に酷似している。頭が腹になった逆さまの蜘蛛が大地にいくつもの指を突き、星霜を思わせる、深淵を秘めた蜘蛛の眼がいくつもわたしを見つめている。上位者と呼ばれるにふさわしい、あまりにも巨大だった。


 圧縮するために展開した空間が、瞳に見つめられただけで搔き消される。魔力因子を結晶化させる力を応用して密度を高めているんだろう。身動きの取れない状態で、打てる手は無かった。


 死角と視界の間をゴキブリがかさかさと走り、化け物はわたしを見つめている。これ以上不快な世界なんて存在しないだろう。


〈狂った悪夢を終わらせてやる〉


 狂った交換論理ヴァーチャル・インサニティ。彼の呟く声と共に、化け物は噴水みたいに飛び散った。飛散の様子は圧縮空間の爆発に似ているが、それよりも鋭利な力だ。細い線の爆発が化け物の脳天を貫いたのだ。


 化け物は崩れ落ちるようにわたしを放し、だが、死んでいなかった。脅威である虫にまみれた矮小な存在を、ヴァルターを殺すために結晶体を動かしただけだ。視線は下に向いている。油断があった。この化け物は、人間と言う油断ならない存在を理解していない。


 空間を圧縮する。


「転がり落ちて死ね。特異点――四重爛漫(クワトロカメリア)


 四つの圧縮空間と花弁が並び、蕾が開く。巨体故にその威力は万全に発揮され、巨人に突き落とされたように転げ落ちていく。

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