第89話 死
カラスは死んだ。
高く飛びすぎた、何者かのように、熱に溶けて死んだ。
飛ぶことを諦めたカラスは、もう、二度と羽ばたくことは無い。
「よし……」
わたしは息を吐いた。冷たい青空が熱に浮かされたように白い煙に変わる。恩人であるカッツィの血が眼球すら染め上げ、惰性で廻り続ける致死の渦とともにわたしの視界に映るものすべてに臓物のコントラストを与えた。
だが、わたしの内面だけは、染め上げることは出来ない。恨みも、怒りも無い。あるのは、敬意と申し訳なさだ。ズグロも本気だった。本気で生きていた。わたしとあいつで違ったものは、空の昇り方だけだろう。だから、わたしは敬意を抱く。
そして謝ろう。自分勝手に敬意を抱いたことへ、みんなに。そして、お墓で眠ることが出来なくなったカッツィに。
「ごめん」
死んだ者へ語り掛ける言葉はなんとも虚しく、寂しい。そして、生きる者として、わたしは顔を上げた。
「さっさと消えてくれないとウザいんだけど」
抱いた敬意が段々と霧散していく。半分を消し飛ばした黒い渦は惰性で廻り続けているかと思ったが、速度は変わっていないようだ。込められた魔力故か、それとも……
黒い渦に廻されていた黒い線虫が段々と数を増やしていたことに気づき、わたしはやっと思惑を察する。
「アァ レウェか」
その声を合図に、三本の黒い指が渦から躍り出てわたしに縋る。恐らく、死んだズグロの身体を利用しているだろうから、致死の毒塗れだろう。だが、カッツィの身体に毒は通用しない。わたしの靴裏に仕込んだ空間も消すことができない。何をするのかと思えば、その指でわたしを殴ろうとしたのだ。
巨大な質量を振り回すことは、もうわたしにとってなんら脅威ではない。クジラモドキ程の圧倒的なものではない。ネームレスの一閃などとは比べ物にならず、ズグロの拳よりも怖くない。ズグロが腕の一本で耐えた一撃で黒指の二本が吹き飛び、踏み込みだけで一本が消えた。募ったのは不信だ。アァ レウェはここまで人間の実力を信用していないのかと。
これは気を引くためだろう。何かを企んでいると確信した。わたしは外に出ようと渦に向かって光を伴う拳を振るうが、いくら消し飛ばしても黒い渦は継続して回り続ける。前へ直進しても、わたしを中心として廻り続けるのだから、鬱陶しいことこの上ない。それに、カッツィの血がいつか流れ落ちて、隙間ができるかもしれない。だけど、不思議と、あんなに激しい動きをしたのに、カッツィの血は落ちないし、熱で蒸発もしない。
痺れを切らしたわたしは、あえて靴裏の空間を消した。落下して引き剥がそうとするつもりだ。衝撃の吸収は痛いけれど、我慢する。
それでも、それでも、絶対に黒い渦は離れず、そして、隙間すら見せない。わたしは段々と上下と左右が分からなくなっていった。
「分かった。じゃあ我慢比べだ」
わたしはさらに重力が導く方向へ進んだ。人間のあるべき場所は、地球が導き、そして、空にあるはずの無いものは、龍が排除する。
雷鳴が轟いた。わたしの足元が一気に晴れ、渦の真ん中を貫こうとした子機がわたしの目の前を通過する。
わたしも貫かれる対象であり、貫かれたら死ぬが、子機から見るとここはただの黒い球だ。一気に晴らすよう中心を狙う。だから、わたしは少しでも音がすれば適当な方向に空間を動かして逃げ、通過の衝撃は空間で受ければいい。
「お前はどうやってわたしを見ている? 目があるはずだ。無ければ、イムの目を欲する理由が無い」
言いながら、二体の子機が想定よりも近場を掠める。アァ レウェがずる賢くも中心をずらして子機の通過位置にランダム性を加えているのだろう。それに、なかなかしぶとい異物に業を煮やしたのか、子機の方も清掃員を増やしたみたいだ。
そして、渦に段々と穴が増えていくうちに、一体のクリュサオルがズグロの目の形を真似ていることに気づいた。そこに空間を大量に配置すれば、溶け始めると同時に子機が勢いよく通過する。
そして、この中でも空間である程度子機を操れることに気づいたわたしは、ズグロがカラスを扱ったように、気に入らない瞳に突撃させ、アァレウェの視界を奪う。見当違いの場所に渦が出来上がると、そこを一纏めに破壊して終わらせる。
残った異物を破壊しようと、子機はわたしを狙い続けるが、空間の魔力因子の方に釣られてどこかへ飛んでいく。猫がネズミを追うみたいで、なかなか楽しいものだけど、このまま子機の数が増え続けるのだから遊んでいる場合では無い。
わたしは、もう一度上に上がり、どこにも黒い魔力が発生していないか確認した。ついでに、顔を出した山岳から帝都がどの方角か確認する。
すると、頭上に影ができる。
「諦めの悪い……」
巨大な魔力の集合体がわたしを押し潰そうと迫っている。そして下をふと見ると、ズグロ・ピトフーイのデッドコピーが大量に生成されていた。
わたしは動かない。
意志のないズグロの更に下から連なる轟音が迫り、デッドコピーを滅茶苦茶に喰い荒らす。数十の龍の子機をわたしの空間動線を検知し、わたしを追い越して頭上の質量を破壊する。
「わたしは、お前みたいな裏でコソコソと手を引くやつが嫌い」
アァレウェは黒い魔力の動線をわたしへと引き伸ばし、大事な魔力を食い散らかす魚達から逃げようとした。だが、わたしが奴の黒い動線を光を伴う拳で消滅させ、空間で誘導すれば子機は意のままに動く。
どこかに浮いているであろうアァレウェの目も、子機が勝手に食い荒らしたのだろう、その動線すらも一回のトライで諦めた。
「来いよ。アァ レウェ」
手をこまねいている。それが言葉を交わすまでも、目を合わすまでもなく分かった。
こちらを確認しようと生成した瞳が子機によって抹消される。もうここは静かな青空ではなく、見えない雷鳴が上下左右に振り続ける雷雲と化したのだ。
「聞いてるか分からないけど――お前がわたし達を脅かすというなら、それでいい。
わたしは然るべき手を打って、お前を殺す。
空から致死毒を落とすなら、子機を操ってお前の目を殺す。
新しい刺客を送るのなら、そいつを殺す。
何をどうしようとも、その仕草を殺す。
そして、わたしが死んだ後も、いつか必ずお前のところに行ってお前を殺す」
下るための階段を展開した。もうここでやることは無い。
子機がわたしを標的にしないよう、上手く手繰りながら滑ってコケないように降りる。というのも、なんだか、頭の中が朦朧としているのだ。自分が左足と右足を交互に出すことだけが脳のフル回転でやっと可能なことなのかと自虐的になるほど、頭が回らない。
じっくりと見つめていた足元の空間に血がポタリと落ちた。カッツィの血では無い。わたしのものだ。唇に伝う液体の流れがわたしをくすぐる。
鼻血だ。それも、もう既に、赤い絵の具をつけた絵筆がぽたぽたと赤い点線を書くように、わたしの背後に繋がっていた。じっと見ていたのに、気が付かなかったのか。
「怪我もしていないのに、鼻血なんて……」
わたしが歩いた空間を子機が消し飛ばした。操舵が甘くなっている。これは、なんなんだろう。何が起こっているんだ?
「アァ レウェ……? 違うな……汚染か……」
こんな風の吹く空で毒を撒いたり、なんらかの濃度を上げたり下げたりしてもすぐに吹き飛ぶだろう。それに、鼻血は止まるものだ。特に、わたしの身体は小さい傷なんてすぐに治る。
管理者は小さい粒がいっぱい飛んでいるようなものだと言っていた。わたしの体でも、それは耐えられないみたいだ。傷が治らなくなるなんて、一体どういう仕組みなんだろう。何が破壊されたというんだろう。ヴァルターに教えてもらわないといけない。
黒い雲が近づいてくる。いや、わたしが近づいているんだ。ここで転び落ちて死ぬなんて間抜けなことをしないように、空間で作った手摺を握っている。まるで、おばあちゃんみたいだ。
「そうだ。わたし、死ぬんだ」
まるで。その言葉が取れることはもう無い。悲しい。
でも、だからこそ、イムがおばあちゃんになれるように。
わたしの焦点は、もうブレない。
 




