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第86話 七転八倒の児戯

 汚染の空は、重油のような真っ黒の雲が重なり合い、真夜中の海のように底の見えない様相を生している。十メートルはくだらない雲の波がいくつもいくつも、山がひっくり返るような大時化の中で踊っていた。汚染の龍はその海を遊泳している。その姿に肉と呼べる部位は無く、おおよそ生命と呼べる要素は無かった。ただ、船を築く竜骨がそのまま泳ぎ出しているかのようだった。


 身を落とされた魚の開き。その根幹たる背骨が蠢く。その骨には鱗があり、その一枚一枚、銅褐色にも錆にも見える色が回転を始める。蠢きとは、つまり数億枚のそれが同時に動き始めることだった。


 目的は、堕ちてきた黒翼を嚙み砕くこと。そして、それは易々と実行される。龍に比べれば、それは海に落ちた一本のえんぴつのようなものであり、黒翼はその鱗の回転に巻き込まれる程もなく風圧によって分解された。その恐るべき猛毒もろとも。


 細長い月が荒れ狂う黒海を作り出している。

 翼の再生を最優先に終わらせ、どうにかその空中石臼を避けたズグロは相対的に空に上がっていく龍を見上げ、堕ちながら思った。あまりにも大きすぎる鱗の一枚一枚が強大な乱気流を生み出し、自らの羽根をちぎり飛ばしている。山の頂点よりも高い高度でその風は更に酸素を奪い、それには飽き足らず温度も奪い去っていく。ズグロの身体には霜が降りつつあった。


 そして、龍は更に命を奪いにかかる。汚染地域(リヒトンリージョン)の支配者はあの龍なのだ。縄張りを荒らす害獣は、絶対に生かして自由にしない。


 再生を終わらせた胴体が雷鳴のような音と共に再び消し飛んだ。首から上だけになったズグロが、風に乗る風船のように廻りながら確認できたのは、一目では何なのか理解できない速度で飛翔する一本の棒だった。両耳から垂れる血液がリボンのように空でたなびく。


 ズグロはこれがなんなのか理解できない。今まで襲われることが無かったからだ。襲われる前と後の違いは、胴体がついているかいないか、あの龍より上にいるか下にいるか、その二つのみ。


 ズグロは空を見た。龍より高くあり、そして、こちらを見下す女を見る。どこまでも高くある女を。


「勝ったつもりか?」


 彼我の距離は、どこまでもどこまでも離れている。天と地。宙と地。青空に浮かぶ彼女の瞳は、ただ黒く、宙のように暗く、ただ真っ直ぐに、真摯に見つめている。


「来い」


 届くはずのない彼女の声が聞こえ。そして、龍の子機に彼の頭は消し飛ばされた。


 ユウメは黒雲の霞に消えた標的を見定めた。遊泳する龍は彼女を無視し、ただ静かに泳ぎ続けている。だが、その巨大な姿の一片も視界に入れていないと言うように、瞬きもせずに死んだ場所を見つめ続けた。


 彼女は視線を外し、握った拳を見る。自分が出した現象を噛みしめるためでも、忌々しきカラスを殺したその手ごたえに浸るためでもなかった。拳を開くと、遺骨のようになったフクロウの羽根がぱらぱらと散骨される。


 その骨の流れを見る彼女の背後で、一枚の漆黒の羽根が舞いあがる。その羽根は彼女に届こうとする意志の表れか、まず爪になり、指になり、皺になり、肉と骨が組みあがる。脳など、意志など、必要ない。そう静かな空に刻み込んでいった。


「――早く再生しろ」


 ユウメは、その言外の語りを無視し、羽根を見送ったままそう言った。


「俺を殺すことは出来ない。お前が俺に殺されるだけだ」


 ユウメは、まだ見なかった。その視線の先にあったのは、あの炎に包まれる学園だ。ヴァルターの話によれば、魔力因子は生物が死ぬことで増えていく。ズグロが学園の上で魔術師を殺したのは、アァ レウェがこれから訪れる何かのために魔力因子を貯めたかったからだろう。そう、どこか上の空で考えていた。


 ズグロはその茫然自失とした背中に手を伸ばす。猛毒の手を。だというのに、彼女の背中は、何もかもを恐れていないのだ。まるで、もう毒など存在していないかのように。


 そして、あっさりと、その毒手が肩を叩いた。


「――なに……?」


 溶けない。ユウメの身体が、溶けないのだ。


「俺の毒が、機能していない!?」


 彼は気づいた。自らの身体が魔術を組み上げられていないことに。


 ユウメはその手を掴み、ゆっくりと振り返る。ズグロの手首は細いパイプのごとく圧縮され、骨と肉が液体となって零れ落ちる。彼女が握った場所に新たな関節が生まれ、曲げられた骨がついて行けずに飛び出した。


「わたしを加速させた圧縮爆弾の中身は魔術封じの合金だ」


 ズグロは空気が煌めいていることに気づいた。それが、彼女の顔部を避けていることにも。


「粉々になった魔術封じの合金はお前の肉体に混ざり、そしてさらにお前は吸い込んだ。遠隔でアァ レウェが肉体を構築できたとしても、その身体で新たに魔術を組み上げることは出来ない」


 ユウメの片方の手には、新たなフクロウの羽根が握られていた。もう片方の手は、鎖よりも、条件魔術よりも、星の重力よりも強い力でズグロを捕らえている。


「う、うおォォォォおお!」


 迫りくる、不可解な力を持った何か。もはや、ただの拳ではない。光と熱を産み、接触する前に人体を消滅させる拳など、拳と呼んではならない。そして、その名状しがたき何かから、逃げることも――出来ない。


 ズグロの視界が光によって蒸発した。


 ユウメは蒸発したズグロのいた場所に肉片がない事を確認し、握っていた人体だったものを空間内で圧縮爆弾を爆発させ、ズグロが生まれる種を完全に消し去る。


 そして、再び粉となったフクロウの羽根を見送った。


「あと二発で、諦めさせる……」


 ユウメは自らの勝利と言える状況を模索した。それは、ズグロがいなくなることだ。だが、完全にいなくなることは無い。自らの記憶に住むズグロ・ピトフーイを殺せないように。アァ レウェの記憶に居続ける限り彼は蘇り続けるだろう。


 だから、殺すのは肉体ではない。意志だ。


 殴って、消して、殺して、もうやめてくださいと懇願するまで、殺す。

 再生して、生き返って、挑んで、アァ レウェがもう魔力がありませんと泣きわめくまで殺す。


 そのために、より魔力を使わせるために、彼のつま先の垢にいたるまで刻みつぶし殴り殺すのだ。


「グリズリ、ウィズダム。今の二発。あの世で自慢してあげるよ」


 そして、再生が始まる。青い空に黒い渦が巻き始め、それは漆黒の翼を象っていく。ユウメから見て、それは遠い場所だった。舞う合金の粉を嫌ったのだろう。それは自身も同じだった。吸い込まないように空間で顔を護っていたのだから、息苦しく、白昼堂々と敵討ちと行くには些か格好が悪かった。


「次からは、本気だね」


 遠く、小さい、漆黒の渦は青い海に突然深海までつながる穴が表れたかのようだ。そこから現れる、圧力に耐えるために進化した魚たちは地上を軽々走り回る者たちにはとうてい理解出来ない姿だろう。醜く、歪で、光すら受け入れられない闇の世界で――しかし、彼らは生き抜いている。


 進化を享受し、冥冥に生き抜く生物なのだ。


「俺と、お前。流れている時間は一緒だぜ」


「そうだね」


「この地球で、一秒を刻む秒針から逃れられる生物は存在しない」


「……」


「お前がぬるま湯を泳ぐ間、俺が同じぬるま湯にいたと思うか?」


「そうか……そうだね。お前は、元から人では無いのだから」


 黄泉帰った彼の胴には、対の漆黒の翼と、一本の腕があった。左腕と右腕、そして右腕の下の三本目の腕。その腕に握られていたのは、人二人分の身長はある、槍だ。


「ネームレス。奴が槍を使っていたら、あの魔神にも一矢報いたかもしれねぇな。だが、あいつは死んだ。この槍は奴のものでも、技術は俺が黄泉帰らせた。あいつの意志はねぇよ。俺が勝たなきゃ意味がねぇからさ」


 ユウメは、その槍を見て――嗤った。


「面白くなってきたか?」


「うん。そうだよ。それに、安心した。お前に、ズグロに信念があるようでさ」


「何?」


「『自分の力で勝ちたい』それは、立派な信念だ」


「てめぇ……」


 ズグロは構えた。第一の右腕と第二の右腕で柄を握り、切っ先を貫く先へ、左腕はそれを指示する位置へ。


 人の槍ではない。


「俺に意志なんてねぇ! ないものを殺すことなんてできねぇよ!」


 ユウメはどこか安心していた。確実な勝ち目が見つかった、というのもあるが。何より、自らが剣や槍を扱わないことに。人の技では、あれを崩すことは出来ないだろう。と、同時に、彼女の脳内にあの背中が思い浮かばされた。父の理論と、あのネームレスを討った絶技である。


 一瞬の夢想が、勝負を分ける。


 ズグロの槍が迫っていた。


 ユウメは空間でその刃を止めようとはしなかった。その刃に毒があれば空間を溶かされる。しかし、それ以上に……これは、達人の真似事や、児戯などでは到底ない。『穿かれるかもしれない』ズグロの槍は、ネームレスよりも劣っていたとしてもユウメにそう思わせるには十分だった。


「――脳が少し切れるだけで人は死ぬぜ。例え、お前でも」


 その言葉は、ズグロがいた場所から聞こえてきた。脳が世界に追いついたのだ。


 切っ先が額を撫でつつある。


 首を後ろに傾ける程度では逃れられまい。なぜなら、切っ先が伸びているのだ。きっと錯覚だ。彼が僅かに握りを緩め滑らせたのだろう。だが、その技術はあまりにも繊細で、人を殺すには、努力しすぎている。


「いつかの、お返し」


 二人の下方から、全速で現れたのは龍の子機。空間をズグロの足元まで並べれば、子機は魔力を求めて空を登りあがる。ユウメが空間で釣ったのだ。ズグロが鳥を操るように。


 ズグロの胴体が再び消し飛んだ。雷鳴が、ユウメの空間によって保護された鼓膜を揺らし、半ばで絶たれた剣先が彼女の額に突き刺ささろうとする。


 彼女はその割れたコップと言える程の小さな剣先を神経質に用心し、軽く圧縮した空間爆弾で吹き飛ばした。そして、言葉を吐き捨てたのだ。


「お前は意志を持っていないと言う。わたしはそれでも構わない。お前がわたしを殺すには、どうにかしてわたしに触るしかない。紙切れみたいに空を転げまわって、虫みたいに何度も何度も消し飛ばされて、それで親に遊ばれるガキみたいに七転八倒してちょっとだけ触って勝ちだと堂々と言えるなら、それで構わない」


 ズグロの残った肉片が、怒りに震えるように乱気流に揺れ、ユウメの空間によって消し飛ばされる。


 そして、三度目の再生が始まるのだ。

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