第82話 進化の狂騒
暗闇が大口を開けている。道は無く、ただ、下へ下へと誘う下り坂が広がるのみ。その先にあるのは奈落か、それとも、無間の深淵か。どちらにしろ、もう、下るしか無くなった。
「流石に、不味いね」
下り坂を進めば深部中心には辿り着く、更に、そのまま進み続ければ深部脱出は(頭の中の計画上では)可能である。しかし、問題はそこからだ。
〈……ここまで頭が回らんのも初めてかもしれん。どうしたもんかね〉
「深部って綺麗な逆円錐なんだよね?このまま進み続けたら脱出は出来るだろうけど、ここで王国から帝国への直線が少しでもズレたら……」
中心部での僅かな角度のズレは距離が長くなるほど外縁部では悲惨なズレになる。帝都への到着が遅れる。
〈一日や二日のズレじゃ収まらんこともあるだろう。それに、脱出も簡単な話じゃない。何か指標を見つけなければ、ズレがこれだけじゃ収まらないことだってある。深部をぐるぐる廻るのは勘弁だぞ〉
「でも、こんな真っ暗で……」
指標なんて無い。日がなければ、全てが無いも同然であるとわたしは理解した。
わたしは考える。この世に同じ状況が無かったものかと、例えば、砂漠の砂嵐や、雪原の吹雪。先人達はそれらにどう立ち向かったのか。
「方位もダメなんだよね?」
〈残念ながら龍の飛行は磁力が支えていてな……方位磁針は信用出来ん。そして、日も星も見えなければ方角は確かめようが無い〉
砂嵐も吹雪も、それはいつかは晴れるもので、深淵の暗闇が晴れることは無い。光は暗闇を晴らすものではなく、暗闇に晴らされるものなのかもしれない。普遍的な世界は暗闇であり、光渡った世界は一種の異常なのだろうか。
人間の悪意と善意にも同じことが言える、生物の根本にある競争精神は、社会秩序による繁栄の有利をとるため善意に犯され、悪意は照らされ消える。真に普遍的に存在しているのは光と善意じゃない。闇と悪意だ。だからこの世界は暗闇なんだ。そう気付かされる。
じわりとした悪寒が響いた。小さな子供が親とはぐれた世界が途轍も無く、広く、怖く、暗く見え、無力に打ちひしがれるように。ただ真っ直ぐ歩くことの出来なくなった人間だと自覚させられた。
〈いや、待てよ……あの化け物は、もしや、あの回転で自重を支えているのか?〉
そんなことを考えている場合なのかと疑問を抱いた。
〈そうだ、身体中金属で出来てるってのに、潰れないはずがない。遠心力で力を分散しているんだな。なら、あいつは止まることが出来ない……頂点捕食者になれない理由がそこにあるんだ……〉
わたしは我慢出来なかった。
「何言ってるの?」
〈あれほどの化け物が深部から出られない理由が指標になり得るかもしれない。とっくに名付けられてるはずの特異生物だってのに、今まで全く発見されなかったのは……なぁ、ユウメ、空間が破壊されたのは魔力で?〉
「いや、防御魔術じゃない。物理的に。でも、あいつは魔力を持ってるかもしれないよ」
〈どっちみち、あれほどの自重を支えるのに魔力を使っているなら、お前の空間は魔力で消えたはずだ。消えなかったってことは、魔術は持っていない。そして、この逆円錐の地形も、あいつの支えに関わってる〉
「……どういうこと?」
〈体を傾けて、転げ落ちる方向の力を回転の助けに使っているんだろう。そして、前に進み続ければ遠心力が加わって深部の中心地に転げ落ちることもない〉
「同じところを回遊してるってこと?」
〈そうだ。そして、速度はだいたい一定のはずだ。じゃなきゃバランスを崩す。鯨が泳ぎながら雑魚を大量に食うみたいにあいつは急成長するリンクズモドキを走りながらバクバク食う、だから、止まることは無い。繁殖とかは度外視して生態を希望的観測すれば、あいつは、時計みたいなもんだ〉
「時計、同じ速度で、同じ場所を回る。止まることは無い。つまり、わたしたちがあのクジラモドキに接触した時間と、今の時間、深部の面積、目測した速度を照らし合わせれば……指標が出来る!」
〈そういうことだ!〉
ヴァルターは天才だ! わたしは久しぶりに喜びの感情を思い出した。
「でも、面積とか分かるの? 計算はわたしムリだよ」
〈高性能な演算機があるさ。なぁ、聞いてたんだろ、責任者さんよ〉
少しの間があって、返答がきた。
〈――僕を機械呼ばわりとは、呆れたものです……接触した時間とその生物の速度を教えてください――〉
知恵と知識とはこうあるべきだろう。暗闇を照らす光だ。
イムの顔を見る。彼女が意識を取り戻したのはあの一瞬だけのようで、その奇跡に幻覚を疑ったが首に残る感覚は幻覚などでは無かった。でも、一時の感覚は幻覚と変わりなく、微動だにしないイムを見てわたしは分からなくなっていく。
〈起きたのか?〉
演算を待つヴァルターが心配そうに覗き込んだ。
「いや、分からない。でも、龍の攻撃から助けてくれた気がしたんだけど、イムはまだ眠ってる。わたしの、幻覚? さすがに疲れてきたのかな」
ヴァルターは何も言わない。大きな石みたいにただそこに佇んでいる。軽薄な男の彼は、だからこそ何よりも一言一言に時間をかける時がある。でも、今回は沈黙を答えとして、その答えに形を与えるのは自分であるべきではないと暗に言っているようだった。
〈計算が終わりました。奴は深部を九時間で一周します。五十時間と十八分後、あなた方と交わる交差点、帝都と深部を結ぶ直線上を通過するでしょう〉
〈五十時間十八分、二日と二時間十八分。了解〉
彼はわたしに向き直った。
〈ユウメ。行くぞ。空間を頼む〉
「……わかった」
イムを抱え直す。力無く投げ出された四肢に彼女の意志は感じない。
〈……ユウメ、さっきの話の続きだが……〉
彼はかなり言葉を選んでいるようで、音節を区切りながら話す。
〈世界を解釈するのは、お前だ。夢で他の誰かの視点を見ることが無いのは、お前の意識はお前の中でしか存在していないからだ〉
私の意識はわたしのものだ。
〈人は英雄に夢を見る。しかし、自分自身が主人公であり英雄であるとはなかなか考えないものだ。だがな、ユウメ。この世界を変えられるのはいつだって、自分の選択だ。意識の、選択だ。自身の主人公は、英雄は、自分なんだ。何かを捨て、何かを救い、何を見るかで世界は変わる。この世界に不条理は無い。それを選んでいるのは、ユウメ、お前だからだ〉
『不条理を受け入れろ』アルキメデスの遺した言葉。過去に固執し、一度決めた選択を迷うわたしは大人になれていないのだろうか。駄々をこねる子供なのだろうか。カッツィの死も、フクロウちゃんの死も、グリズリの死も、ウィズダムの死も、リサの死も、受け入れ、乗り越えるべき不条理なのだろうか?
「……わたしは、まだ迷う必要があるみたい……」
レコードの針も、クジラモドキも、競争と進化も、ぐるぐると廻り続けている。だが、それらは答えがある。廻り続けることが答えだからだ。時計と運命。わたしの思考と意志。いつか、廻ることが答えではないと気づくことができるのだろうか。
〈いいんだ。それでいい――〉
ヴァルターはどこか安心したように言った。
そこからは、数回の返答で終わるような話を続けながら、少しづつ深部を降りて行った。そして、クジラモドキの地鳴りが薄れる頃にまた空間が消える。
「まただ。今度は四枚消された。真後ろの十メートル」
〈こっちから出迎えてやるか、いや、魔力持ちを刺激したくはないな〉
「あれが一匹とは限らないしね……」
〈いや、恐らく個体のプレデターだ。魔力因子を大量に持つ生物は群れなくなる。進化という競争の化身だからな〉
「そうなの? でも人間は……」
いや……今の人間は群れていると言えるのか? どこもかしこも、小さな殺し合いと、大きな戦争ばかり……平和を作るためというより、戦争を作るために、殺し合うために群れている。それは、間接的に隣人を殺しているようなもので、社会では無い。
〈強い意志は社会を作る。前の人類は、それが善意だったが、今は違うってことだな。今、俺らを追ってきているのは、社会を作れないほどの殺意の化身だ〉
「あの灯りはまた灯せないの? というか、あれとかワイヤーとか、どこから出してるの。ポケットに詰めてるわけじゃないでしょ?」
〈もちろん。ポケットにゴロゴロものを入れるのはスマートじゃない。ズボンが脱ぎやすいって利点はあるけどな〉
「キモイ」
〈反応してくれて嬉しいよ。カフェには無視されるからな〉
「で、どっからだしてるの」
〈俺の魔術、狂った交換論理は今現在に自分が所持しているものを、それよりも価値が低いものに交換出来る。価値は世界の市場価値と、俺の欲を参照するから、いま防護服の酸素は金塊並みのものだぜ〉
「ちょっと待ってよ、まさか、酸素を消費したの?!」
残り時間と灯りなら、もちろん優先されるのは時間だ。まさか、そこまでの自己犠牲をする人だなんて思ってもみなかった。
〈まさか! 安心しろよ。俺が世界中の情報を集めているのはそれと同時に物々の市場価値を把握し操作するためだ! 金十グラムで宝石店の端から端を買えるようにしたのは俺の女たちだぜ?〉
やっぱり自己犠牲をする人間とは到底思えないし、するつもりもないみたいだ。その手腕には恐れ入るが、やり方が嫌だ。
「じゃあ、その金を持ってるならあの灯りもずっと灯せるでしょ」
〈あれぐらいの光度をずっと保つのは、今の俺らにとって価値が高い。無駄な散財ってやつさ〉
その通りだ。いま、灯りは金塊よりも価値がある。
〈皮肉だろ。人間至上主義的だ。世界中に溢れインフレしたヒトという種の考える物が、結局は世界の価値を決めるんだ〉
「でも、それが、ヴァルターの人生論を支えてるんじゃない? 世界の価値を決めるのが自分という意識を持っているからこそ」
〈俺の魔術はそれに従うって? 確かにな〉
彼は少しだけ黙った。
〈……本当は、魔術に限界なんてないのかもな。人間の想像力が無限大なように、意識が勝手に世界という枠組みを作って魔術を制限しているのかもしれん〉
そういえば、遠い昔にリサが似たようなことを言っていた。
 




