第78話 黒雲に踊る雑魚
〈しゃがめ!〉
ノイズに感情が乗ったギザギザの声が耳元から響く。叫んだのは恐らく責任者で、白い陽炎の先にあるうっすらとした防護服の背中が二つ、小さく屈んだのが見えた。
イムに覆いかぶさるように手をつくと鈍い鋼の色をした大量の石ころが頭の上を凄まじい速度で通過した。目で追うと、それは蜂の姿に似ていた。羽根が下腹の位置から生えており、片羽根だけでも手の平より大きいもので、お世辞にもいい見た目とは言えない、薄ら寒いものを覚える見た目をしていた。そして、わたしの背後で蜂らしきものの群体は蒸気に吹き上げられ、鉱石に切り刻まれて粉微塵となった。
「今のは何?!」
〈ワーカーの一種です! ワーカーは地域内において点在するプラントへの栄養の補給と繁殖の役割を担う生物の総称で――〉
「プラントってなんなの! 次々知らない単語が出てくる、授業でわたしだけおいてけぼりにされたときみたいな気分だね!」
熱く重い防護服と、ぬかるんだねばつく大地と、悪い視界と気色悪い虫に苛々したわたしは当てつけに叫んだ。
〈頭がつかれたなら課外授業だな! イカれた生態系の見学だ〉
彼が言うと同時に陽炎が薄くなった。熱がだんだんと防護服の冷却機能に追いつけなくなり、徐々に快適さが戻ってきた。あまりに暑さとぬかるみが不快すぎて、防護服の窮屈さを忘れてここが天国だと錯覚した。同じ地獄でも、すこしでも快適な方を人は天国と呼ぶのだから間違ってないだろう。
続くのは、緑色の大地と灰色の森だ。空は光を全く通さないほど濃い雲に覆われ、荒廃した大地が灰色の草原に繋がり、その先には幹も葉も灰色の木々が連なる森があった。森も草原も風に揺れず、まるでモノクロ写真の中に閉じ込められたかのようだ。
〈プラントと呼ばれる生体ピラミッドの下層群はその九十パーセントを管理局にもあったリンクズモドキが占めています。彼らの生態は植物というよりカタツムリのような軟体動物に近い〉
いつの間にか、大地は強固たるものに戻っていた。しかし、足の踏み場も無いほど緑色のリンクズモドキとやらが蔓延っていて、そのまま踏み抜いていいものか躊躇する。
〈踏み越えるぞ、人間に直接的な害はない。それに、こいつらとは最初から最後まで付き合う相手になるだろう〉
リンクズモドキを踏んでみると、確かに、草のようにしなやかに受け止められることはなく、葉のような部分から大地を覆う根まで、強く硬い抵抗があり、後に踏み砕けた。釘の集合体や硬いガラスの山を踏んだらこんな感覚がするのだろう。
「硬い。金属でできてるみたい」
〈それが甲殻で、正に金属であり、鉛の成分が多く含まれ、それが汚染に対する防御壁になるのです。つまり、その甲殻の内側には軟体生物が詰まっています〉
足を上げると、透明の粘つくものが足に張り付いて気持ち悪く伸びて切れた。憂鬱な気持ちになった。
〈こいつらは、根のような部分が足であり口、歯舌があり、それで大地を分解し甲殻の素材としたり、ワーカーの運んできた死体を食べたりして栄養を補給します。そして、ワーカーやプレデターはこいつらを食し、汚染に対する防御手段を確立するのです〉
わたしは彼の丁寧な説明を聞き逃さざるを得なかった。やっていることはカタツムリが大量発生した地面を踏み歩くことと同義のことである。すごく嫌だ。
「くそ……我慢ならないぐらい気持ち悪いな。ねぇ、あの蜂ってワーカーの何という名前なの?」
わたしは気を逸らすためにガイドの声をよく聞くことにした。実際に新世界の未知の生態を聞くのは、良い刺激になっていたからだ。
〈名前はありません。今後付くこともないでしょう。汚染地域は進化のサイクルが早すぎて名付けが追いつかない。むしろ、名付けたその瞬間に種が絶滅してもおかしくないほど過酷です。特にワーカーは〉
「じゃあ、名前がついている奴は、それなりに完成された種ってわけ」
〈到達種。我々はそう呼びます〉
このリンクズモドキもその到達種というわけだ。
だが、わたしは気づいた。もう、魔術が使える。空間の上を歩けばいいじゃないか。そうして、発見は疑問につながった。
「ねぇ、あの魔術封じの鉱石ってどういう仕組み? 魔力のもとは『A』と『B』なんでしょ?」
〈そうだ。魔術師は因子を燃やしてエネルギーに変える器官が脳にある。それが回路だ。あの鉱石はその回路の動きを阻害する〉
「ふぅん。じゃあ、一度エネルギーに変換したものを消し去る効果は無いわけだね」
わたしの悪知恵が稼働した。
「ちょっと、試していいかな」
少しの実験時間を貰った後、満足の結果を得られたわたし達は行進を再開した。
しばらくはカタツムリを踏む感触から逃げて、空間を床にして歩いていたが、このリンクズモドキとはずっと付き合っていかなければならず、それを考えるとその行為はあまりに非効率的だった。しかたなく、不快感に身を落とし雑草を踏むようにそれらを踏み殺した。
灰色の森に近づいているが、ずっと正面からの強い風が吹いている。追い風が吹いてくれたら心強かったが、恐らく、これは対侵食域の熱のせいだろう。空気は温められると空に昇り、同時に冷たい空気を引っ張るから風が吹くと、姉に教えられたことを覚えている。だから汚染地域は灰色の空に沈んでいるのだろう。噴出した水蒸気と、持ち上げられた熱が大量の雲を量産しているのだから。
灰色の空と、灰色の森、灰色の大地……ではなぜ、このリンクズモドキには緑色の個体が混ざっているのだろうか。灰色の海でその色に、どんなアドバンテージがあるのだろう。責任者に聞くと、クスリともしていない硬質的な声が返ってきた。彼がクスリとするところは想像できないが、喜の状態を想像させるほど、明確な反対の感情が乗っていた。
〈海に哺乳類がいる理由と同じです。一度外に出て、適応し……そして戻ってきたんですよ。汚染地域を、自らの生息域を広げるために外の草原へ紛れるためのカモフラージュ。……リンクズモドキは何度も何度も進化を繰り返しています。外の生物とは比べ物にならにスピードで。本来、奴らの卵はワーカーがバラまきますが、卵に風散布植物の持つ翼果のような羽根を生やし水蒸気熱による対流で生じた上昇気流に乗り、対侵食域を超えようとしました〉
「それで? どうなったの?」
〈対侵食域を超えた、二百キロ四方に卵がバラまかれ、汚染による影響で、影響範囲内のほぼ全ての生物の遺伝情報が損傷、小動物の大量死と数十世代に残る汚染の催奇性により、その子の代は、ほぼ全て奇形か死亡、二種の生物が絶滅し生態系が崩壊しました。汚染は生物に乗って運ばれるため、除染のために生物を大量に殺さなければならず、更に灰の粒子と同じ大きさの小さい卵と緑に紛れたリンクズモドキを探さなければなりませんでした。あの作業は思い出すだけでも誰でもいいから殺したくなるほどでしたね〉
暗に二度と聞くなという警告は無視する。
「二百キロ四方ほどの広大な範囲なら、フロント山、ファウンの故郷も含まれているはず……それに、それなら帝都に近い街にも降ってきているでしょ、なのに、そんな事件聞いたことがない」
舌打ちの音がノイズ交じりに聞こえた。
〈パニックを避けるために、情報を統制する必要がありました。こんなことを言い合っている場合じゃないでしょう……〉
彼は聞き分けの悪い子供に向ける言葉を放つ。わたしはその姿に無性に腹が立った。そもそも、わたしは裏でこそこそと糸を引く卑怯者が嫌いだ。技構はその筆頭であり、不透明さで言えば赤い手と変わらないじゃないか。だが、わたしは渦巻く不満をグッと抑え込んだ。
「言い合うつもりはないから、ただ聞きたいだけ。その範囲内の人間はどうしたの?」
〈人間も生物の枠組みと同じですよ。それとも、人間は特別な動物と認識しているクチですか?〉
「……」
別に、世界の裏側で他人が死のうがどうでもいい。イムと友達と家族が生きてさえいればいいが、出来ればその友達の家族も幸福でいて欲しいと思っただけだ。
この事件がいつ起きたのかは分からない。責任者もこれ以上は語らないだろう。……妙な推測が頭によぎった。あの先輩、赤い手のあの先輩は、何故わざわざフロント山へ向かい、偶然にもファウンを食べた熊を殺したのか? フロント山に向かった理由は話していなかった。何か特別な思い入れもない限り、辺境に行く用事なんてないはずだ。
……もし、除染の為に人間の殺害をするならプロを使ってもおかしくない。それも、秘匿され、実力と実績のあるプロの集団、赤い手。わざわざ熊を殺したのも、汚染の伝染防止と考えれば、すごく……辻褄が合うのだ。となれば、彼女の故郷も……
いや、よそう。ただでさえ、わたしは今精神的に不安定だ。考えが悪い方向に行っているだけに過ぎない。
……未だに、赤い手が誰の依頼でイムを狙っているのかは分かっていない。ズグロら王国の一派か、そもそもズグロ達は王国の味方なのか? ……唯一確かなことがあるとすれば、ズグロは赤い手と同時にわたし達を狙ってはいないということだ。つまり、赤い手は王国の命令で動いていない可能性が高い……
技構はいつでも、どこにでもいる。イムの魔術を知れる位置にいたとしてもおかしくない。そして、汚染対策に情報を秘匿して人を殺害する組織が、その魔術を危険視し、念のために暗殺の依頼を出してもおかしくはないんじゃないか……
これはこじつけか、それとも何か真理に触れる物か?
ヴァルターは本当に信用していいのか?
わたしは、視野狭窄と疑心暗鬼を起こしているだけなのか?




