第77話 宙の主
『A』
生物が先か因子が先か、鶏が先か卵が先かは分からないが、ずっと昔から魔力因子という名の『進化』は堂々と存在していた。人類が頂点に座る生態系ピラミッドのさらに上で、彼ら進化という生物はこの世の全ての生物に寄生し、冬虫夏草が宿主の死体の上で胞子を飛ばすように、大気にも『A』が散りばめられていたという。
そして進化のサイクルを超越的に早めた『A』は、また、別の生命体を進化させた。それが、わたし達がクリュサオルと呼ぶ黒い線虫『B』。
「ちょっと待って……頭が疲れてきた。クリュサオルは、ずっと、すごく昔からいたってこと? 一つだけ確かなことがあるとすれば、ヴァルターはわたし達があの虫の正体に頭を悩ませている間も、ずっと知ってて黙ってたってワケね」
蒸気噴出孔の頻度が目に見えて増え、温度が尋常ではない速度で上がっていることを肌で感じる。粉砕された魔力封じの鉱石が砂嵐となって防護服を撫でつける音と共に、ヴァルターのやや面倒がったような声が耳元で聞こえた。
〈それも説明してやるから聞いてろ。俺なりの考えがあったんだよ。まず、『A』と『B』は同じ魔力因子という括りで、生物の進化を餌にして数を増やす。だが増えすぎた『A』に自然の自浄作用は天敵を与えた。それが『B』。『B』は『A』を一方的に食うことが出来た。『A』も多少は抵抗出来たが、『B』の凶暴性は圧倒的だった〉
人工の冬が訪れ、飢餓と天候の変化によって死が蔓延した世に、死と同じように『A』は溢れかえった。その増えすぎた『A』を食料とする『B』が生まれた。わたし達の知らない場所、舞台裏で行われていた生存競争。彼ら因子にとっては、わたし達こそ舞台裏だったのかもしれないが、どっちにしろ、彼らは人類の手に届かず、目にも見えずに隣人として存在し、そして戦っていた。
〈『A』は完全に、被捕食者になる。『A』の因子に『B』への対抗手段は無く、されるがままに食い荒らされた。だが、『A』はそれで終わらなかった、奴らは『B』に対抗するために、寄生した生物を進化させた、それが、魔力因子を燃料としてエネルギーへと変換する力を持った生物。魔族だ〉
「ま、魔族? そんなの、御伽話とか獣王紙とかのゲームに出てくるものでしょ……それに、その話が正しいことだとしたら、わたし達は……」
〈民俗学で資料にされるのは、そういった御伽話やゲームだぜ? 衝撃で考えるのが追いつかなかったら、今はただの情報として受け入れろ。お前の考えている通り、俺たち魔術師が――魔族だ〉
わたしは完全に閉口した。盤石な根拠と共に人間じゃないと言われれば、誰だって口を閉ざさるを得ない。
〈『A』は善意を取り除いた人類に魔術という棍棒を与え殺し合わせた。魔術師にとっての魔力、つまり燃料となるのに『A』『B』も選ぶことは出来ない。つまりこれは『A』にとって唯一敵対者を殺す手段だったが、唯一の自殺手段でもあった。だが、それでも『B』の不死性は剥奪され、競争を膠着状態に落としこめるというメリットがあった。ところで、獣王紙のルールは覚えているか?〉
「あ、あぁ、うん。
魔族は王族に強く
王族は獣族に強く
獣族は魔族に強い、だよね」
〈最も本義の人に近い王族が人族と呼ばれなかったのは、この三族はつまるところ、全て人類だからだ。区別するために、進化を迎えていない人類を率いる王として呼ばれた。そして、獣族。今は獣人と呼ばれている人類。奴らは『B』が家畜や獣を進化させたものだ〉
「そうか……防御魔術を持つ、肉体の強い獣人は、魔術師を殺しやすい」
〈そうだ。唯一『B』を殺せる魔術師、魔族の頭数が減れば『B』はそれだけ繁栄する。現に、王国は獣族によって、崩壊寸前にまで追い込まれた〉
だが、滅びなかった。二人の魔術師によって、その歴史は断ち切られたのだ。王国の英雄、開闢の英雄、彼らは、魔術師として初めて到達したのだから。
「最初の特異点到達者……」
〈代理戦争ってわけだよ。『A』と『B』は人類を駒として戦術性を持たせ、進化させ、お互いを削り合い争い合う。戦争だ。延々と、正しく永遠と続く戦争。魔族個人の特異点到達によって今度は『B』が手を打った。汚染地域は、つまり爆心地を中心、深部として広がる超越的な進化のサイクルが未だ続いている。人間の髪の毛一本の情報から、数日で文明が生まれるほどの超越的な進化、その中で『アァ レウェ』、宙の主が、産まれたんだ〉
そうか。だから、責任者達、技構の人間は汚染地域に人間の遺伝子を落とすことを恐れていたんだ。この灰色の大地には、人骨も埋まっている。彼ら管理局は『アァ レウェ』を発見し、討伐しようとしたように、驚異的な進化を迎えた生物を管理していたのか。
〈……汚染地域に目のある生物は存在しえません。なぜなら、それはそのまま汚染の光を受け入れうる弱点となりますから。ですが、アレには剥き出しの瞳があった。それも、いくつも。あれは光を観測する瞳ではなく、因子を観測する瞳だったわけです。生物史上初の、因子の存在を知り得る器官〉
〈そうして『アァ レウェ』は誕生したってわけだ。盤面の破壊者として成る前に、王国から開闢の英雄を借りた技構が捕獲した〉
「成る前? 生物を視認するだけでおかしくなる存在が、盤面の破壊者には成っていないって?」
〈作戦時、奴には、観測する瞳しかなかった。あいつは頭の中のクリュサオル、『B』を使役して人の脳をどうとかする力は無かった。使わなかったのか、使えなかったのかは分からない。だから、大した被害も出さずにあの化け物を捕獲できた〉
奴の攻略に役立つ情報は期待できなさそうだ。
「なんで、その時に殺しておかなかったの?」
〈汚染地域の特異生物はある判定を受けると、可能なれば、捕獲しての研究が推奨されます。進化の傾向を探るのはもちろん、地域の侵食に対策しなければなりませんので。現に、今あなたの耳だけに届いている情報はアァ レウェの瞳を研究し、因子の存在を確たるものにしたことによって筋道を立てられたものですよ〉
ぬかるんだ大地が足を掴んで進行を遅らせる。溶けた飴玉みたいにへばりつく地面に倒れ込み、どこかの噴出孔にかすりでもすれば蒸気が防護服を切り裂き、熱と汚染の二段構えで死亡する。
わたしは、イムがわたしの腕の中にいることを再確認して、歩みを確かなものにした。カッツィが死んだことを伝えてから、彼女は目覚めていない。もし、今目が覚めてこの地獄の状況に驚いてしまったら、わたしの判断力が試されることになるだろう。わたしは、次々と追加される情報に頭を悩ますことを止め、ただの文字と音声として受け入れることにした。
「ごめん。少し考えてた。続きをお願い」
〈アァ レウェに観測された『B』が妙な反応をすることは分かったが、それが具体的に生物に対してどう影響するのか、分かっていなかった。今なら分かる。それを分からせないように、奴が『B』を操作しなかっただけだ。妙なのは捕獲されてから今まで、奴を制御する鍵は技構が握っていたにも関わらず、何故か王国が制御権を握っているという事だ〉
〈今の話は、僕も初耳なのだが。奴は技構の研究下にいるはずだろう? いや、まさか、簡単に捕獲されたのは『B』を使役するタネをばら撒いて、汚染地域から抜け出す筋書きでも描いていたというのか〉
汚染地域から抜け出さなければ、魔術師の脳に存在する『B』を使役することは出来す、せっかくの進化も無駄になる。だから、あえて簡単に捕まり、研究される中で虎視眈々と勢力を広げていた。遺伝子にすら刻まれた狡猾さ、それは人間の狡猾さにそっくりだ。
「じゃあ、王国の人間も操られてるってことね。全部……アイツが……」
〈蛇に唆されたのではなく、奴自身が蛇だった。というわけですか。しかし、奴はこれ以上何を待っていたのでしょうか。今頃戦争を始めても、冬を超えるまで満足に王国と帝国は殴り合えない。魔術師を殺すなら、もっと早くに開戦するべきでした〉
「それは、たぶん……」
黒いバイザーと白い陽炎の先にうっすらとイムの顔が見えた気がする。苦しそうだ。苦しめているのは、奴だ。
「アァ レウェは観測した人間を二週間近くかけて発症させる。発症したら、たぶん、その人間の魔術を使えるようになる。本の写しを取るみたいに、脳の回路を写して……」
そして、それをただの人間や、動物の脳に写すこともできる。非術師であるネームレスが空間魔術を使っていたことや、学園を襲った透明化の魔術を使った鳥類がそれを教えてくれた。
〈僕も奴を観測しましたが、発症はしていない。もししていたのなら防護服をすべて破壊していたはずですから。つまり、奴は、君が運ぶ彼女を発症させることに全力を注いでいる。それほど、彼にとって決定的な価値が彼女にはあるということでしょうね。ところで、彼女の魔術を聞いても?〉
「内の瞳。魔力因子を観測し、そして、手に届かない位置の因子を操作し、万象を司る魔術」
ジジッ、ジジッとノイズが走った。それは二人の沈黙と、その内面に迸った最悪の予想を直感的に音で表したようなノイズだった。蒸気の嵐が、妙に静かに聞こえた。
〈最悪の、本当に最悪の想定ですが、それがもし、あの宙の主の手に渡れば――〉
〈あいつにとっては、戦争なんて副産物だったわけだ……ここまで待ち続けたのはそのためか……〉
〈えぇ、そうでしょうね。可能でしょう。――全生命体の一斉発症。彼は、真に神となるのです〉




